1 / 3
掌編(年末SS)・上
おろおろとした気配を背中に感じたが、アザミは振り向くことなく、苛々とティーカップを持ち上げた。
しずい邸の片隅にある相談室と銘打たれた部屋には、アンティークなテーブルとソファが配置され、給湯設備も整っている。
アザミは手ずから淹れた紅茶を舌に乗せ……その熱さに眉をひそめた。
「あの……アザミさま」
低く、やさしげな声がアザミを呼ぶ。
アザミ、とこの男は口にするが、厳密にはもう、アザミはアザミではなかった。
般若 、という男衆 の一員として、名を捨てた存在だ。
だから、というわけではないが、アザミは頬杖をついたまま男の声を黙殺する。
「アザミさま」
もう一度、呼ばれて……アザミは不機嫌な表情で振り向いた。いまは般若の面をかぶっていないので、アザミの顔を見れば怒っていることが知れるだろう。
アザミの右斜め後ろには、巨躯の男が立っている。
剃髪がスタンダードな怪士 面の男衆の中で、唯一蓄髪がゆるされている男。
アザミ付きの、アザミのためだけの男衆だ。
逞しい体をこころなしか小さく縮めて、怪士が頭を下げた。
「勝手に外出をして、申し訳ありませんでした」
男の言葉に、アザミの苛々が更に刺激される。
朝、アザミが目覚めたら、怪士の姿がなかった。
この男は淫花廓 の中では例外的に、比較的自由な外出が認められている。
病気の母親がいるという理由も大きかったが、それ以上に、アザミが淫花廓 から出られない、ということがあるからだった。
楼主曰く、
「これ以上の人質はねぇだろう」
である。
正直、アザミにはよくわからない。
アザミの存在が、怪士の中で人質足り得るのか、不確かであった。
怪士が真実、外の世界に戻りたい、と思ったときに。
アザミの方を選ぶとは、どうしても思えないのである。
だから今日、怪士の姿がなく、少し外出してきます、という書き置き一枚が残っているのを見たとき。
ついに、この日が来たのだ、と思ったのだった。
ついに、怪士がアザミから離れる日が来た、と。
これまで怪士は、心臓を患っている母親の移植手術後の経過を見るために、楼主の許可を得てひと月に一度外出していた。
彼は出掛ける前にきちんとアザミにも声をかけてくれたので……もう帰って来ないかもしれないという不安はあったものの、夕方には戻ります、という男の言葉を信じてまだ待つことが出来たのだ。
けれど今朝はそれすらもなく……。
アザミはひとり、恐怖と闘っていたのだった。
いつの間にこんなに弱くなったのだろうかと思う。
アザミはいつの間に……怪士なしでは生きていけぬほど弱くなってしまったのだろうか。
アザミの弱さを、この男は知らない。
だから、アザミは口にはしない。
おまえが居なくて、寂しかった、なんて。
おまえが居ないと、不安でたまらない、なんて。
絶対に、口にはしない。
「アザミさま。勝手をして、申し訳ありませんでした」
再び、怪士が謝罪をした。
アザミが無言でいると、男が困り果てたように項垂れて……能面を静かに外した。
男らしく整った顔が露わになり……その濃い眉が苦悩するように寄せられていた。
「……おまえがどこに行こうと、おまえの勝手だよ、怪士」
頬杖のままで、アザミは素っ気なくそう言った。
精一杯の虚勢だったが、声が少し掠れてしまった。
「アザミさま……あなたの居るところが、俺の居るところです」
体躯に相応しい低音で、男がそう囁く。
喜びがじわりとアザミの内側を焼いたが、そんな言葉をやすやすと真に受けたりはしない。
真に受けるな、と自分に命じる。
「僕が起きるのを待てないぐらいだ。さぞ大事な用事があったんだろう。外に未練があるのなら、もう帰って来なくてもいいんだよ」
無理やりに、アザミは笑った。
男娼だった頃は、気持ちの伴わない笑みを浮かべることは簡単だった。
けれどこの男を相手にすると、それも難しくて……。
随分とぎこちない微笑になってしまう。
「いいえ、アザミさま」
怪士が首を横に振った。
アザミは犬でも追い払うように手を振って、男から顔を背けた。
「もういい。向こうへ行ってろ」
アザミの命令に、怪士が吐息を零した。
背後で、男が動く気配がする。
遠ざかってゆくその足音に、アザミは泣きたくなった。
テーブルの上に置いてあった、般若の面を引き寄せる。
嫉妬を表現した、鬼女の面。
まるでアザミそのものだと思う。
この面をかぶれば……醜い内面を怪士に晒さずに済むだろうか。
アザミは爛爛と光る金色の不気味な目を、指先でなぞり……それを装着するために、持ち上げようとした。
その時。
音もなく、静かに白い箱が上から降りてきて、テーブルに乗った。
箱には、赤いリボンが掛かっている。
え、と驚いてアザミは横を振り仰いだ。
部屋を出て行ったと思った怪士が、そこには立っていた。
彼は、箱をアザミの前に置くと、絨毯の床に片膝を付いて身を屈めた。
「これを……あなたに、差し上げたくて」
ともだちにシェアしよう!