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掌編(年末SS)・上

 おろおろとした気配を背中に感じたが、アザミは振り向くことなく、苛々とティーカップを持ち上げた。  しずい邸の片隅にある相談室と銘打たれた部屋には、アンティークなテーブルとソファが配置され、給湯設備も整っている。  アザミは手ずから淹れた紅茶を舌に乗せ……その熱さに眉をひそめた。   「あの……アザミさま」  低く、やさしげな声がアザミを呼ぶ。    アザミ、とこの男は口にするが、厳密にはもう、アザミはアザミではなかった。  般若(はんにゃ)、という男衆(おとこしゅう)の一員として、名を捨てた存在だ。  だから、というわけではないが、アザミは頬杖をついたまま男の声を黙殺する。 「アザミさま」  もう一度、呼ばれて……アザミは不機嫌な表情で振り向いた。いまは般若の面をかぶっていないので、アザミの顔を見れば怒っていることが知れるだろう。  アザミの右斜め後ろには、巨躯の男が立っている。  剃髪がスタンダードな怪士(あやかし)面の男衆の中で、唯一蓄髪がゆるされている男。  アザミ付きの、アザミのためだけの男衆だ。  逞しい体をこころなしか小さく縮めて、怪士が頭を下げた。 「勝手に外出をして、申し訳ありませんでした」  男の言葉に、アザミの苛々が更に刺激される。  朝、アザミが目覚めたら、怪士の姿がなかった。  この男は淫花廓(いんかかく)の中では例外的に、比較的自由な外出が認められている。  病気の母親がいるという理由も大きかったが、それ以上に、アザミが淫花廓(ここ)から出られない、ということがあるからだった。   楼主曰く、 「これ以上の人質はねぇだろう」  である。    正直、アザミにはよくわからない。  アザミの存在が、怪士の中で人質足り得るのか、不確かであった。  怪士が真実、外の世界に戻りたい、と思ったときに。  アザミの方を選ぶとは、どうしても思えないのである。  だから今日、怪士の姿がなく、少し外出してきます、という書き置き一枚が残っているのを見たとき。  ついに、この日が来たのだ、と思ったのだった。  ついに、怪士がアザミから離れる日が来た、と。  これまで怪士は、心臓を患っている母親の移植手術後の経過を見るために、楼主の許可を得てひと月に一度外出していた。  彼は出掛ける前にきちんとアザミにも声をかけてくれたので……もう帰って来ないかもしれないという不安はあったものの、夕方には戻ります、という男の言葉を信じてまだ待つことが出来たのだ。  けれど今朝はそれすらもなく……。  アザミはひとり、恐怖と闘っていたのだった。  いつの間にこんなに弱くなったのだろうかと思う。  アザミはいつの間に……怪士なしでは生きていけぬほど弱くなってしまったのだろうか。  アザミの弱さを、この男は知らない。  だから、アザミは口にはしない。  おまえが居なくて、寂しかった、なんて。  おまえが居ないと、不安でたまらない、なんて。  絶対に、口にはしない。 「アザミさま。勝手をして、申し訳ありませんでした」  再び、怪士が謝罪をした。  アザミが無言でいると、男が困り果てたように項垂れて……能面を静かに外した。    男らしく整った顔が露わになり……その濃い眉が苦悩するように寄せられていた。   「……おまえがどこに行こうと、おまえの勝手だよ、怪士」  頬杖のままで、アザミは素っ気なくそう言った。  精一杯の虚勢だったが、声が少し掠れてしまった。   「アザミさま……あなたの居るところが、俺の居るところです」  体躯に相応しい低音で、男がそう囁く。    喜びがじわりとアザミの内側を焼いたが、そんな言葉をやすやすと真に受けたりはしない。  真に受けるな、と自分に命じる。 「僕が起きるのを待てないぐらいだ。さぞ大事な用事があったんだろう。外に未練があるのなら、もう帰って来なくてもいいんだよ」    無理やりに、アザミは笑った。  男娼だった頃は、気持ちの伴わない笑みを浮かべることは簡単だった。  けれどこの男を相手にすると、それも難しくて……。  随分とぎこちない微笑になってしまう。 「いいえ、アザミさま」  怪士が首を横に振った。  アザミは犬でも追い払うように手を振って、男から顔を背けた。 「もういい。向こうへ行ってろ」    アザミの命令に、怪士が吐息を零した。  背後で、男が動く気配がする。  遠ざかってゆくその足音に、アザミは泣きたくなった。    テーブルの上に置いてあった、般若の面を引き寄せる。  嫉妬を表現した、鬼女の面。  まるでアザミそのものだと思う。    この面をかぶれば……醜い内面を怪士に晒さずに済むだろうか。  アザミは爛爛と光る金色の不気味な目を、指先でなぞり……それを装着するために、持ち上げようとした。    その時。    音もなく、静かに白い箱が上から降りてきて、テーブルに乗った。  箱には、赤いリボンが掛かっている。  え、と驚いてアザミは横を振り仰いだ。  部屋を出て行ったと思った怪士が、そこには立っていた。  彼は、箱をアザミの前に置くと、絨毯の床に片膝を付いて身を屈めた。 「これを……あなたに、差し上げたくて」  

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