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金は何も生まない①
『さよなら、いままでありがとう』
夕方、大学の授業を終わらせて俺が自分の部屋に帰るとそんな手紙が机の上に置いてあった。三ヶ月前から同居していた恋人に逃げられた。五つ歳上の無職の男。恋人だと思っていたのは俺だけだったのかもしれない。身体の関係はあった。でも、好きとは言われていない。
分かってるさ、あいつがヒモだったことくらい。俺が、大学生で金が無かったから居なくなったんだ。捨てられたんだ。金は何も生まなかった。
「好きだったのにな……、はあ……、バイト行くか……」
帰ってきたばかりだったけれど、また玄関の扉を開けて俺は外に出た。夕日が眩しい。
あいつは居なくなったんだから、バイトなんて行く必要はない。自分一人だけなら実家からの仕送りで十分暮らしていける。でも、今はバイトに行きたい気分なんだ。仕事をすれば、きっと、何も思い出さなくて済む。早く忘れるべきなんだ。
バイト先はヤコーマートというコンビニである。
「あれ、玉木くん、今日早いね」
事務所に入ると女店長が驚いたような顔をしていた。
「すみません」
今月いっぱいで辞めさせてください、そんな言葉が喉につっかえて出てこなかった。
「いいよ、こっちは助かるよ」
それはどっちの意味なのか、と錯覚を起こしそうになる。居てもらって助かるのか、辞めてもらって助かるのか、気分の落ちた人間は悪いことばかり考えてしまうんだな、と思った。笑うのも一苦労で。
「着替えて出ますね」
直ぐに着替えて、俺は品出しを始めた。木曜日の夜、客の入りはまあまあで、そのうち店長が帰宅した。夜十一時からの次の人、橋下(はしもと)さんというフリーターの男の人が来るまで、俺は一人だ。橋下さんが来たら、交代して、帰って寝よう。
ペットボトル飲料の品出しをして、雑誌を整えて、タバコの数を数えて……、ああ、このタバコ、あいつが吸ってたやつだ。思い出したくないのに、思い出さない方が良いのに、匂いまで思い出してしまう。封なんて開いてないのに。
あいつは、今、どこで、誰と一緒に居るのだろうか。ちゃんとご飯を食べただろうか。そんなことばかりを考えてしまう。
「はあ……」
誰もいない店内で、深く息を吐いた。長く感じる時間が、やっと過ぎて時計の針は十時半過ぎを指していた。もう少しで、家に帰れる。仕事をしたって忘れられるものじゃ無かった。寝たら、少しは思い出が薄れるかもしれない。そう思った時だった。
一人の男が入店してきた。いや、"多分"男だ。コンビニではヘルメットを被っての入店はお断りしているが、その男は黒のヘルメットをしていた。フルのやつだ。
「すみません、ヘルメットを被ってのご入店はお断りしているんですが」
「うるせえ!怪我したくなかったら、金出せ!」
レジに立った俺が注意をすると、男は懐から取り出した包丁を俺に突きつけてきた。怪しいとは思っていたけれど、今日はとことん運が悪い。悪いことばかり起こる所為か、俺はかえって冷静だった。もう、どうなっても良いや、とも思っていたのかもしれない。
「やめてくださいよ、あなた、捕まりますよ?今の警察は直ぐに犯人特定しますからね」
「うるせえ!」
同じことしか言えない単細胞かよ。とても面倒くさい。どうしようか、と考えた時、開閉の音楽と共に店の自動ドアが開いた。入ってきたのはスーツを着た四十代くらいの男だった。
「馬鹿なことはやめなさい」
突然入ってきて、なんなのだろうか、このおじさんは。口調も先生みたいに上から目線だし、これでは犯人を刺激してしまうじゃないか。
「なんだ!あんた!」
「馬鹿なことはやめて、家に帰りなさい。いや、馬鹿だから、帰る家の場所も忘れてしまったかな?」
「なんだと?」
この人は、何故、男を挑発しているのだろうか。とても強い人間なのだろうか。実は警察の偉い人でした、とか。柔道は黒帯です、とか。なら、任せておいても良いかな。そう思ったのに……、一体何が起こったのか、気付けば男の身体がおじさんに近付いていた。
数秒後、おじさんは男に包丁で刺されたんだと俺の頭が認識した。
「……くっ、ありがとう……」
刺されてるのに、どうして礼なんて言うのか。驚いた男は包丁を投げ捨てて、店から出て行った。
「あんた、何考えてるんだ!馬鹿か!あー、救急車、救急車!」
その後のことはよく覚えていない。店の床が血だらけだったってことだけは、よく覚えている。橋下さんが来て、何故か俺はおじさんと救急車に乗って……、どうして、こうなったのか。
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