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初夜 12

この性交が初夜と呼ぶには過激に過ぎた事は言うまでも無い。年甲斐も無く羽目を外した事を恥じるべきか逡巡し、首を振った。「何度もある内の始めの一回が薄れてしまわぬよう、今宵の事はきちんと覚えておきたいのだ」と翠は口にしていたし、それに俺のする事ならば何もかも許してしまう等と健気も過ぎた事を口にしていたではないか。斯様な思い上がりも甚だしい思考を巡らせた己に自嘲を覚えるが、しかし望み通りの「忘れられぬ一夜」となったのは間違いなかった。翠は胡乱だったまなこを伏せて眠りに落ちている。気を遣るほど激しい初夜であれば、この目蓋の奥に残り続けるだろう。  親指で翠の眦をなぞると今更になって、この造形美の真髄が宿る肉体を拓き、穢した背徳感に身震いが起こった。天の物に手を出してしまった気分だ。例えば巫女の様な。……今では身を以て翠にも人並の男の欲が確かに在ると分かっているのだが、この男を細工物か何かと捉えている節が在ることは否めなかった。翠が俺を君子か何かと思い込んでいるきらいがあるのと同様、こちらはこちらでこの花児を俗人より一段高みに置いてしまう。俺はともかく、翠菖輝に関してはこの人並み外れた器量を目にしてしまえば致し方ないと思うが。  あれ程激しく抱かれた後にもかかわらず安らかな寝息を立てている姿を見下ろすと、改めてその類い希なる造形に見入る。  筋の通った鼻から小さな顎まで寸分の狂いも無く組まれた骨格、滑らかな額、上気した頬の肌理の美しさ。ふっくらと肉感的でありながら果肉の様な艶を放つ唇。筆で描いた様に精緻な眉と、そして何より印象的である桃花眼ーーそれを囲む様にして密に生え揃った睫毛と目蓋に引かれた見事な二重の溝、その奥で潤む青みがかった黒目。それが俺の名を呼び慕う時、どの様に潤むかを身を以て知っている。更に首から下は北方の民の特徴であると言う華奢な体躯があり、それを染み一つも無い絹の如き肌が爪先までを覆っているのだ。もしこれが人形であったならば、それは稀代の職人の手による傑作であったに違いないと、見る者を圧倒させる姿。無骨な手で触れるのを躊躇う程であるこれを、乍はよく無理に手込めにしようと出来たものだった。  ーー人より欲の薄い方だと、自他共に認めていた筈だったのだが。鍛冶仕事にしか興味が無く、麓で欲を散らす事すら稀であった己が今宵はあれ程昂ぶり、肉欲に溺れた。己すら知る由も無かった雄を暴き立てられたのは翠の姿の美しさ故か、またその心の燃え上がる様に当てられた故か。どちらにせよ、恐らく俺はこの男を自ら手放しは出来ないのだろうと、乱れた黒髪を整えてやりながら思うのだった。  明くる朝、戸口で剥き身の金貨を突き出して来る男を乍はまじまじと眺めた。無造作に纏った衣、薄らと生えた無精髭。日が昇るや否や髭も剃らずに小屋を抜けて来たと思しき風体に、口の端を吊り上げる。 「たった一晩で随分男が上がったなあ、芳の旦那」 「お前は酒臭いな。一体何時まで飲み明かしていたのやら気が知れぬ」 「衛が離してくれなくてなあ。余程あの花児を逃したのが惜しかったと見える。しかしあれに翠を抱かせねえで正解だぜ。あいつの酒癖は酷いもんだ。元は景気付けに一杯引っ掛けてから寝台に突っ込んでやる算段だったんだが、叶ってりゃ今頃手酷くやられてただろう。あれなら俺に抱かれてた方がましってもんだ。男を抱くのには手慣れてるし酒で我を失うヘマもしねえ」 「……お前などにもあれはやれん」  その言葉と鋭い視線に、乍は内心目を瞬かせた。目の前の男は乍の知る芳禮皓とは明らかに変わっていた。浮き世離れした佇まいは変わらずだが、眼力や言葉の端々に昨晩までは見られなかった気迫めいたものを感じる。  その原因については言うまでも無い。 「あんたに取っちゃ、金三枚でも安い買い物だったらしいな」  芳の手に下げられたままの金を受け取ろうと手を伸ばすとそれを避けられ、途端に乍の眼光が鋭くなる。しかし乍の目の前に再び突き出された手に乍は目を丸くした。 「……これは一体何だ?」  芳の手には乍の要求通りの金三枚に加え、更に二枚が足されていた。その訳を目で問う。 「昨晩、身内で下らぬ賭けをしていると言っただろう。翠の初夜を誰が貰い受けるか。その為に衛を誘ったのだったか」 「ああ」 「しかし俺の所為で当てが外れただろう。だからこの金を衛に渡し、口裏を合わせて儲ける積もりだと言っていたな。その賭け、外れたならば損はこれで補えるか」  金二枚。それは確かに十分な額であった。本来の取り分を思えばそもそもの金三枚を衛と分けても元は取れている。職人同士の賭事の相場など高が知れている事は芳にも分かっている筈であり、だからこそ乍は疑り深く芳を窺った。 「一体どういう積もりだ? 欲の無いあんたに取っちゃ金なんて大した使い道もないだろうが、棒銀なんてそうほいほい投げ出すもんじゃあねえ。追加で二枚も渡されちゃあ、その訳くらい聞かせてもらわねえと」  問いを投げ掛けられた芳は一瞬地面へ視線を逸らす。その顔にはどこか呆れた様な苦笑が浮かんでいた。 「……さてな。実の所は俺にも分からぬ。只……翠を弟子に取ると決めたからには、他の男が初夜を貰い受けたと風聞が立つのは癪に障るのだ」 「あんたからの口止めって訳だ。昨晩の事は他言するなと」 「ああ」 「一本は衛の奴にくれてやる。他言無用と念を押しておこう。それでどうだ」 「良いだろう」  乍は頷き、今度は遠慮無く金を掻っ攫う。 「剣仙様にも人の心があったって事かね。お目出度いことだ。……で、とびきりの上玉との一夜はどうだった」  わざと逆撫でする様な言葉を選んだ乍の意地悪さには気付いたかそうでないのか、芳はぽつりと呟いた。 「……鉄の様だ」 「鉄?」  首を傾げる乍に芳が首肯する。 「……己の身も心もまるで手中に収まらず、ひたすらに炉の中で焦がれ燃ゆるーーその様な心地だ」  その芳の口から出たとは思えぬ物言いに、流石の乍の人を食った様な笑みも失せて瞠目した。一方で芳はもう用は無いと踵を返す。その朝陽に照らされた黒い背中に、乍は確かに鉄の如くとも形容出来そうな熱を見い出すのだった。

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