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第1話
動機はいつも不純で、衝動はいつでも突発的だ。
理由はいつもちっぽけで、本音はいつでも裏返しだ。
気持ちなんて嘘吐きで、身体はいつでも正直だ。
私には彼を愛する動機が判りません。
「全ての蛇口からお酒が出れば良いのになぁ」
あまりにも素っ頓狂な言葉に、私は頭を抱えた。美しさを放り投げる呟きを零し、彼はグラスを煽る。漆黒に彩られた指先で弄ぶグラスの煌めきが眩しく感じるのは私が既に悪酔いを始めているからなのだろうか。まるでミネラルウォーターのように度数の高いアルコールを胃の中に収めていく男を見て、諾々と、淡々と、現実をもあのように飲み込めて行けたら幸せなのだろうにと感じていた。
隣の男の指先に施された黒のマニキュアが暖色系のランプによってよりつやつやと視界に入り込む。細くしなやかな指自体妙に艶かしいと思うのに、敢えて手入れと言うひと手間を加えているのだから余計にそう感じるのだろう。グラスを空にすれば今度はその小枝のように細い指で色素が薄く透き通りそうな、言ってしまえば儚ささえ覚えるくすんだブロンドヘアに絡ませた。
そんじょそこらの女よりも色気と言うものを《判っている》のだ。だとしたら手招きをしつつ嘲笑う男は酷く色情を擽る存在なのだろうが……如何せん彼のアルコール摂取度は凄まじいものになっている。どうせ窘めた所で聞き入れては貰えないと思っているのだが、私の性格上指摘せずにはいられなかった。
「飲み過ぎだよ、レム」
「飲む量は自分で決められるって。そういう事を言うとお酒の美味しさが無くなっちゃうよね。ニコさんは煩いよ、良く飲みに来るのにそんな事も判らないの?」
若干上擦った声で《無粋だよ》と生意気な口調で彼――レムはそう言った。ほろ酔いを超えてはいるが泥酔ではないようだ。へらへらと笑いながら自分の名前のタグを付けた琥珀色のウイスキーボトルからとくとくとセルフでグラスに継ぎ足し、舌舐めずりをして《美味しそう》と呟いた。その仕草には色気も何もあったものじゃない。外見の美しさや妖艶さは店独特の明かりのせいで浮かび上がっていると言うのに、酒癖の悪さで全面的に色気が宝の持ち腐れになっている。
レムは飲み屋や娼館が多く立ち並ぶノースストリートの外れの外れ、路地裏にひっそりと構えられたバーにて、その美しい容姿を使い丁寧な接客と、しなやかな手を振るいバーテンダーとして働いている。容姿端麗、眉目秀麗、スレンダーでストイックな空気を絡め、涼やかな目元はミステリアスを醸し出している。くすんだブロンドの髪のサイドを伸ばしてはいるが決して暑苦しくもなければ不潔感も皆無だ。同性であれど一瞬見惚れてしまう彼独自の雰囲気は薔薇にも似ている。それだけなら完全無欠で、外見上非の打ちどころが全くないので雑誌のモデルでもやって生きていけそうではある。
しかしながら、マスターに後を任されてしまうと彼は職務を放棄してとっとと私の隣に腰掛け上機嫌でグラスに自分の酒を注いで飲み始める。そんな破天荒を赦すマスターもどうかと思うが、私には自由気ままを貫いてぶれる事の無い彼が羨ましいのかも知れない。
味わうよりも量を摂取する事に重点を置いているようにしか思えないアルコールの嗜み方に私は言葉を失っている。しかしレムは私の目をじとっと横目で見詰めながら口先を尖らせた。
「沢山飲まないニコさんには判らないかも知れないけど、僕には命の水だから。ルルドの泉より大切なの」
「奇跡の泉で肝臓がやられるってかなりの悲劇だと思うけれどね」
私がここに通うようになってからどれ程の季節が過ぎただろう。迷い猫のようだった私が何故扉を開けたのかも朧気になってしまっているのだが、私たちはこんな軽口をも言い合える間柄になってしまった。最初こそ彼の行動に面食らったが、今では横で一緒に飲む事の方が多くなってしまった。そしてそんなレムの行動になれてしまった私がいる。予測不能とも言えるだろう彼の行動と、蠱惑的な微笑みに惹きつけられて自分の中に押し込めていた強い《衝動》のようなものの扱い方を学んだ気がする。
今の私にはこの場所が自分の中に渦巻く酷く苛烈な《赤い衝動》をほんの少しだけだとしても打ち明ける事が出来るのだ。
人は誰しも大小問わず衝動を抱えて生きている――随分と哲学的な言葉のように思えるだろうが、この言葉は隣で飲んだくれているバーテンダーの台詞だったりする。ほんのりと上気した頬を隠しもせずに、レムは私にそう言った。あの時、べろりと紅い舌で下唇を舐め上げ、頬杖を付いてこちらを眺めていたレムは、私の中にある《衝動》を見抜いていたのだろう。初めて会った時から。鋭利な眼差し、絆そうとしているような声音――今でも思い出せる、レムとの出会いの記憶。
《君……隠し事してて楽しい? その気持ちを抑え込んで楽しいの? お酒と一緒に吐き出しちゃわない? 大丈夫、この世界は衝動だらけだよ》
私の《赤い衝動》が翼を広げ始めたのはレムのその一言がきっかけだった。赤色の毒とも言えるのだろうか、私の身体を蝕むそれは、彼の言葉によって自分の眼前に晒された。間違いなく、寸分の狂いもなく。四角い箱の中に隠した全てが初めて対面した人間によって暴かれた驚愕も、今となっては懐かしい。きっとレムと言う人物に見抜かれたこの気持ちの名前は――衝動を正常の棘で雁字搦めにした鋭い毒なのだから。
自分の秘密のようなものを一瞬にして感じ取った、或いは、赦してくれたレムと言う人物に惹かれて行ったのかも知れない。だから、仕事で上手く行かなかったり、鬱屈とした時は自分の意識とは無関係に、いや、本能的にこの場所へと足が向いてしまうのだ。《衝動》が疼いて仕方がない。
それは今日も同じ。そして、レムの直感によって、閉ざされた扉の向こうに隠したそれも、いとも簡単にこじ開けられてしまう。
「ねえ、ニコさん」
酒に溺れた声色。そして色に溺れた空気を纏っている。
そっと視線を送れば唇を歪めてほんのりと眉を下げたレムが囁くような小さな声で呟いた。
「今日はどうしたの? 何かあるとすぐ顔に出るからなぁ。隠してるつもりでも、僕にはすぐ判るよ?」
絡め取るような話し方はレムの特技なのだろうか。捲し立てる訳ではないが強く誘う声色に私は指先で額を押さえ、アルコールの混ざったため息を吐き出した。
彼は決して強引に話を引き出そうとはしない。しかし瞳を見詰めていると隠し立てている事も空しくなり、そんな努力をするくらいならここで溶かすように暴露した方がずっと気分が良い。美しい瞳に添えられた長い睫毛と艶やかな微笑みに促されるように、私は言葉を紡いだ。
「別に……ただ、理想の自分と、他人が理想としている自分の板挟みって存外辛いなって」
「意外と深刻そうな台詞だねぇ……」
「何にも考えてなさそうな奴に言われてもなぁ……」
「何それ、流石に酷いよ」
私はコンっと音を立ててグラスをテーブルに戻す。行儀が良いとは言えないこの行為でさえも、レムは気にも留めない。正直な話、彼は私に対してどのような感情を抱いているのかも曖昧で、彼の猫に良く似た笑顔の裏にある本音は闇の中だ。私が抱く《衝動》と似ている気もするが、それは鏡の中の相似に近く、決定的にまで同じだとは言えない。レムと私が他人である以上全く同じな訳がないのだ。
そもそも彼と私の関係なんて、せいぜい金額を気にせずに落として行く《客》と、コインをジャラジャラ落として貰う為に誘う《店員》だろう。私がレムにそれ以上を望むのが的外れな来店に違いない。しかしながら、アルコールを流し込む私は、塞き止めている言葉を抑える為の防波堤が既に揺らいでいる。何せ彼の誘惑に何度も揺らぎかけていた。来る度にしつこく《ニコさん、抱いてよ》と甘ったるい声で言う。
彼は迷いもせずに強請る。身体を求める。
だが、私はレムの酷い遊び癖を知っている。彼が同性愛者なのか両性愛者なのかは全くもって知らないが、このバーや娼館が並ぶノースストリートでは有名な遊び人だ。一晩だけのあなたの恋人。翌日は誰かの恋人。そんな人間性。私は職業柄そう言った人間とは距離を取りたいと思ってしまう一種の浅はかさのようなものがある。しかし、彼の人格そのものを否定するつもりは毛頭ないと言う建前だらけの矛盾も孕む。見た目や外聞だけで人間とは何かと決めてしまってはいけないだろう。
しかし、残念な事に私にはそう言った感情はない。レムの《衝動》のようなものを満たしてやる事など出来ない。出来ないはずなのだが、レムの蠱惑的な誘いに流されてしまいそうになる。磁器人形のように透き通った肌、柔らかいブロンドの髪、少し血色の悪い唇は触れるだけで罪になりそうだ。長い手足は黒豹によく似ている。その獲物を逃さないと言わんばかりの眼差しもそっくりなのだ。
そんなレムはいつものように猫に良く似た微笑みを湛えて、私の言葉を待っている。静かにグラスを傾けながら、渦巻く衝動と欲求に翼を与えるかのように、喉奥でくすりと笑う。
「今日のニコさんはどこかお酒に呑まれてる感じだよね。お酒に八つ当たりしても美味しくないよ?」
「……レムは物事が上手く行かない時はどうしてる?」
「聞く相手間違えてない? 散々僕の事を好き放題言ったその舌の根も乾かないうちにさぁ……それに僕はカウンセラーでもないしね」
「そりゃあそうだね……悪かったよ」
あくまでも私がそう思うのだ。単純明快な自己完結の世界。それでも真っ暗な世界に、レムは立っている。くすんだブロンドの髪を靡かせ、唇を楽しそうに歪め、長くすらりとした両手を広げている。誰も見ていなくても。誰かが彼を嘲笑っていても。レムは人に指をさされても無関心でいられる。客観的に映る自分にあまり興味などないのだろう。自分の世界を構築してそれをきちんと保って生きている。それが、とても羨ましい。
私は他人が気になってしまう性分をどうにも出来ないでいる。誰かに笑われやしないか、誰かに指を刺されやしないか、そんな事を気にして生きている。何とも名状し難い感情の名前を《赤い衝動》だと名付けたのが、隣でだらだらと未だに文句を言っている男なのだ。
自分はカウンセラーではないなどと言いながらも、レムは手にしていた琥珀色の液体を流し込んで細い目を更に細め、アルコールのせいで緩んでいる涙腺をそのままに唇を開く。
「ニコさんはニコさんのままだよ、どこに行ってもどう足掻いても、いい意味でも悪い意味でも。ニコさんは優しくて頭が固くて、どうにもならないって判ってるのに自分の衝動を認めたくないし、そのままにするのも怖いんだよね」
「前言撤回。場末のバーの店員をやめて、レムはカウンセラーになった方が良いよ」
《赤い衝動》だ。霏、霞、朧に似ている。目を凝らせば次第に見えて来る。見ようとしなければ誰も気付かない。黙っていれば私のこの《衝動》を見付ける事など出来ないだろう。それを出会って数秒で見破ってしまったのが彼だ。そしてあの時と同じように鋭い嗅覚で嗅ぎ付けるのか、レムは頬杖を付きこちらを舐めまわすように視線を送りながら、ぺろりと舌を出し、十分に潤んだ下唇を真っ赤なそれでたっぷりと濡らして行く。
「カウンセラーって儲かるかなぁ? 勿論ニコさん専属でも良いよ。ニコさんは払うものをきちんと払ってくれるし。あ、でも、カウンセラーになるには学校に通わなくちゃだよね? 流石にそこまでの余裕は僕にはないや。ねえねえ、専属になる為にもまず軍資金欲しいなぁ、会計士って儲かるんでしょ?」
「――あのなぁ……」
何を言い出すかと思えば……と私が呆れた一言を呟くよりも先に、彼は目を輝かせながら手を取ってこちらを見詰めた。きらきらと輝く瞳を隠しもせずに――いや、寧ろ見せ付けるように微笑んでいる。
「じゃ、身体で払おうか? 大丈夫大丈夫、僕って酷い方が好きだし、変な病気持ってないから」
彼はきっちりと着こなした白シャツのボタンを二つほど外し、首元を染める黒い蝶ネクタイをも緩めた。途端に脱ぎ始めるレムに私は慌てる事なくため息を吐いてベストへと伸びる彼の手を封印するように抑え込む。一瞬レムは首を傾げるような仕草を見せるが、私の制止に一瞬にして不服そうな面持ちになった。私が添えた手の意味を理解しているのだろう。それでも言葉にしなければ私がここで止めた意味がなくなってしまう。
「遠慮するよ」
「え~? お金次第で色々とサービスしちゃうよ? 良いよ、ニコさんの《可愛い可愛い例のソレ》だって舐めてあげちゃうのに?」
ぞくりとした。背中が恐怖に似た感覚に震える。《可愛い可愛い例のソレ》と言う言葉が、ナイフのように突き刺さり隠していた衝動が雫となってポタポタと滴り落ちていく。
声色は甘い罠以外の何物でもない。パール色に艶やかさが磨かれた唇には愉悦と様々な口説き文句が溢れて行くのだ。しかしパール色の妖艶さは鋭利な言葉となっている。
彼は私を見ていない。私の瞳から滑り落ちる視線は首、胸、腰骨をも通り過ぎ、一番下に辿り着いた。それに気が付いた私がぐっと息を呑んだその刹那には、レムが素早く駒を動かして行くのだ。
淫靡な黒猫が伸びをするかのようにその身体を逸らして、私の額へと濡れそぼった唇を近付けて来る。
だが、それよりも先に伸びたのはレムの腕である。躊躇いも悪びれる様子もなく、手は私のテーラーメイドのパンツの裾を持ち上げ、隠していた衝動をするりと暴いた。途端に反射する光を見てレムは恍惚に似た表情を浮かべる。だがその恍惚の裏には狡猾さが見え隠れしている。だからなのだろう、レムが紡いだ言葉は意地悪に満ち溢れている。
「わあー、真っ赤だね。今日もすぐに判ったよ、足音でね。七センチはあるのかな? リズミカルでさ、音楽みたいなの、ソレ」
「待っ……レム、それには触れるな――」
私が多少スーツのパンツを長めにしておくのは《赤い衝動》が暴かれるのが怖いから。それでも暴かれる恐怖と、こうしてレムのように勘の良い人間に発覚されてしまう事が混在する私の複雑な感情は、もはや手を取ってぐるぐると踊りながら溶けて消えるアルコールに似ている。似ていると思わなければどうにも出来ないのだ。
誰が知るのだろうか。普段は厳しい顔をして書類と電卓、パソコンとにらめっこをしながら働いている私の足元は、鮮やかな赤いピンヒールで彩られていると。スーツはテーラーメイド、ネクタイだって自分なりの拘りで買ったものだ。そんな私であっても女性物の靴に足を通して床を鳴らして歩く。会計士の仮面を被り、軽蔑と倒錯の境界をうろうろとしているのだ。
どうしてだなんて愚問だった。答えは見付からない。《衝動》の中に閉じ込められた不安定な感情。私はこの靴に足を通すと、知らない自分に変化する、背中に翅が生えて年月を得た蝶のようになれるのだと錯覚しながら溺れて行く。知られてはいけない、知られたくない、それでも誰かに気付かれてしまうかも知れないと言う背徳が私を締め付ける度に、乾いた喉が潤うのだ。その潤いこそがアルコールよりも高濃度の酔いを引き起こす。
ぐっと唾液を嚥下しながらレムの《ふしだらな》微笑みに耐える。捲り挙げられたそこから見える赤い赤いピンヒールに、天井のランプがぼんやりと浮かんでいる。舌なめずりをしたレムは私の瞳を再度覗き込み、首を傾げた。
「高いんでしょ、綺麗な靴だもんねぇ? ねぇ、ニコさんはこれでどうしたい? 僕を踏みたい? この綺麗な靴を舐めさせたい? 酷い言葉で詰りたい? ボンテージ着せた僕に鞭打ったり蝋燭垂らしたい? 首輪をさせたい? リードを繋いでお散歩させたい? 所有欲を満たしたい? 歪んだ感情の抑圧から逃げたい? ……違うよね、ニコさんはただこの靴で、男の癖にピンヒールで過ごす自分をこうやって戒めてくれる人が欲しいんでしょ? だけど同時に認めてくれる人が欲しいんでしょ、無口な癖に心はお喋り大好きだもんね?」
「……やめよう、レムのその言葉は怖い」
「別に怖がらせてなんてないよ。でも、ニコさんが僕の言葉で顔を青白くして行く様子は、大好き」
「狂ってる」
「今更? 知ってるでしょ?」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐレムに恐怖を覚えるのは、あと一歩でも進んだら私を満たしてしまうと言う事実があるからだ。あれだけアルコールで満たされた身体なのに冷たく嫌な汗が身体に纏わり付き、脳裏に描いた凄惨で耽美な映像が私を狂わせて行く。
レムは酷い男だ。私を困らせる事が何よりも楽しいと胸を張って言うのだから。私の手札の中に自分の名前がないのなら作れば良いと、真剣に考えているような男なのだ。自分を組み込む手段を数多用意し罠を仕掛け、掛かってくれないのなら突き落とす。故に私は、レムの真っ黒な闇が私を溶かして、レムの言葉だけが真実だと本気で溺れてしまえば、言い表せないほどの欲望の宴に沈んで行けるのだろう。甘美な誘いに幾度も招待されても、私は彼に甘えられない。
堕落が怖いからでは、ない。背徳が重苦しい訳でも、ない。
「レムの誘いは嬉しいけどね……」
「じゃあ良いじゃん? 僕とイイコトもワルイコトもしようよ? まず最初にお酒だよねぇ、ウイスキー飽きたからラムにしよう」
有無なんて言わせずに男は席を立ち、ふわふわとした足取りで壁一面を埋め尽くす様々な瓶が並ぶ場所まで歩いて行く。《どれが良いかなぁ、これを開けたらマスターに怒られるかなぁ》と呑気に口遊み、指はすり抜けて一つのボトルを選び取る。
その様子を見た私はふうっと息を吐き捨ててカウンターに顔を埋めた。このままレムの手を掴んだらきっと帰れないのだろう。そしてそれが最高に胸を踊らせると知って尚、小心者の私は選ばべないでいる。気付かない素振りはいつまで続けられるだろうか。彼相手に嘘偽りも、建前も、砂上の楼閣に等しいのに。
うつ伏せでうだうだと考えている私の傍に新しいグラスが置かれた音が静かに流れる。カランと鳴る氷、注がれる香りの良いラム酒の音が私の脳を叩いた。ゆっくりと身体を起こせば、レムは行儀を投げ捨てカウンター自体に座り、私にラム酒が注がれたグラスを滑らせた。
「そう言う仕草だけはバーテンダーだね、レム」
「あちらのお客様からですって奴? あれウケが悪いんだよねぇ、見知らぬ相手からのお酒とか怖くない? まあ作り手は言われれば作るよ、お仕事だからね」
ぶつかる事もなく溢れる事もなく、グラスは絶妙な位置で停止する。私は揺れる湖面のようなそれに口を付けて傾けた。流し込めばほんのりと甘い匂いが喉を通り過ぎる。ふわりと漂う香りに新しい酔いを自覚しながら、私は隣で笑いを堪え、不敵な微笑みを噛み殺しているレムを横目で見やった。
不意に走る不自然さ。どこか歪でどこか逆さまで。鏡の中で見付けてはいけない間違いを見てしまったような――ほんの少しだけ鳴り始めた警鐘に、私は思わず隣の男の名を呼んだ。
「……レム?」
にんまりと微笑むレムは優雅に足を組み細い手をするりと伸ばす。振り払おうとすれば出来たはずなのに、私はぼんやりとする頭に触れる事を赦してしまい、終いには撫でるような手付きのレムが身体を寄せる事からも逃げられない。
男が、レムが、呟いた――感嘆符のような小さな響きで。
「でも、僕が入れたお酒は何の疑いもなく飲んじゃうんだね?」
同時にカラリと鳴る氷で、私の喉が一気に乾いた。レムの言葉が突き刺さり、じわじわと闇を広げて行く。レムの睦言の意味も真意も見い出せない。見い出しては後戻りが出来ないであろうと知った。だから自然と口から溢れたのは、疑問を含んだ彼の名前だけだった。
「え……れ、レム……?」
――どくん。
胸が鳴る、鼓動が早まる。言葉の意味を理解するよりも本能が勝ってしまう。うつ伏せていたあの刹那に、目の前の悪魔は私に何をしたと言うのか。いや、思い込ませようとしているのだろう。まさか。怪しい言動も陥れる罠もレムは幾度となく仕掛けて来ていた。だがそれは全てとても安易で避けるには十分すぎるものだった。だからこそ、なのだうか。
嫌な汗が流れ始め《本気で私に一服盛る訳がないだろう》と言う《壊れやすい思い込み》を吐き出しそうになる口元に手を添えた。
拒絶をすれば拒絶をする程、手に入れたいと願う欲に火を点けるのだろうか――震える言葉で、私は疑問を投げかける。
「何を……レム? まさか本当に、これに何か、入れたのか?」
「……さあ、どうだろうね? ニコさんが一番判ってるんじゃないの? 身体が熱くない? 頭がぐらぐらしない? 僕をどんな目で見てるか教えてあげようか?」
口を隠す手に触れる、温かな、いや、むしろ熱いとさえ感じるレムの手。こちらを見詰める瞳はバターとキャラメルをふんだんに含ませた甘い甘い眼差しで、衝動をも蕩けさせた微笑みが視界を支配した。振り解く事が不可能になるまで、心も絡めてしまったのだろう。棘のような締め付けに、思わず喉が鳴る。
怖いくらいに純粋なその表情は毒牙を剥いて私の首筋に近付いて来る。呼吸が、心音が、混ざり合うほど身体を寄せたレムから逃げる事が――私には出来なかった。何故出来ないのだろう、突き飛ばすのは簡単なのに、思考回路と行動が一致しないのだ。
首筋を舐めるような吐息に早まる心臓の音を停止させたいように必死になりながら、レムの行動に震えていた。
「怯えてるの? 大丈夫、そんなに変な物入れた覚えはないからね。落ち込んでるみたいだからちょっとだけ元気になって貰おうと思って、色んな意味でさぁ。そんな冷や汗垂らさなくても大丈夫だよ、ほら、僕に触れて、そのまま、僕を奪ってよ」
「レム……やっぱり駄目だ、君を犯すなんて……そもそも私は君を……」
そんな目で見ていた事なんて無かった。無かったはずなのに。そもそも私は、レムをそんな存在だと見てはいけないのだと決めていた。それが身勝手な決めつけだったとしても、例え本心から《抱いてくれ》と言っていると判っていても、それは超えて行けない、赦してはいけない境界だと線を引いていた。
理性は告げている――駄目だ、と。本能は告げている――飲み込んでしまえ、と。
壊れていく砂の城。波に飲み込まれて形が崩れて行く。私の闇が闇によって暴かれて行く。
「ニコさんはいつも僕を抱いてくれないんだもん。僕はずっと《赤い衝動》のその奥が見たかったんだよ。ねえ、僕のせいにして僕とイイコトとワルイコトをしようよ。嗚呼、やっと捕まえたんだ、もう良いでしょ?」
唱えるように言うレムが恐ろしく思えた。それなのに、彼は美しい。溢れ出る色艶を纏い、遂に最後の砦を壊した。唇を奪って、そのまま、私の胡乱になった思考の頭を抱き締める。心地が良いのは何故なのだろう。柔らかな髪が私の身体に触れただけで、炎が灯されたように身体が熱くなる。間近で感じる火照った吐息に後押しされ、震える指先が確実にレムを求め始めている。するりと動く腕は私をしっかりと抱き締め、遂に私は絡め取られた。
甘い匂いに惑わされ、熱いその身体に全てを委ねる寸前、灯される炎に揺らめく衝動が一際大きくざわついた。私の身体をなぞるレムの漆黒の指先が心にまで食い込んだ刹那に、甘くて苦い誘いの言葉で名を呼ばれた。
「ねえ、ニコさん。その靴で最高に踊って見せてよ、僕を抱きながら」
私には彼を愛する動機が判りません。そもそもこれは愛なのか、泡沫の夢なのか、アルコールが見せる幻影なのかも、混濁しつつある意識の水底では結論が出ない。
夜が長くなる。気付いた時には彼の首に唇を押し当てていた。
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