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第2話

僕には彼でなければならない動機があります。 持ち帰っちゃった。本当に持ち帰っちゃった。別に自己嫌悪している訳じゃないし、そもそも僕の中には自己嫌悪だとか、罪悪感とか、そう言ったものは欠片さえもありはしない。むしろそれはどんな形をしているのか教えて欲しいくらいだ。知らないものを認識しろって言われても出来ないのだから仕方がない。けれど侮辱されるのは腹が立つ。僕は僕なりに悲しんでいるのかも知れないし、もしかしたらそれを思いきり自由に使って我儘なまま生きているのかも知れない。後者の場合は最悪だろうけれど、お生憎様、僕にはその誹謗中傷とやらもあまり理解が出来ない人間だ。ずっと前からそうで、気が付いた時からそうだった。多分これからも変わる事なんてないと思う。なので、お持ち帰りについてはいつもの事。 でも、身体が《痛い》のは久し振りだった。僕は強張る背筋と痛む腰を刺激しないように起き上がり、出来る限り静寂を保ちながら《隣で眠っている男》の表情を盗み見る。 いつもの彼からは想像出来ない程に乱れた鳶色の髪、閉ざされた瞳の奥にはヘーゼル系の薄い色が宿っている。確かこの街一番のテーラーで仕立てたと聞いたシャツとジャケットは僕が放り投げてしまったのでここにはない。肌触りの良いブランケットの隙間から見えるちょっとばかり骨ばった肩には、昨晩の悪戯で出来た噛み跡が残されている。それが朝から妙に誘っているように見えてしまって仕方がない。想像していたよりもがっちりとした体型は嫌いじゃない。 彼の名前はニコ。本当はもっと長かった気もする。でも不必要だから覚えてない。ニコさんって呼んでる。僕がバーテンを務める店の常連客で、超リッチな癖に頭はお固い会計士の先生。それなのに妙な趣味を持っていて、女性物の赤いピンヒールを履いて隠れるように過ごす、ある意味においてはとっても変態。そういうところも好きだけど。 それにしてもすやすやと眠っている事に僕は少しだけ興奮した。 あーあ、間抜けな寝顔しちゃってさぁ……無防備にも程があるよね。どうしようかな、もう一度上に乗ってみようかな……とも考えたけれど、昨晩の蛮行を思い出して少しだけ自分の頬が赤くなる。ぐしゃぐしゃに乱れたシーツの上で踊らされた熱い夜。背筋が震えて腰の中が蕩けて、脳髄が壊れると錯覚した程に溺れた夜。 原因は僕なんだけれど。 「僕から薬盛ったからある程度覚悟はしてたけどさ……ニコさん溜まってた? こんなに身体痛いの久し振りなんだけど……」 頭の固い人間だとは知ってるから、どうせ深夜、街角に立つ春売りの女の人に声をかける事もないだろうし、わざわざそういうお店にも行かない。だって夜は僕の働くバーに来るのだから。ニコさんは仕事のストレス、もしくはどうしようもなく自分の性癖への嫌悪がある一点を超えた時、ふらりと僕の勤務先の店にやって来るのだ。そしてうっかり闇夜の隙間を窺ってしまい、僕がその手を引っ掴んで溺れさせた。 お話の始まりは、昨日の夜まで遡る。会う度に遊びでも良いから抱いてくれと(元々あって無いような)羞恥心を捨ててお誘いの言葉をかけていたのにも関わらず、ニコさんは僕にちっとも振り向いてくれない。だから美味しいラム酒に更に美味しくなるようにと素敵な素敵なエッセンスを盛って差し出した。そして彼は何の違和感もなく疑念もなく、それすらをも飲み込んでしまい……僕はようやくその身体を手に入れたのだ。 前々から抱いていた願望だ、強引に叶えてしまったけれど。欲求を満たされた自分は飢えから解放されるかと思いきや、身体ががっちがちになるまで愛されてしまった。 それにしても、だ。あの声。あの仕草。 《……レム…》 僕を強引に犯したくなんてない、そんな感情で見ていたくない――って、言ってた癖に、ニコさんとの夜は凄かった。何の冗談でもなく真面目な話。最初にダウンしそうだったのは僕の方だ。結局汗と涎と白濁に塗れた身体を晒して《壊れる》なんて言ったのは初めてかも知れない。年齢はニコさんの方が確か少し上だった気もするけど、まだまだ枯れるには早すぎるはず。あれが本気で本性で、普段はその欲求を隠しているのかと思うと……ぞくぞくしちゃって仕方がない。 無防備に眠るニコさんがあんなにも情熱的に僕の名前を呼ぶ姿をすぐに思い出せてしまう。それくらい印象に残っている。いつもの遊び相手と違うのは、僕がずっとアプローチをしていたのに実らない思いだったからなのか、暑い吐息がこれ以上ないまでに心地良くて、こう言ってはなんだけど、身体の相性も良かったからなのかも知れない。僕はずっとずっと遊び人をしている。だから勿論それなりにセックスだって大好きだ。他人が僕を求めてくれる事で《自己》が満たされて行く気がするのだ。自己がそれっぽっちの矮小な人間だ。 「あー……それにしても、身体が痛いなぁ……」 僕は背中を伸ばして両指を絡ませて大きく伸びをする。ギシギシと呻く身体に鞭打って部屋着にしているカットソーに袖を通し、遅くなってしまった朝ご飯の支度をしようとベッドから飛び降りた。脱ぎ散らかしたルームシューズに足を突っ込んでくらりとする身体を少し捻ってストレッチをする。 確か冷蔵庫の中には何かあったはずだ。とりあえず朝食を振る舞えば良い。怪しまれても仕方のない朝食になるだろうけれど、そうならないように演出するのが僕の役目だ。悲しい事に僕は役者に向いていないのが残念だけれど。 ベッドから数歩進んでから……僕は不意に思い出してベッドへと踵を返す。 「ふふ。おっはよー、ニコさん」 ほんのりと夜の雰囲気を残す頬に唇を寄せて、今度こそ僕はキッチンへと向かった。勿論言わずもがな、その後にニコさんのものと思しき大絶叫が狭いアパートに響き渡った。 僕の幸せな一日はこうやって始まった。 「ニコさんって何食べて生きてるの?」 「……朝は基本的に食べないよ」 鼻を掠めるコーヒーの香りがあっても不機嫌極まりない表情のニコさんは淡々とそう答えた。それなりに美味しくなるように普段よりも気を遣ってコーヒーを淹れたのだけれど、会話と言う会話は長く続かず、ニコさんは僕の振った質問にも淡々とした声で答えるだけだった。そう言った仕草はインテリそのもので、少しずつコーヒーを嗜んでいる姿は昨晩からは程遠い。少しばかり寝癖がついてしまっているけれどそれも愛らしい。愛らしいけれど言葉は刺々しく敵意が剥き出しだ。 僕は懲りると言う事を知らないので、つっけんどんに返されても言葉を連鎖させる。 「よく身体が持つねぇ……僕には無理、遅くても良いから朝は何か食べないとね。あ、朝って言うよりは昼間に起きる事の方が多いから、差し詰めブランチってところかも」 「……ふぅん」 「ねぇ、ニコさん? どうしたの? 怒ってるの?」 「レム……逆に怒ってないとでも?」 そう呟くとニコさんはもてなし用のカップに入れられたコーヒーをゆっくり流し込んでいる。僕が《とにかくそれは本当に大丈夫だから》と三回くらい説得してようやくニコさんはコーヒーを飲み始めた。そんなに信用されないとは驚きだった。訝しむニコさんに向かって毒見の宣言をしたところで、ようやく彼は納得してくれたのだ。まあ、寝癖の残る頭を見せられて睨まれても怖くなんてないのだけれど。 目の前にはトーストと作り立てのスクランブルエッグ、ベーコンにウインナー、冷蔵庫の中で眠っていた野菜のサラダ。ついでにデザートとしてオレンジも添えた。朝ご飯は食べる方だけれど自分一人の時はこんなに豪華にしたりはしない。ニコさんは朝を食べないとの事なので、豪勢な朝食が嫌いなのだろうか。それとも――…… 「えーと……口に合わない?」 「……そうじゃなくて!」 強い口調に思わず僕は持っていたフォークを落としてしまう。カランカラン音を立てて床で回っているフォークを拾う事も出来ずに固まってしまった。ニコさんはカップをテーブルに叩き付けるように置くとじろりとこちらを睨み付けた。眉間に皺を思いっきり寄せて、唇を一瞬噛み締めたかと思えば、普段では想像出来ないくらい激しい口調で言葉を放つ。 「普通の人間なら好きな相手に妙な薬を盛ったりしないし、無理矢理犯して貰うとか考えたりはしない!」 「えっ……あ、ご、ごめ…」 「大体、あんなものをどこで手に入れて来るんだ!」 何でそこまで怒るのかが僕にはさっぱり判らないのだけれど、普段ここまで声を荒らげる事をしないニコさんに恐怖に近い感情を抱いた。目は真剣そのものだ。インテリ系だけど決して冷たい訳じゃない瞳はいつになく凍えているし、眉間に刻まれた皺が冗談ではない事くらい僕にも判る。真面目な雰囲気は触れたら割れてしまいそうな硝子細工に良く似ているので、僕はちょっぴり苦手だった。ここはヘラヘラして躱せるような話ではないし、ニコさんの言う《無理矢理犯して貰う》と言う鋭利なナイフが妙に痛い。 僕に言わせればいつも《待て》と言われたまま永劫を過ごす方が嫌だ。嫌われても良いから一晩の夢を見させて欲しいのだけれど。それをもダメだと言われたなら、力尽くででも《手に入れてやる》――ただそれだけなのに。大事なものは手離したり出来ないし、欲しい物を我慢出来ない。子供だと言われるかも知れないけれど、僕には不可能なのだ。 でも、目の前の《正しいニコさん》に全てを打ち砕かれたのだろうか、僕の身体から力と言うものが消え去って、不意に襲い来るのは言い知れぬ感覚。だからなのか、口から零れた言葉は不安に震えた。 「も、もうバーテンとしての僕との関係もおしまい? そういう事をする相手とか、考えられないから、お店にも来ない?」 「レムとの信用関係は潰えたと言っても良いよ。私が銀行員なら絶対に投資はしないね」 「ん……じ、自己責任、かぁ……な、なら仕方ないのかな……」 ……いつだってそうして来たんだから、別にこれと言って悲しみなんてないはずなのに。妙にざわつく心が苦しかった。そう、自己責任。一晩限りの遊び相手を決めるのも僕だし、後腐れないように心を切り替えるのも僕。付き纏われて邪魔だと思いたくないから急に冷たくしてしまうのも、逆に相性が良すぎて離したくなくて気を引こうと必死になるのも、自分の意志で決めて来た事。でも、やっぱり拒絶は苦しい。散々他人を拒絶した事もあるのに、こうやって《される側》の立場に立つと悲壮感たるものでズタズタにされる。 下唇を噛み締めて落ちてしまったフォークを拾い上げた。そうだよね、落ちるのは簡単なのに持ち上げるのはとても大変な事なのだから。込み上げる虚しさは一夜の関係で済ませたくなかった悲しみなのだろうか。……まさか。だって今まで何人かとそういう関係を楽しんでたはずなんだけど。 「とにかくレム、他人のグラスに薬を仕込む時点で犯罪だ。私はそんな事をする人間の手料理を食べたいとは思えない」 「ん、んん……ごめん、なさい」 どうしようもなくなってぐったりと項垂れる。僕とニコさんはそもそも根本的な考え方が違うのだろう。自分が他人とずれている事くらい何となく判ってはいたのだけれど、こうも決定的に違うとは。現実が僕を押し潰そうとしているのか、場の空気がずっしりと重い。噛み締めた唇からほんのりと違う味がする。鉄錆に似ている味わいは気持ちが悪い。 それでもどうにかしなければならなくて、全てを振り切るように、僕みたいに汚れたフォークをテーブルに置いて思い切ってニコさんを見詰めた。一瞬だけ世界が揺らめいた気がしたけれど勘違いと言う事にして僕は言葉を紡ぐ。 「ご、ご飯食べなくて良いよ、気持ち悪いでしょ? 大丈夫、僕のせいだから、気にしないでそのままお仕事行って? お店で顔を合わせないようにマスターには言っておくよ、僕の事はともかくお店は贔屓にして欲しいから」 「……」 「それから、えーと……無かった事にしたくても無理、だよね? だから、うん……街で僕を見かけても幽霊でも見たと思ってくれて良いから」 口よりも先に手が動く。何も触れられていないニコさんの朝食の食器を捕まえて掻き集める。それらを狭い部屋から更に狭いキッチンへと運ぼうと縺れる足を無理矢理動かした。あーあ、やっぱり虚しいな……と思いながらニコさんに背中を向けた刹那、背後に投げ掛けられた声色は――少しだけ変化していた。 「レム」 「……なぁに?」 「泣いてるのか?」 「犯罪者には涙も許されないと思うんだけどね? ニコさんの想像に委ねるよ」 静かな時間が流れた。これは十秒なのか、一分なのか、もしかしたらこのままゆっくりとスローになって、世界が止まってしまうのかも知れない。そんな錯覚さえ覚えてしまいそうな静寂だけが支配する。 この流れの判らなくなる雰囲気の中で、例え僕が泣いていたとしてもニコさんには関係があるのだろうか。多分ない。ないはずなのに、ニコさんはとても優しいのだ。だから僕の声がちょっとだけでも揺れていたのなら見逃さないし、僕には持っていない《良心の呵責》とやらが胸を刺すのかも知れない。優しい人だから言い過ぎてしまったと無駄な十字架を背負ってしまい、何も悪い事をしていないのに罪悪感で押し潰されそうになってしまう。ニコさんはそう言う人間だ。人間が出来ているから、そうなってしまう。 勿論僕は振り返らない。振り返らないつもりだったけれど、本当に、本当に少しだけ首を捻って椅子に座ったままのはずのニコさんを視界に捉える。 「レム」 「……ニコさん、ありがと」 「レム、いや……すまない、言いすぎた」 「気にしてないよ。昨日だって散々ニコさんは言ってたでしょ、僕の事を《狂ってる》って。だから僕は狂ってて、ニコさんと同じような感覚を持てな――」 「いい加減にしないか、レム!」 捻った首が戻るよりも先に何かが僕の身体をぐいっと捕まえる。逞しい腕、抱き寄せられたせいで揺れたトレーの上で冷めたスクランブルエッグが身じろぎをする。背中に感じる体温は鼓動を乗せて僕の身体に様々な事を重ねて行く。温もり、人肌の優しさ、呆れているような、諭すような、慈しむような、色々な物を含んで僕の名前になっている。 激しく求められた事も、強く貫かれた事も、目の焦点が合わなくなってグラグラした脳内に押し込められた熱っぽい声で名前を呼ぶ男の姿、ストイックに見えたのにこっちが苦しくなるくらい腰の中を踏み躙られて、性交依存のような僕の全てを満たして……例えそれが薬による一夜の幻影だとしても。 僕は今、ニコさんに抱き締められている。昨日の夜のように無茶苦茶でどろどろの世界でじゃなくて。朝の空気の中で、静謐な世界で。 ニコさんは僕の首筋に顔を埋めるようにして続きを歌う。 「どうしてそう極端なんだ、少しは人の話を聞かないか」 「だ、だってあれだけ言われちゃ仕方ないと思うんだけど? だから一晩の遊び。それで良いじゃない。それ以上言葉を続けられると僕は期待しちゃうから……やめて」 「期待させたら駄目なのか? 手段や手順が間違っていたとしても、レムは、君は、あれだけ私に抱いてくれと言って――駄目だと言う度に悲しそうにしてたじゃないか」 「……ニコさん、優しいね」 だから、痛い目見るんだよ。だから、僕みたいな奴に引っかかる。身体を甘噛みされる程度じゃ済まされなくなるのに……真面目って本当に損な性分だよね。同時に浮かび上がる笑みを僕は隠しもせずに声を上げた。ふふ。 「じゃあこれからも抱いてくれるんだね?」 「……は?」 「だからぁ、これからも会ってくれるし、飲んでくれるし、僕とセックスしてくれるんだね?」 ばーか。 僕はニコさんの腕の中で器用にくるりと体制を入れ替えると、きょとんとした男の目の前で唇を歪ませた。 あーあ、やっぱり優しいからこそ甘い。僕の性格を知ってる癖に甘ったるい考えをしてるからこういう目に遭うのに、ニコさんは知らない。お人好しで、僕への罪悪感から潰されそうになるんだ。だって、僕は罪悪感とか良心の呵責とか、そんなものは《知らない》んだから。僕がそんなおかしな気持ちを持たずに生きてるって知ってるはずなのに、ちょっと演技のようなものを見せ付ければあっという間に陥落してしまう。優しくて、オトナなニコさんは用意した罠に自らどっぷりとハマってくれる。 目に光をたっぷりと湛えてニコさんの瞳を覗き込む。ニコさんはかなり呆然としているようだけれど、もう遅い。僕のような奴に目を付けられた時点でおしまいなのだ。可哀想。可哀想に。僕には涙も懺悔も何もない。最初から空っぽだって知っていたはずなのに。 唇をにんまりと釣り上げて、未だに現実に帰ってこれていない様子のニコさんに言う。 「あんなに激しいの久し振りだったから興奮しちゃった、うふふ。あちこち痛いけどそれもまた一興だし、何よりすっごい溜まってそうな頭のお固い先生が熱い吐息で僕の名前を呼ぶのとか、最ッ高なんだけど?」 「……れ、レム!?」 「なぁに? まさか僕にちょっと同情したりしちゃったの? 僕にあるのは自己満足の為の手段だけだよ。最低って呼びたければどうぞご自由にね?」 急激に赤くなっていくニコさんの頬を尻目に優しく口付けて、そのまま頬擦りを繰り返す。さっきまで焦って僕を掴まえていた彼は今度は慌て始めている。そんな愛らしい男にピタリと身体を寄せる。ニコさんが逃げようとしているのは判るけれど、そう易々と折角手に入れた宝物を手放す理由なんてないじゃないか。僕の中の《ごめんなさい》は相手に寄り添う為の常套句でしかないんだから。ああ、本当に《電卓とパソコンとだけにらめっこをし続けているだけの先生》は甘過ぎる。でも僕は騙していた訳じゃない、騙していたつもりもない。勝手に勘違いしたニコさんがわるいのだから、最初から最後まで僕は僕であるように振る舞っただけの話。 固まったままのニコさんに何度か口付けを施して僕は見せ付けるようにウインクをした。 「それじゃあこれからも宜しくね、ニコさん。何なら今すぐもう一度してみる? ゴムならまだあるよ? 僕は今日シフト無いんだよねぇ」 「……言い過ぎたと勘違いした私が馬鹿だったよ」 僕を抱きとめていた腕を解いて、ニコさんは椅子に引っ掛けてあったテーラーメイドのジャケットを掴んで早めの足取りで玄関まで進んで行く。勿論、あの心地の良いピンヒールの音色を僕の部屋に響かせて。去り際の後ろ姿は普段見ている様子とほんの少し、ピースの大きさが合わないくらいの違和感を纏わせている。けれど、彼は何か思い立ったのか、玄関の扉を開ける前に振り返る。目と目が合って、刹那的な見詰め合いの中で、不機嫌だったニコさんは薄らと笑った気がした。僕が疑問を投げかける前に彼は踵を返して僕の前までやって来ると、僕が持ったままだった朝食の、すっかり冷えてしまったベーコンだけを引っ掴み自分の口に放り込んだ。 それに対して僕が何かを言う前に、ニコさんが僕の額を指で突く。 「次は……本気で怒るからな」 扉が開いて、隙間から差し込んだ眩しい光の中に彼は消えて行った。次は怒るとだけ言い残して。僕は赦されたのか、それとも……でもあのニコさんが《次はない》と言うのだから、今回は本当に…… 「無かった事にもされなかったし、関係が終わる事も無かった?」 まだまだ彼を愛しても良いって事で、まだまだ愛される資格も残ってるって事だ。 胸を高鳴らせる最高純度の悦楽に僕は抱えたままのトレーをくるりと回し、まるでスキップのような足取りでキッチンへと向かう。こんなにも軽やかな動きになってしまうのは何故なのだろう。 僕は自他共に認める遊び人、街ゆく人間の一晩の恋人にして場末のバーテンダー。僕を一晩だけでも愛してくれればそれで良い。常に次があり続けるなら、相手は誰だって良い。悦がって、踊って、鳴いて、相手が夢中になっている隙に全部喰らい尽くす。毒牙をも隠し持つ蠍。武器は一つとは限らない。 高揚する気持ちを静めるのも惜しくて、鼻歌交じりにニコさんに差し出したはずのオレンジを掴んで齧り付く。甘酸っぱい味わいに頬を緩ませて僕の手の中に収まっているであろう彼の姿を脳裏に描く。同時に浮かび上がるのは――多分、ちょっとした苦々しさだ。 初めてだったんだよねぇ……僕の誘いを断る男。ムキにさせたニコさんが悪いに決まってる。だから美味しく頂いた訳なんだけど。 「演技な訳ないでしょ……僕の事、大切にしてくれてるみたいな言い方でさ、あんなに怒るんだもん……」 そう、僕には彼でなければならない動機があります。 彼にはきっと、自分が愛される動機なんて想像も出来ずにいるのだろうけど、いつになったら気付けるのか、誰かとギャンブルでもしてみたい。賭けたって良い。優しすぎるニコさんは絶対に気付けないままでいるはずだ。何もかもをベットしても良い。どうせ自分の元に帰って来るのだから。勿論倍になって。……でも、湧き上がるその苦々しさは、甘っちょろい考えをしたニコさんの怒った顔だ。 「嬉しかったって言ったら、また怒られるのかなぁ……」 不意に何故か足が重くなる。オレンジの果汁でベタベタになった指をべろりと舐め上げた。気付けばいつも丁寧に塗ってあったはずの黒いマニキュアが少し剥がれかけていた。みっともないから早めに綺麗にしようと考えるが、今はそんな気分にはなれなかった。意識すれば気怠くなってしまう身体を引き摺るようにしてニコさんの香りが残るベッドに倒れ込んだ。シングルのベッドに男二人は狭かったけれど今となってはとても広く感じてしまう。鼻腔を擽る残り香に抱き締められようとブランケットを引っ張って身体に巻き付ける。 その次の瞬間――ピコンと受信を知らせるスマートフォンの音色に反射的に身体が反応する。夜が勤務時間の僕にとっては朝は基本的に熟睡の時間だ。今日は特別だった訳だけれど。 枕元に放置してあったスマートフォンに手を伸ばすと、そこには見た事の無いアドレスが記されている。誰だろう。一晩だけの関係の相手は登録するのが面倒で文面かやり取りで思い出す事が殆どだ。指紋認証でロックを外すが、現れた文が理解出来なかった。 「……え?」 文字が滑る。 中身が頭にスムーズに入らない。 《寝てる間に指紋を拝借させて頂いた。昨晩の非礼に、今晩どうか、食事にでも》 ……甘いよ。甘過ぎるよ。そうじゃなきゃ、馬鹿だ。そして僕も甘いんだ。そして馬鹿。まさか連絡が来るなんて思ってもいなかった、僕が寝ている間にスマートフォンを弄ってただなんて気付かなかった。僕ってこんな安っぽい人間だったっけ。自分を安売りなんて絶対にしないって言うのがポリシーでモットーだ。遊び人ではあるけれど、相手を選ぶ権利だってあるはすだ。 ガラにもなくメールに保護をかけようとした瞬間に、再びピコンと音が鳴り、現れた文字に目を見開いた。 《追伸。私は紅茶派だ。それと、私の盗撮写真を待受に設定しないように》 「――っ!?」 かぁっと頬が熱くなる。抱かれていた時のような熱さじゃない。これは暴かれた事実に赤面していると言う事なのだ。いつでもクールで相手の先を行くようにして隙を作らないようにしていたのに。してやられた。そうだ、当たり前じゃないか、僕のアドレスを盗むのならコレを弄る訳で、そうしたら待受なんてすぐに判ってしまう訳で…… 見られた。見せたくなかった僕の秘密が。晒された。僕の中の《衝動》が、一番知られてはいけない、見せてはいけない相手に、自分の手の内を全て曝け出して、馬鹿正直にもカードの使い方さえ教えてしまったようなものだ。 前言撤回。絶対にニコさんの事で賭けるのは止める。倍になって帰って来るどころか完全なる丸裸にされてしまうかも知れない。僕が常に勝っていると思っていたのに、暴いてやったニコさんの《衝動の秘密》を言わずに仄めかすだけに留めていた僕の姿は、呆気なく砕け散ったのだ。 「……あー…恥ずかしい……」 ニコさんのハイヒールの秘密を暴いて晒してやった僕が、こんなにも強い恋心を抱いているなんて多分あの頭の固い先生にだって、ここまで露骨にやっているならバレないはずがない。冗談は通じないような相手だけれど、ニコさん自身が冗談を言わない訳じゃない。どんな顔をして待ち合わせ場所に行けば良いのだろう、どうやったらいつものように嘘を吐けるのだろう。本能と本音だけで生きているつもりだったけど、秘密を握られた相手に嘘で塗り固めた城を守り抜ける訳なんてない。 僕には彼でなければならない動機があります。 だって本当はずっと恋をしていたのだから。 握り締めたスマートフォンが手の力に負けて落ち、僕の顔面を叩き《今日は最悪だ!》と叫ぶのはそれから五分後の事だった。 終幕。

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