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ホルの話
ホルの母は、お世辞にも良い母とは言えなかった。
見目は悪く無かったが、悪くない程度のものなので格別美しいわけでもない。
教養もないから浅はかで、わからないものに理解が無いからおおよそこの世のほとんどの事を嫌っていた。
字が読めないから本を嫌い、絵が描けないから絵画を馬鹿にし、身分の低さに貴族を憎んだ。
己より優れたものはすべて自分を馬鹿にしていると信じていた。
彼女が人より優れていたのは舞踊くらいだろう。
ひどく歪んだ女だったが、ひとたび舞えば誰もが彼女を称賛せずにはいられず、ひとたび踊れば誰もが彼女を望まないではいられない。
やがてとうとう皇帝までもホルの母へと手を伸ばし、やがてホルが生まれた。
ホルが生まれた国は、砂漠と太陽と大河の国。人が生きる場所として不向きなようで自然の脅威そのものが国を護り、強国では無かったが他国に侵略されることもなく、太平の世が続いていた。
皇帝の子を身ごもるなど、(ホルの母からすれば)女の頂点に立ったと言っても良いはずだった。どれだけ身分があろうとも、どれだけの富を持とうとも、国の頂点に愛されその分身を宿した己に敵うものなどいるはずがない。そのはずだった。
だが、皇后が同じ年に子を宿し、あっという間にホルの母の有頂天を台無しにした。
ホルの母の懐妊にはすべての者が疑い、責め立て、信じず、嘲り、許さなかった。
だが皇后へはどうだ。すべての者が喜び、微笑み、護り、称え、愛した。
同じ女のはずなのに。
ホルの母は、皇后を、そして皇后の腹の子をなにより憎んだ。
あれがいるから自分は嘲られるのだ。
あれがいるから自分は憎まれるのだ。
後宮でホル母子を護る皇后を、ホルの母は許さなかった。
騙されるな。あの女は私たちを馬鹿にしているんだ
ことあるごとに幼いホルへ、ホルの母は呪詛のように皇后がどれだけ酷い女であるのかを言い聞かせてきた。
だが、これはホルの母にとって良いことなのか悪いことなのか判断の難しいところであったが、ホルは聡明な子だったものだから、ホルの母がホルに聞かせる皇后の本性とやら のほとんどが、ホルの母に投げられてきた陰口の繰り返しであるとわかっていた。
つまるところ、自分に向けられた悪意を投げ返す相手として、己を護る皇后が己を責めるはずがないと選び(陰で)攻撃しているだけなのだ。
自分が安全な相手だからこそ攻撃する。それはホルの周囲の大人達もそうだった。
幼いホルは小さいから見えなかったと蹴飛ばされ、帯刀している剣の鞘で殴られ、生きる為なら誰にでも足を開く心の卑しい女が母のくせに、皇帝の子を気取る可哀想な勘違い者と馬鹿にしたあわれみを投げられた。
だがそれらはすべて過去の事だ。ホルが育つにつれ誰が見てもホルと皇帝は年の離れた兄弟のようにそっくりに育ち、それどころか国中の武人の中で最もたくましく強くなり、皇后の庇護の元、学んだ学問のお陰で教養も十分なくらいにあったものだから、かつてホル母子を馬鹿にし、身を隠しもせず堂々と嫌がらせをしてきたもの達は今では報復を恐れて逃げ回っている。
かつて、ホルの世界は恐ろしいくらい歪んでいた。
自分に反撃してこない安全な相手を探して攻撃し、自分より優れた相手を憎み、自分より哀れだと思える相手を探して優越にひたろうとする。歪みを抱えた者ばかりだった。
この国で成人とされる歳を迎えた日、国をあげて祝われてから日付も変わろうという夜更けにホルは父の訪問を受けた。日が登ればホルは皇帝の成人した長男として、新しい政務や祭祀を覚えねばならない。昨日まで長かった髪がなくなり、短く刈った頭にまだ違和感がある。色々と落ち着かないまま、ホルの自室の応接室で簡素な室内着の父と向き合って座り、なにも言わない父がなにか言うのを待つ間、つらつらと成人するまでのとりとめのないあれやこれやを、感慨深く思い返していた。ホルは就寝するつもりだったので夜着である。着替えようともしたのだが、長居はせぬからそのままで良いと父に止められたのだ。しかし思ったよりも父は中々話を始めず、少しだけ自室であるが居心地が悪い。
「大きくなったな」
やがてホルの父は、ぽつりと言った。
「はい」
実際ホルは大きく育っていたので、父の言いいたいことが全く読めぬまま、素直に一言だけ返した。
「それだけではない。お前は私によく似ている」
「はい」
これも本当にその通りだったので、一言だけの肯定で返した。
「だからこそ聞くのだが」「お前はカラをどう思う」
ホルはむせた。だが父はホルのその反応に一度重々しく頷くと、特に触れずに話を進めた。
「あれの母が儚くなった時に神官達には言ったのだが、私はカラに男の成人の儀をするつもりはない」
「父上?」
ホルとカラは母親の違う兄弟であったが、生まれた月が数ヵ月違うだけで歳は同じだった。つまりホルに遅れて、カラもこの年に成人するのだ。だがホルの父は、カラに成人はさせぬと言う。一体カラがどのような形で父の不興を買ったのか。幼い頃のカラと比べると、確かに今のカラはあまり表に出たがらず、人に会うことも嫌がり、外交や社交には向かなくなってはいる。加えていつもどこか陰鬱な伏し目がちで、視界にものを入れようとしないばかりか、貴族達の機嫌取りにも、お伽衆が見せるどのようなものであってもつまらないものを見たとばかりにニコリともしなくなっていた。
カラから最後にまっすぐ見つめられたのはいつだろう。いや、そんな風にわざとらしく思い返そうなどとしなくてもホルは鮮明に覚えている。十になった頃の事だ。皇后が自分達にと選んだ教育係が重々しく二人に言った。
これからはお二人それぞれ違う師についていただきます
今までずっと一緒だったのに。突然の事に目を見開くホルとは違い、カラにはわかっていたことだったのか、静かにうつむいて承諾の返事をした。
「なんで!?カラ、なんではいだなんて言うの!?」
信じられないとカラを見下ろすホルを、カラは悲しげに見上げた。
そう、もうこの時には顕著に二人の差はついていた。二人ともそれぞれ同じように座っているにも関わらず、ホルはカラを見下ろさねばならなかったしカラはホルを見上げなければならなかった。体格だけの話では無い。学力も体力もホルはカラより数段優れ勝っていた。これ以上共に学ばせるのはお互いの為にならないと教育係は判断し、カラは身をもって十分に理解していたのだ。
けれどホルはわからなかった。
ずっとずっとホルはカラといるつもりだった。カラができないこともわからないことも、自分が助けるのだから問題は無いはずだと信じていた。それはカラも同じだと思っていたのに、カラはホルといられないと言われておとなしく了承した。
裏切られた!裏切られた!
ホルは自分達を分かつ教育係より、別れを当然の事のように受け止めたカラが許せなかった。
うつむくカラを見下ろして、胸の内で暴れる黒いものがよこす衝動のまま、絶対に嫌だと言おうとしたときに再びカラがホルを見上げた。
「ごめんね」
涙でうるむ瞳にまっすぐ見つめられて、ホルはなにも言えなくなった。泣くなんてずるいとも、泣いても許さないとも言えなかった。ホルに謝るカラの顔は、カラがよくする、ホルに勝てなくて悔しいと泣く時の顔だったのだ。きっとホルが今悔しく思うよりずっとずっとカラは悔しいのだ、そう悟れてしまえば何も言えない。胸の内で暴れていた真っ黒なものが瞬時に消えてしまう。
いつもそうだった。
ホルが辛いとき、胸のうちに黒いものがくすぶる時はいつもカラが払ってくれた。ホルを慕うカラの涙が、笑顔が、ホルの抱える黒くて重たいものをいつも払ってくれていた。優れたものを憎む母が、とうとうホルにまで手をあげてきたのをただ払って避けようとした勢いに、まだ自分の力を十分に理解しきれていなかったホルの抵抗を受け止めきれず、母は吹っ飛び打ち所が悪くそのまま動かなくなってしまった事があった。死んではいないが生きてもいない。ホルの母は後宮の奥でひっそりただ眠り続けている。後宮でのホル母子は皇后が庇護しており、事件が起きた時すぐに現れた皇后の腹心の女官は手際良く後始末をすると、これはホルの母が転んで起きた事故なのだとホルに言い含め、皇后にも周囲にもそう話した(さすがに皇帝には真実を話したのかもしれないが、皇帝は今に至るまで何も言ってこないのでわからない)。けれどホルは母を払った己の右腕に、なにか悪いものでも憑いたかのような嫌悪感がはりついて、右腕が気持ち悪くて仕方がなかった。
だがそれを、カラが払ってくれた。
なにか特別な事をしたのではない。ただ右腕が気持ち悪くてふさいでいたホルの右手を取り心配そうに声をかけただけだ。
「ホル大丈夫?」「カラがいるからね」
それだけで、ホルの右腕に張り付く嫌悪感が雲散霧消してしまった。それどころか自分の右手は、いや自分は何者にも負けない最強の者になった気までした。なにしろカラがついてくれるというのだ。手を握ってそう言ってくれたのだ。これはもう勝ったも同然だ(何にたいしてかはわからないが)。
なぜこんなにもカラはホルを救い、強くしてくれるのか。疑問にもならない。ホルは信じていた。そう、カラは
「何を考えている」
ついカラに思いを馳せて馳せて馳せていたら父が声をかけてきた。そういえば成人の儀を迎えた夜に、父が部屋を訪れてこうして話をしていたのだった。うっかり忘れていたホルは、それでもすぐに言葉を返した。
「なぜカラを成人として認めないなどと言うのです。だってカラは」
「神なのに、か?」
わかったような顔でホルの言おうとしていたことを、ホルの父は言った。驚いて目を見張る息子を満足げに見つめながら、ホルの父はやはりな、と独り言のように言う。
「父上、やはりとはどういう事なのでしょうか」
ややうわずった声でホルは父の言葉を拾った。
「そのままだ、なぜならあれの母も女神であったのだからな」
「!」
そう、ホルはカラを信仰していた。カラを見るだけで心が弾むのも、声を聞くだけで嬉しくなるのも、見つめられると幸せになるのも、カラという存在ひとつでホルの全てが救われてしまうのも、きっとカラこそ神がこの世に遣わした子、ひいては神の子、いや神そのものに違いないとカラを信仰していた。そして父もそうだと言う。それどころか皇后が女神だと言うのだ。
「なんと!皇后様もそうだとおっしゃいますのか父上!」
あまりの事に、ホルはやや腰をあげて父に問う。
「ああ」「あれには人を救う力があった」「あれの姿に、声に、瞳に、微笑みに、その全てに私はいつも救われていた」
「父上...!!!」
「あれが特別なのか、私がおかしいのか確かめる為にも様々な相手を求めたが、あれを前にしたときに起きる胸の高鳴りも高揚もなければ私にむけられた笑顔、言葉だけで空に舞いあがりそうになることもなく、間違いなくあれが特別なのだと確信にいたるのみだった」「皆が私を神と言うが、本当はあれこそが女神だったのだ」「であれば、その子も神であるに違いない」
とつとつと語る父の言葉に、ホルは返す言葉が浮かばなかった。やはり、カラは神であったのだ。微かに震える体でホルは強く拳を握った。ホルは知っていた。カラと自分が違うのも、カラが遅いのではない。カラの時間は人の子とは違うのだ、そして自分が並外れているのは優れているからではない、自分こそがカラを護る為に生まれたからだ。自分が得ているなにもかもが、カラがあっての事なのだ。
「我が最愛の妻、最愛の妹」
ホルの父は感慨深く語る。
「本来父も母も血縁の子であれば、親兄弟を娶る必要はない」「私の父と母は母子であったが、それでも私は妹を皇后として迎えた」「女神であるあれこそが女王であるべきだと思ったからだ」「だがホルよ、お前は違う」
そうだな?と父から見つめられてホルはようやく理解した。
「まさか......まさか父上っ」
「そうだ、ホルよ」「お前はカラを后にせよ」
いいの?
うっかり素で聞きそうにホルはなった。確かに神の声を聞く血を薄めてはならぬと、皇帝になるには近親婚をしなければならないしきたりがこの国にはあった。世継ぎが皇帝と皇后の子であればそれだけで血は強いはずなので必ずしも近親婚をしなければならないわけではなかったが、皇帝と妃の子であれば必ず皇帝と血の近い者を皇后にせねばならない。そのうえで、ホルときたらホルの母は身ごもった時に妃となったような身分だ。もし皇帝がホルに跡を継がせようと思うなら、それこそ姉や妹、父の方が先に隠れていたら皇后を娶るくらいしなければきっと本来は許されないだろう。だが皇后はこの時すでに重い病の末眠るように儚くなっており、ホルには姉も妹もいない。皇帝には妹の他に姉がおり、彼女に幸い娘がいる。本来であれば、一番の候補はその娘であろう。
「ですが父上。血縁を迎えるのはより血の濃い神の御子の為です。カラは子を宿せません、神官達や貴族達が許すでしょうか」
「だからもう絶対そうするってずっと言い張ってきたのだ」
得意気な父を見つめて、それでいいんだとホルは驚愕した。
いいわけがない。
いいわけがないのだが、権力闘争の世界で皇后という地位はいわば有名無実で重要視されていなかった。前述したが、かならずしも近親者でなければいけないわけでは無いとはいえやはり血の近い者がなりやすい。自然権力者達が狙うのは皇后や皇妃の父ではなく、皇帝の祖父という地位である。娘が後宮でどのような存在になるのかは問題ではない、大事なのは皇帝の子を生むことなのだ。
それを考えると、逆にカラが皇后となるのは都合が良く、反対はあまり無いかもしれない。ホルは改めて気がついた。なにせカラでは子が生まれない。カラが皇后である方が己達に可能性が生まれるのだ。
カラを己の伴侶とする。
カラを盲信していたホルは、そんなことを考えたことがなかった。将来皇帝となったカラを護り支える為だけに、自分を磨いてきていたのだ。神がこの世に遣わした御子であるカラを頂きに、カラを護る為に生まれた自分が仕える。国の安寧は約束されたも同然だ。ずっとそう信じてホルは生きていた。カラとの距離ができてしまっても、カラを護る事こそが己の使命だと、カラの側女や臣下にカラの近況を知らせるように命じ、皆もホルの使命をわかっていたのだろう、応援していますと惜しみのない協力を買って出てくれていた。
それが、皇帝は己に。カラを皇后に。
ぎゅうと胸がつぶれたかのような痛みを覚えた。一瞬、カラを娶ろうとする神罰かと思ったがすぐに違うと気がついた。
これは歓喜だ。
震える体、渇く喉、痛む胸と鳥肌の引かぬ肌。ゾクゾクとした体を支配しているこれは、歓喜だ。
ずっとずっと、ホルは思い悩んでいた。
いつも自分に救いをくれる、カラの望みを叶えたいと。ホルの一番になりたいと言うカラの願いを、どうやって叶えたらいいのだろうと。
ホルの一番というのなら、とっくにカラはホルの一番であったが、カラはこれでは足りないと言う。なんと愛しい強欲だろうか。きっとカラは、はっきりと自分がホルの一番だという安心が欲しいのだ。だというのなら、皇帝となった己の伴侶として皇后とすればいいのではないだろうか。皇帝にとっての皇后など、はっきりとなににおいても一番だと約束したようなものではないだろうか?
ようやく、ホルはカラの願いを叶えてやれるのだ。
かつてホルの世界は歪んでいた。その中にあってカラだけが、いつもホルをまっすぐ見つめ、褒めてくれた。ホルはすごいと微笑んでくれた。カラがいたからこそ、ホルは歪まずにいられたのだ。カラの称賛がほしくて、カラの尊敬がほしくて、カラの愛がほしくて、ホルは今のホルになれたのだ。カラがまっすぐ見つめる瞳の中、もうその瞳の中にいる己に嫉妬する事もなくなるだろう。カラの瞳にいすわるもう一人の自分、カラに愛されているのは自分なのに、まるで当然のような顔で、カラの瞳の中にいる己。カラと共にカラの世界を共有しているかのようで、ホルは瞳の中がうらやましくて仕方が無かった。けれどももう、この嫉妬とは別れをつげられるはずだ。
なにせ、カラを皇后としてホルの一番にするのは他でもないこの自分なのだ。
息子が自分の提案を受け入れるだろうと察した皇帝は、しかしひとつだけ条件をつけた。
「カラを皇后に」「ただし」「カラがそれを望むのなら」
無理強いは許さぬ
厳しい顔で言う父を、ホルもまっすぐ挑むように見つめ返した。
「無論です」「カラを悲しませる者は、私であっても許しません」
強い意思が込められた返事に、皇帝は満足そうに頷くと話は終わったと立ち上がった。
「とはいえ私もまだ引退する気はない」「焦らずにカラを娶る準備をせよ」
「はい」
父が去ったあと寝室に向かったが、ホルは眠れる気がしなかった。
広い寝台で横になってはみたが、一向に睡魔は訪れない。
どうせならカラを驚かせたい。なにかの記念日よりはなんでもない日に不意をつきたい。カラは受け入れてくれるはずだ。だってずっと言っていたのだ、ホルの一番になりたいのだと。ようやく、ようやく一番だと知らせてあげられる。その為にも、今後はいっそうカラから目を離せなくなるだろう。カラの体調、憂い、行動、全てを知ってカラが手放しで己の伴侶となる知らせに喜べるようにしなくては。そうだ、カラの誕生日に己の友を臣下として贈ろう。よく気がつき、話の上手い者が良い。カラの些細な浮き沈み、好みの変化、巧みな話題で聞き出して、よりいっそう自分がカラを知られるように。
今自分を満たす幸福感を、いつかカラにも贈れる日が待ち遠しい。
きっと、突然長い間の夢が叶ってびっくりするはずだ。ホルの小さないたずらと、おおきな喜びではしゃぐカラをどうやって抱き締めよう。
その日を思ってホルは幸せなため息をついた。
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