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密かな熱

チャイムの音が遠くから聞こえてきた。本当はすぐそこで鳴っているのだろう。でも半分夢の中に落ちている頭では、その距離を正しく測れない。このまま眠ってしまえれば気持ちいいだろうな。 「きりーつ」 日直の気怠げな号令に、しょうがなく立ち上がる。眠い、ただただ眠い。この後も授業があると思うと憂鬱で仕方がなくない。しかも大嫌いなら体育だ。何で運動が出来る奴も出来ない奴も平等にやらされるんだと、誰にぶつけてもしょうがない様な怒りが沸々と湧いてくる。 「礼」 古文の先生に軽く頭を下げ、授業は終わった。何をやっていたのか内容はほとんど入っていない。何故なら、ずっと睡魔と戦っていたからだ。窓側の席の眩しさなんて気にならないほど、眠たくてたまらなかった。今すぐベッドを貸してくれれば何秒もしない内に眠れる自信がある。 ただ、残念ながら僕を待っているのはベッドではなくグラウンド。重たい腰を上げて準備を始める事にした。周りのみんなも嫌々といった感じで準備を始めている。 「あー、だりいな」 「何で長距離なんて走んなきゃいけねえんだよ」 文句を零す後ろの席の二人。心の中で共感しつつ、声は出さずに耳を傾けた。 「かっこいい所見せても女子いないからなー」 「男子校なんてやめときゃ良かった」 愚痴は思わぬ方向へ進んでいく。どうやら男子校に入った事を今更後悔しているらしい。二年の春にそう感じてももう手遅れだ。男子校の独特の雰囲気に慣れ始めてしまっている。 女子との関わり方なんて全く分からない。そもそも興味がない。異性を意識しても可笑しくない年代ではあるけれど、全員がそうとは限らないのだ。僕みたいな人も一定数はいる。 「おいやべえよ!」 突然教室に響き渡る声。視線は声の発された方へ集まった。どうやらクラスで一番のお調子者の勝の声だったららしい。なんとも言えないにやにやとした表情をしている。勝がこの顔をしている時は大抵下らないギャグを思いついた時だ。 別に聞かなくてもいいか。それよりも早くジャージに着替えないと。 「奏太の背中に爪跡があるぞ!」 まさかの告発に、僕は動揺し持っていた物を床に落とした。バサッという音と共に地面に叩きつけられるスポーツバッグ。授業中の静かな教室で落としていたらかなり目立っていただろう。でもそんな雑音はみんなの声に掻き消されあ。勿論、話題の中心人物である奏太を問い詰める声だ。 「おいどういう事だよ!?」 「彼女できたのか?」 「さすがモテ男は違うなー!」 とても楽しそうに冷やかす勝。奏太は「自分で引っ掻いただけだっつーの!」と誤魔化しながら、ジャージへ着替えている。周りの奴等も各々が奏太をからかい笑っていた。 楽しそうなクラスの風景。僕はそんなやり取りを遠くから眺めているだけだ。あくまでただの外野を演じる。クラスの人気者の奏太がからかわれているだけ。端っこで窓の外を眺めている僕なんて部外者だ。それでいい、そうではなくてはいけない。 ただ、自分の指先を確認せずにはいられなかった。知らない間に伸びていた爪。何かを引っ掻けばすぐに跡をつけてしまいそうな長さだ。何故昨日の朝の内に切って来なかったのだろう。後悔したってもう遅い。 僕は出来るだけ表情を変えずにジャージへ着替え、誰よりも早く教室を出た。向かう先は大嫌いなグラウンド。ただ進む足は断然速く、何かから逃げている様だった。さっきまであった強烈な睡魔ももう感じられない。全てが、さっきの一件で吹き飛んでしまったみたいだ。 少しだけ身体が熱いのは、きっと昨日の夜を思い出しているから。 「……うるさい」 頭の中で何度も響く自分の嬌声。忘れたくても忘れられない記憶に支配されていく。そしてそこに混ざる荒い呼吸音。誰のものかなんて分かりきっている。 次の授業が体育で良かった。このどうしようもない熱を発散出来るかもしれない。いやそもそもそ体育なんて無ければ奏太がからかわれる事もなかったのか。じゃあやっぱり僕は体育なんて嫌いだ。大嫌いだ。 結局整理のつかないまま運動靴に履き替え、上の空でグラウンドへ着いた。それから少し後にみんなも到着する。勿論、奏太もだ。さっきまでの盛り上がりはもう冷めたのか、特に騒いでいる奴はいない。クラスの空気は目まぐるしく変わる。これだけ大人数の人が集まればそういうものだ。 体育の先生が遅れてやって来て「ストレッチ終わったら走るぞ。」と爽やかな笑顔で言い放った。露骨に嫌な顔をしそうになって、必死に無表情を装う。いつも「眠そうだね。」とか「表情がない。」と言われる僕にしては珍しい。 保健体育委員を中心に渋々ストレッチを始める。突き刺す様に照らして来ているのは日光。春の木漏れ日というよりは夏の日差しに近い。あっという間に春が終わって夏が過ぎ、秋に染まり冬がやって来る。置いていかれそうな勢いで季節は過ぎていくものだ。 「いっちにーさんしー」 聞き慣れた掛け声を小声で繰り返しながらその場で跳ねる。平均身長より背が低い俺が跳んでる姿は滑稽なんだろうなと人ごとの様に思った。 こっそり視線を移した先には、真剣な顔でストレッチに取り組む奏太がいる。細身で高身長、おまけに運動神経抜群な幼馴染み。昔は自分と比べて卑屈になっていた時期もあった。でも今はそんな感情はかけらも無く、素直に尊敬出来る。もしも此処が共学なら今頃女の子にちやほやされているのだろう。 だらだらとストレッチを続け、最後は背中を反らすストレッチ。空の青さが嫌という程見える。少しぐらい曇っていればいいのに。 「ストレッチ終わりましたー」 「じゃあ集合して」 いよいよ地獄の長距離走が始まってしまう。これさえ終われば昼休みだと自分に言い聞かせどうにか乗り越えるしかない。 先生が走るコツを説明しているが、運動音痴が今更どう頑張ったって無駄だ。男子校だと、必然的に僕の様な運動音痴はクラスの中で格好悪い奴というレッテルを貼られる。 どうでもいい事を考えている間に先生の説明が一通り終わっていた。出席番号順に走るらしい。雪平という苗字の僕はかなり後ろの方だ。最初に走るよりは幾分マシだな。 横に五人が並び、それぞれのコースの前に立つ。まずはウォーミングアップという事で百メートル走るようだ。先生のキレの良い笛の音でみんなが走り出す。どんどん列が進んでいくに連れて胃が痛くなる。走りたくない、本当に走りたくない。 叶いもしない願いは簡単に打ち砕かれ、あっという間に自分の番だ。 「ピッ」 笛の音を聞いて一気に走り出す。早速足がもつれそうになり、どうにか持ちこたえた。すぐに他の人との差が開き、もう背中しか見えない。 ただ、風を切る感覚はあった。遅くても真っ直ぐ前を見て走る。普段は猫背だがこういう時だけは背筋が伸びるのだ。 もう少し足が速かったら、もう少しだけ背が高かったら。どうしても自分に無いものを羨んでしまう。 その時だった。 「えっ」 ぐらりと身体のバランスが崩れる。転んだと自覚する頃にはもう遅く、派手に前方へ倒れ込んだ。手をつくだけでは吸収できない衝撃が身体を襲う。地面に叩きつけられ、その痛みに思わず呻き声を上げた。 「雪平ー、大丈夫かー?」 先生の声が遠くから聞こえる。大丈夫だと知らせたいが声が上手く出ない。それぐらいの衝撃だった。クスクスと笑う声も聞こえてきて、心底自分が嫌になる。 何が風を切っているだよ。情けない、格好悪い。 「おい」 ぶっきら棒な声に僕は思わず振り返る。その声を聞いた途端、誰のものなのかすぐに分かったからだ。自己嫌悪だとかそんな感情は全て破壊する。 視界の中に映ったのは表情に怒りを滲ませた奏太だった。 「何やってんだよ」 差し出されたのはごつごつとした男らしい手。僕はその手を掴んで良いものか一瞬悩んだが、素直に掴む事にした。ぐいっと引き寄せられ何とか立ち上がる。そして簡単に結んでいた手は離されてしまう。当たり前だ、繋いでいられる訳がない。 「あ、ありがと」 お礼を伝えるが奏太はそんな言葉聞こえていないかの様に反応を示さない。分かっていたがやっぱり少し悲しくなる。 僕等は学校で親しくしない事を約束しているのだ。幼馴染みである事も隠している。出来るだけ他人の様に接してきた。特に奏太は僕に冷たい態度を取っていた。そんな奏太が手を貸してくれた事に驚きと喜びが湧いてくる。 ただ喜びだけで痛みは解消されず、よく見たら膝はかなり擦りむけていて血がだらだらと流れていた。ただでさえ貧血気味の僕は今、どんな顔色をしてちるのだろう。そんな状態のまま先生の元に歩み寄っていくと「保健室行ってこい。」とすぐに指示された。 長距離を走らなくて済むという安堵感に勝る感情が一つ。僕の中で確かに何が満たされた。 じんじん痛む足で、玄関へ行き靴を履き替える。そこで転んだ原因が靴紐だと気づいた。上の空でグラウンドに向かった時に、しっかり縛っていなかったのだろう。ただの自業自得だ。 保健室は一階の職員室の側。僕は一応ノックをしてから扉を開けた。いつもなら白衣を着た優しい女性の先生がいる筈だが中には誰もいない。代わりに「もう少ししたら戻ります」とホワイトボードへ書き込まれているのを見つけた。じゃあ此処で待っていよう。 「……はぁ」 勝手に漏れ出すため息。何に対してのものなのか自分でも分からない。 さっきよ奏太はどんな顔をしていたっけ。少し怒っていた様に見えたけれど、僕の所為だろうか。鈍臭い奴だと呆れていたのかもしれない。ただ強く印象に残っているのは、黒髪が日光に当たって綺麗に見えた事。月の光に照らされている時とはまた違って見えた。 このまま奏太の事を考えて時間を潰していようかな。それとも目を瞑って眠りに落ちてしまおうか。 椅子に座ったまま後ろの壁にもたれ掛かる。するの消えた筈の睡魔が徐々に襲ってきた。ふわふわと夢の世界へ誘われていく。 このまま目覚めなかったらどうなるだろう。そんな事を考えてしまう。きっとだれも困りはしない。僕の存在なんてそんなものだ。 でも奏太は、奏太だけは泣いてくれるかな。 センチメンタルに片足を浸す頃には、僕は夢の中にいた。思い出せない様な下らない夢。ただ意識はずっとそこにあるみたいで、遠くから先生の笛の音が聞こえて来ていた。 「…ん、蓮、起きろ」 夢と現実の狭間で、誰かが僕の名前を呼んでいる。更に肩を揺さぶられてやっと意識が鮮明になった。開いた瞼の先に見えたのは不機嫌そうな奏太の顔。驚いて仰け反ると、バランスを崩して椅子から落ちそうになる。どうにか持ち堪えて座り直せば、「やっと起きたな。」とため息混じりに言われてしまった。 「えっと……何で奏太がいるの?」 「お前が昼休みになっても帰ってこないから様子見に来たんだよ」 「あー、ごめんね」 へらっと笑って見せるも奏太の表情は変わらず硬い。僕が怒らせたなら謝るべきだけれど、何をしたのか心当たりが無かった。表面上だけの謝罪は余計に怒らせてしまうだろう。どうするべきか悩んでいると、奏太が「診てもらったのか?」とぶっきら棒に聞いてきた。 学校で会う奏太は優しいのか厳しいのか分からない。幼馴染みとして見せる態度とはまるで別人の様だ。 「先生がいなくて、待ってるうちに寝ちゃったみたい」 「ふーん」 興味無さげな返事にそれ以上は何も話せない。気まずい雰囲気に顔を背けたくなる。ただ向かい合わせで座っている奏太の顔がいつもより少し近くで、内心ドキドキしていた。程良い長さの黒髪に、色気のある涙ぼくろ。同性の僕から見てもとても魅力的に見える。色素が薄く茶髪に近い髪色の僕は、奏太の黒髪に憧れているのだ。全てを飲み込んでしまいそうな黒くて細い髪。 じっと見つめていると「何見てんだ。」と睨まれてしまったから、すぐに目線をそらす。 何を話せば良いのか分からない。学校でどう接す流のが正解なのか。 「……先生来ないみたいだし、適当に絆創膏とか貼っておくよ」 このまま待っていてもしょうがないからと、痛む足で立ち上がり先生の机の周りの棚を漁った。勝手に触ったら怒られるだろうが事情が事情だ。次の授業に間に合わなかったら困る。 手当たり次第に棚を開けて、其れらしき物を見つける度に取り出す。でも欲しい絆創膏は見つからず、代わりに消毒液だけを見つけた。これは凄く沁みて痛いやつだ。見つけなかった事にしよう。 「おい」 「……ん?」 「今何隠した」 ばれた、早速ばれてしまった。 「それ消毒液だろ、貸せよ」 「いや別にそこまで酷くないし」 抵抗も虚しく、数秒で奏太に消毒液を奪われた。人一倍痛みに弱い僕は、消毒液や注射、更に言えば目薬さえも苦手なのだ。今すぐ逃げ出したいくらい嫌だったが、奏太に逆らう勇気なんてない。大人しく椅子に座り、ズボンを捲って膝を出した。 奏太は慣れた手つきで消毒液を膝にかける。その瞬間、なんとも言い難い痛みが襲う。転んだ時よりも数倍痛い。 「……痛い!沁みる!」 「我慢しろ」 「本当に痛いんだってば!」 ばたばたと暴れてみせるが容赦なく治療は行われ、最後の方は僕が体力負けし大人しくなった。言わばただの抜け殻状態。なんとか両足の治療が終わり、奏太はため息混じりに「終わったぞ。」と声をかけてくれた。 こんな事が昔から何度もあった気がする。鈍臭い僕をいつも助けてくれるのは奏太しかない。今までも頼り切ってしまっている。それが申し訳なくて真っ直ぐ目を合わせる事が出来なくなったのだ。 「ありがとう」 お礼を言って感謝を伝えようとする。でも奏太は何も答えない。相変わらず不機嫌そうにしていた。 幼い頃の自分はどうしていたっけ。同じ様に「ありがとう。」と伝えていた気がする。じゃあ奏太は何と言っていたか。嗚呼そうだ、「いいよ。」と言いながら笑いかけてくれていた。いつからこんな可笑しな会話になってしまったのだろう。 あの日から、あの夜から。思い当たる節はある、寧ろすぐ浮ぶ。決定的なあの出来事で僕らの幼馴染みという関係は崩れてしまった。名前のないあやふやな境界線上に住み着いてしまったのだ。 僕はばれない様に奏太の顔を盗み見る。幼い頃の面影を残しながら整った顔立ちの彼を見ていると、胸が酷く締め付けられて痛い。 「……あ、忘れてた」 奏太は突然ポケット中を探り始める。一体どうしたのかとその動作を眺めていると、ズボンの右ポケットから何かを差し出された。何だろうこの既視感は。転んだ僕に手を出してくれたさっきの光景が脳裏に浮かぶ。 手を出して、差し出された物を受け取るとそれは少し皺くちゃになった絆創膏だった。大きめのが二枚。 「とりあえずこれ付けて、あと制服持ってきてやったから授業までに着替えておけよ」 まるで母親の様な世話の焼き方に思わず笑みが浮かんだ。でも奏太はそんな僕に目もくれず、保健室を出て行こうと椅子から立ち上がる。手を伸ばしたい。そう思った頃にはもう遅く、奏太は振り向きもせずに出て行ってしまった。 待って、置いていかないで。もう少しだけ此処にいてよ。 そんな言葉が言えるほど素直で自分に自信があったなら、僕は今よりももっと幸せになっている。 切ない心境のまま絆創膏を両膝に貼り、床に置かれたスポーツバッグを持ち上げた。何が何でも授業には出なくてはいけない。さぼるなんて勇気は無いのだ。一人でもそもそとジャージから制服へ着替える。いつもは教室でみんなと着替えているからか、少し変な感じがして恥ずかしい。 まずはズボンを履き替え、TシャツからYシャツへと着替える。汗なんて殆ど吸っていないシャツは乾いていた。それを脱ぎ捨て、皺にならない様に畳んであったYシャツを手に取る。 そこでふと、自分の背中が気になった。奏太の背中にあったのは爪痕、じゃあ僕の背中には何があるのだろう。 脱ぐ必要の無い肌着を脱いでまで確認したくなってしまった。誰もいない事を良いことに上半身裸になり、壁に掛けられた小さめの鏡で確認する。見辛いが自分の背中が少しだけ見えた。華奢で色白い背中はまるで女性の様で、自分で見ると気持ち悪い。もっと広くて頼り甲斐のある背中が欲しかった。 「……あるわけないか」 傷一つない綺麗な背中。当たり前だ、そもそも体制的に爪を立てる事自体不可能なのだから。 分かっていたのに悲しい。僕には彼の存在を証明できるものが、何一つないと思うと。 痛みでも傷でもなんでも良いから印が欲しい。あれば独占欲が満たされる、そんなものが欲しくて堪らなくなる。 例えるなら、僕の心は底のない花瓶。どんなに綺麗でも、大きくても小さくても底が無ければ意味がない。愛を注がれた所で全て零れていく。どんなに美しい花を入れても枯れるだけだ。みんなが口を揃えて「いらない。」と手放すがらくた。 こんな事をしてきてもしょうがない。僕は鏡に背を向ける。時計を見れば昼休みは後五分、急いで着替えを終わらせた。脱いだジャージをスポーツバッグに押し込み、弾き出される様に保健室から飛び出す。廊下にはまだちらほらと生徒がいて、とりあえず安心する。 そういえばお昼ご飯を食べるのを忘れていた。ただ後五分で購買に行く時間は無く、潔く諦めなければいけない。授業中に腹が鳴らない事を祈りながら、とぼとぼと教室へ向かった。

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