15 / 19

プロローグ『出逢い』

「己が血でこの俺を喚び出した人間よ。貴様の望みはなんだ? その望みをひとつ叶える代償に、貴様の」 「――――『魂を捧げよ』……、かな?」  いつもの口上の途中で横やりを入れられて、上級悪魔ゼアス・サイファは冷ややかな青紫色(アメジスト)の眼を入り口のドアの方へゆっくりと向けた。 「ひいいいいっ!」  魔法陣の前で腰を抜かして己を見上げていた青年が悲鳴をあげながらもつれる足で逃げ出し、男の背後に隠れた。 「お助け下さい、神父様!」 「よくやってくれたね。後は私に任せたまえ」  黒い詰襟にシルバー十字架(クロス)のネックレスをつけた長身の男が立っていた。 「やあ、君かい。ミカエラが言っていた最近派手に人間の魂を狩っているというグリシーヌの上級悪魔は」 二十代後半くらいだろうか。  神父の風体のその男は、悠然と笑みを浮かべ歩を進めながらそう言った。 『ミカエラ』とは天界の第一大天使の名前と同じ。  人間如きが親しげに口にすることに違和感を覚えた。  ゼアスはアパートの一室を見回し、己の足元に描かれた魔法陣に視線を落とした。  どうやら、罠だったようだ。 (おびき出された、か……) 「逢えて嬉しいよ」  神父は野生的な漆黒の切れ長の眼を愉しそうに細めた。 「なるほど。君は随分と我々の癇に障る色彩を纏っているねぇ。不敬だよ、その(いろ)は」  神父はウェーブがかった黒髪を後ろに撫でつけながら、意味の分からないことを言ってくつりと嗤った。 「……おいで。一緒に堕ちようか」  神父はすうと長い腕を掲げると、低く甘いバリトンでそう言った。  ――――ぞっと、した。  身の毛がよだつとはこのことだろう。  その者が身に纏う気配は、遙か上級の得体の知れないナニカ。 「たまには趣向を変えて、悪魔を飼うのもまた一興」 「貴様……、人間ではないな?」  ゼアスの問いかけに、神父は不敵にニイッと口角を上げてから言霊を発した。 「――――(つくば)え。()()()()()」  くつりと嗤うなりドンッと魔法陣の上に身体が叩きつけられた。 「なん……、だと?」  身体が尋常ではなく、重い。  立つことは疎か身を起こすことすらもままならない。 (重力を操る、呪文(スペル)……!?)  ゼアスは青紫色(アメジスト)の眼を見開き、黒髪を乱しながらなんとか頭だけを上げ神父を睨みつけた。 「貴……様ッ」 「いいね。さすが上級悪魔。その魔力に比例する見事な美貌。不敬なその瞳の彩。……実にいい」  神父はニヤリと心地の悪い笑みを浮かべながら、コツコツと靴音を響かせて近づいてくる。 「その美しい両翼をもいでから、私が隅々まで可愛がってあげよう。大丈夫、すぐに悦くなる」 「気色の悪い奴め……」 「そうつれないことを言うなよ。抱かれる悦びを教えてあげるよ」  神父が傍らに膝をつき、そっと顔を覗き込みながらねっとりとそう囁いた。 「――――凍てつけ、()()()()()()」  ゼアスが呪文を詠唱するなり、ドン……ッ! と一瞬にして部屋中が氷の結晶に包まれた。  瞬時に察して後方に跳び退いた神父に向かって、六角柱の氷柱の鋭い切っ先が次々と伸びては追い打ちをかける。  鋭利な青紫色(アメジスト)の氷の刃が神父を襲う中、ゼアスはゆらりと立ち上がった。 「グリシーヌの氷遣いか……ッ!」  神父が漆黒の瞳を輝かせて愉しげに叫んだ。  氷の刃は重力に阻まれて神父の身体にはひとつも届かず、パキィーン……ッ! と次々と砕け散る。 「ひいいい~ッ! 助けて、神父様あああッ」  青年が情けない声をあげながら神父に縋りついた。  ◇◇◇ 「……くっ、ちくしょう」  ゼアス・サイファは、鉄の味を滲ませる唇を歪めて毒づいた。  己の身に纏う氷の結晶が次々と霧散していく。  もう黒い翼を戻す魔力(チカラ)も残っていない。 「あの、神父め……ッ」 (こんなことに時間を割いている暇はないというのに……ッ)  上級悪魔である己が大悪魔に進化を遂げるためには、短期間に膨大な数の人間の魂を喰らう必要があった。 『御前試合までに大悪魔となれゼアス。アンドリューと共に五大悪魔となるがいい』  脳裏に浮かぶのは二百年前の鮮烈な出逢い。  今でも昨日のことのように思い出せる。  己を見下ろす黒曜石(オブシディアン)の如く美しい眼差し。  翻る紅蓮のマント。  不敵な笑みと、息を呑むような美貌。  聞く者の魂までをも狂わせるような美声で、次期魔王ルキフェル・アウデンリートは己にそう告げたのだ。  ――――震えた。歓喜に。  彼の君にとってはほんの気まぐれだったのかもしれない。  だが、己には。  あの時、絶望の淵に蹲っていた己と同胞は窮地を救われたのだ。  本来ならば、あのまま共に朽ち果てていてもおかしくない状況だった。  千年の寿命を、ただ抜け殻のように息絶えるのを待つだけで終えただろう。  あの方が救ったこの命は、もはや己自身のモノではない。  残りの永すぎる命をあの方のために捧げようと心からの忠誠を誓った。  まもなく行われる王位継承式の前の一大イベント。  ――――御前試合。  現魔王と次期魔王の両名の御前で行われる、新世代の五大悪魔を選別するためのトーナメント戦。  出場条件は『大悪魔であること』  勝ち残った上位五名が五大悪魔に抜擢される。  期待に応えたい。  あの方のお側に仕えたい。  共に救われた同胞は生まれながらに大悪魔の資質を半分持ち合わせていた。  先日逢った時に彼は既に大悪魔の強大な魔気を纏っていた。  一足先に進化を遂げた彼は、薔薇の花弁のような唇を綻ばせて言った。 『君ならすぐだよ。じゃあねゼアス。決勝戦で逢おう』  己だけが期待に応えられないなどという体たらくがあっていいはずがない。  急がねば開催に間に合わない。  ――――その焦りが、失敗を招いた。 「あんな見え見えの罠にかかるとは」  今日は厄日だ。  魂は喰らえないし、得体の知れない変態神父には捕らえられそうになるし、全く散々だ。  ツ……ッと、額から流れる鮮血が頬を伝う感触にゼアスは目を眇めた。 「アイツに知られたら笑われるな」 『魔法学校首席で卒業のゼアス・サイファ殿ともあろうお方が人間相手に逃げたの? なんで殺さなかったの?』  不思議そうな顔で全力でからかおうと身を乗り出してくる様が目に浮かぶようだ。  あの一瞬の隙をついて。  全力で逃げ……、いや、帰還した。  あれは到底人間ではなかったとか、そんな時間はなかったとか、言い分はなくはない。  だが実際のところは、生理的に受けつけなかったものだから戦うという選択肢が浮かばなかったのだ。  あの変態神父は明らかにゼアスを()()()()()で見ていた。  ゼアスはこれまで抱いてくれと迫られることはあっても逆の対象とされることはなかった。  どうにも込み上げる心地悪さに耐えきれなかったのである。 (ああ、思い出しただけで鳥肌が……)  本来ならば異界を移動する際には【転移門(ホール)】を利用するものだがそんな余裕はなかった。  身体にかかった負荷をそのままに魔界まで一気に瞬間移動するという有り得ない無茶をしてしまったせいで、身体中がズタボロに裂けて血だらけである。  とりあえず、もう二度と会いたくない。  激痛と目眩で気が遠くなっていく中、ふらつく足をどうにかして前に出す。  治癒術を行使する気力も体力も残っていない。  とにかく疲れた。  ようやく痛む身体を引きずって『癒やしの泉』の側までやって来たのだ。  どんな傷もたちまち回復する泉に早く全身を沈めてしまいたい。  切実にそう思った。  ふいに、パシャンと跳ねる水音が耳に届いてゼアスは眉根を寄せた。 「……だあれ?」  続いて、高い声が続く。 (子供……?)  何故、こんなところに子供が。  ここは傷を癒やす場所であって子供の遊び場ではない。  いや、その前に。  魔界に子供がいること自体がおかしい。  千年の寿命を持つ貴族は繁殖期にのみ生を享け、幼体を経て三日間で成体となり若く美しいまま千年の時を生きる。  貴族以外の魔族は木の股から勝手に生まれ元より成体だ。  繁殖期ではない今の時期、魔界に子供がいるのであればそれは魔族に拐かされた人間以外に考えられない。  こんな時に面倒な……、と心底思う。  ザブンと水から上がる音がしたが、意識が朦朧とし視界が霞んだ。  身体を支えていられない。  ゼアスはその場に崩れ落ちた。 「わあッ、血だらけだあ! オニイサン、大丈夫?」 (大丈夫に見えるか。いいからそこを退け。邪魔なんだよ。クソガキ) 「動かないや。死んじゃったのかなあ?」 (誰がだ。縁起でもない) 「く……ッ」  呑気な声音に苛立ちながら、己の血で霞む眼を僅かに開く。 「あっ。目開けたッ。よかったあ~! 生きてたあっ」  ピチャンと水滴が滴る蒼い髪。  鮮やかな蒼い瞳に覗き込まれて、頬に癒やしの水が落ちた。 (蒼い……少年、だと?)  長い水色睫毛。  キラキラと好奇心に輝く大きな瞳は人間界の晴れ渡る青空。  水をはじく瑞々しい白い肌。  少年は惜しげもなく水に濡れた裸体を晒しながら、横たわるゼアスの側に膝をつき、興味深げに覗き込んでくる。 (人間……なはずがない)  ゼアスは思わず目を見張った。  魔族はその魔力と比例した美貌を有する。  この美しい容姿は貴族クラス。  年の頃は十ニ~三歳くらいだろうか?  だが、魔界の住人なわけがない。 『太陽』と『青空』が魔界には存在しないように、『蒼』は天界の色で魔界では不吉とされる。  その彩を纏う魔族など生まれるはずがないのだ。 (いったい何者だ……) 「……オニイサン、キレイな顔。キレイな青紫色(アメジスト)の瞳。黒い髪も翼も艶々してすごくキレイ。きっと貴族だね。……ねぇ。血、オイシソウ。舐めてもいぃ?」  艶を増した声音にぎょっとした。  少年の蒼い瞳に己の見開いた(まなこ)が大きく映り込んだ。  ピチャリと水音を立てて、血を滲ませたゼアスの唇を生温かい舌が無遠慮に這った。 「……ッ! 何を」 「す……ごっ、美味し……。あっ、もっと欲しぃ」   はあっと甘さを含む吐息と共に紡がれた囁き。  驚きに見開いたゼアスの目の前で蒼い瞳が紅く染まる。  欲情と共に(いろ)を変えたその瞳は、見覚えのある種族のソレ。  魅了眼――――! (コイツ、淫魔(インキュバス)か……ッ!?) 「ね? ……アナタの血、飲ませて?」  紅い瞳。可愛らしい唇から覗いた真珠色の小さな牙。 (待て待て。吸血鬼(ヴァンプ)……、なのか……!?) 「ねぇ、咬んでもいぃ……?」  混乱するゼアスにのしかかってくる白い身体。  甘い吐息が頬にかかる。 (冗談じゃない。空気を読め! 出血多量で殺す気か!?)  毒づきたかったが正直声が出なかった。  吸い込まれそうな紅い瞳から目が離せない。  ゼアスは少年の魅了眼に血迷い、蕩けるような意識の中、もうどうにでもなれ……と意識を手放した。  ◇◇◇  ――――それが出逢い。  魔界では瞬く間の時間(とき)が過ぎた。  彼は美しくしなやかに成長した。  黒髪が多い魔族の中で目立つ色彩の彼の噂は事欠かなかった。  上級吸血鬼と下級淫魔の珍しい混血。  道理でエロイと妙に納得。  吸血衝動は父親譲り。  欲情と共に紅く染まった瞳は母親譲りというわけだ。  そんな彼は、名を『レイチェル・サーシャ』といった。  レイチェルは随分と問題児で、何かと騒ぎを起こすので有名だった。  あの後、首筋を舐められてそのまま牙を突き立てられそうになったゼアスだったが、レイチェルの教育係がすっ飛んで来て未遂に終わった。  ゼアスは名残惜しげに首根っこを引っ掴まれて引きずっていかれる紅い瞳が蒼色に戻るのを、ぼんやりと霞む眼に焼きつけた。  その後、泉の治癒力ですっかり回復し紆余曲折の末、魔王の側近五大悪魔の筆頭にまで昇りつめたゼアスだったが、何の因果かレイチェルの密かな監視役を命ぜられることになる。  ゼアスは、レイチェルとの出逢いを胸に秘めたまま、彼を静かに見護る役目を仰せつかった。  魔王ルキフェルの命令はシンプルに二つ。 『レイチェル・サーシャの生命の維持』 『成体になったら直ちに魔王城に連れて来ること』  レイチェル・サーシャは繁殖期でもないのに生まれた『禁忌(タブー)の子供』だという。  あのちっぽけな蒼い子供と王家とがいったいどう関わりがあるというのか。  詮索など赦されるはずもない。  ゼアスは片膝をつき深々と(こうべ)を垂れてその任を了承した。  そうやって蒼い子供を見護り続けてから、約百年の歳月が流れた――――。

ともだちにシェアしよう!