10 / 16

ゼロ次回

 その日の午後は、仕事にならなかった。ふとした拍子に、白川さんと出会ってからのシーンを思い出していた。そして名刺交換のときに触れた左手の人差し指が、まだ熱いままだった。しかしイベントまで時間はない。イベントに向けた仕事の他に、課内庶務も自分の担当なので、ぼんやりとしていると仕事が溜まっていく。しかし頭を使うような仕事は、今日はもう無理だろうと判断して、機械的に処理できる仕事を片付けていった。 「佐倉さん、大丈夫ですか?体調悪いですか?」 「少しお腹が減りましたね。」 「だから言ったのに。」  そう言うと亜樹さんは、机の上から二番目の引き出しからチョコレートのお菓子を取り出して、分け与えてくれた。 「とりあえずこれ食べて、乗り切ってください。」 「ありがとうございます、いただきます。」  商工観光課には市民の方が、結構頻繁に訪れる。お菓子を食べているところを見られると、トラブルの元になるので、休憩所に行って食べた。  お菓子のおかげもあってか、無事その日の午後を乗り切ることが出来た。千台市役所の終業時刻は、午後五時十五分だ。只今の時刻は、終業時刻から少し立った午後五時半。亜樹さんは、まだ残っていたが先に失礼することにした。商工観光課を出て、役所の出口へと向かう。  スマホを見るとメッセージが入っていた。康太からだった。今朝話していた、同期の飲み会の連絡が入っていた。参加者は私と康太を入れて五人。結局いつものメンバーになったようだ。体調自体は悪くないのだが、行こうかどうしようか。 「よっ、おつかれ!」  後ろから右肩を、少し強めに叩かれた。 「お前は毎回その登場しかできないのか。」 「なんだよ、いいだろう。丸まってる宗一の背中を、俺が伸ばしてやってるのさ。」  康太は就業後でも元気なようだ。むしろ金曜日の夜ということも相まって、今朝よりも元気になっている気がする。 「そんなことよりも、さっさと飲みに行こうぜ。」 「飲み会は六時半からだろ。それにちょっと、行こうかどうか迷ってる。」 「え、なんで?」 「いや、なんか今日は大分疲れたからな。大きな会議もあったし。」 「そこまで疲れてるようには見えんぞ。無理強いはせんが、せっかく久しぶりに、いつものメンバーで集まれるんだし行こうぜ。」  課長の言葉を思い出す。同期は大切にしろとか言ってたっけ。 「そんじゃ行くよ。ただもしかしたら一次会で帰るかも。」 「オッケーオッケー。そこら辺は、自分で調整してくれたまえ。」 「何様だよ。」  思わず笑ってしまう。こいつのうざ絡みは大抵の場合は、ただうざいだけなのだけれど、今みたいに精神的にフラフラしているときには、ありがたい一面もあることは認めざるを得ない。 「飲み会って六時半からだろ?まだ一時間近くあるんだから、一旦家帰ろうと思ってたけど。」 「おいおい何を言いなさる、お前さん。俺の家が遠いことは、知ってんだろう。俺に一時間、寂しく過ごせと言うのかい。」 「何時代だ、お前は。」  康太の家は、千台市役所からも飲み屋が集まる街中からも遠い。広い家に住みたいがために、通勤に不便な離れた場所に住んでいる。確かに今からでは、家に行って帰ってで、六時半を過ぎてしまうかもしれない。 「じゃあどうすんの。俺の家で、待つのか。」 「そんな、家にいきなり誘うなんて、大胆。」  さすがにイラッと来た。 「帰るぞ。またな。」 「ちょ、ちょっと待ってくださいまし、宗一様。」  蔑んだ目で康太を見る。子犬のような目でこっちを見ているが、子犬の仮面をかぶったお調子者であることを、私は知っている。 「冗談はさておき、とりあえずゼロ次回でもして待とうぜ。他のやつらは、仕事の関係で六時半ギリギリになるかもしれないらしいからさ。」 「最初からそう言えよな。」 「まあまあ、とりあえず駅前の立ち飲み屋あたりにしとこうぜ。ウォーミングアップ的な感じで。」 「オーケー、じゃあ行こう。」  私と康太は、千台市役所を出て、千台駅前に向かった。  千台駅前は金曜日の夕方ということもあって、混み合っていた。飲み会の会場はここから十分ぐらい歩いたところにある飲み屋街の一角にある。時刻は現在、午後五時四十五分。まだ向かうには少し早い時間である。私と康太は、駅前の立体歩道橋の下の少し湿ったところにある立ち飲み屋に入った。 「おっちゃん、こんばんは!今日も空いてんね。」 「康太じゃねえか。この時間は、いつもこんなもんなんだよ。そっちの兄ちゃんは久々だな。名前なんて言ったっけか。」 「佐倉です。」 「ああそうだった、確かに佐倉っぽい顔してるな。」 「適当すぎません?」 「そうか?で何にする?」 「じゃあ、とりあえずビールちょうだい。」 「私もビールで。」 「あいよー。とりあえずこれでも食っときな。」  小鉢に入った枝豆が出てきた。しょっぱいくらいに塩味が効いていて、うまい。 「今日はどうだった?」 「どうだったって何が?」 「仕事だよ仕事。なんかさっき大きな会議があって、疲れたって言ってたろ。」 「ああ、毎年やってる冬のイルミネーションイベントの会議があってさ。」 「え、あれって役所も絡んでんの?」 「実行委員会ってのがあって、そこが中心に動いてくれてはいるんだけど、当然役所じゃないとできないこともいっぱいあるからな。まあ要は裏方さん全般がうちらの仕事って感じ。」 「へー、知らんかった。けど、なかなか面白そうだな。」 「まあ退屈はしないよ。」 「はいよ、ビールお待ち。」 「ありがとう、おーキンキンに冷えてんね。」  私と康太はジョッキを受け取る。 「ほい、じゃあとりあえず乾杯。」  ジョッキを合わせる。いい音がした。 「はー、生き返った!」 「お前が死んでるときなんてあったか?」  康太は、ジョッキの半分程度を一気に飲んだ。私は酒に強いわけではないので、そこまで飛ばせない。これは、ゼロ次回なのだ。 「で、会議って何を話すの?」 「ほとんど例年通りのことをやってるよ。イルミネーションはどういったスケジュールで設置するかとか、予算の話とか。そこら辺かな。」 「ほーん、で何でそんなに疲れてんの?」  回答につまる。とても正直には、話すことはできない。 「お、なんかハプニングでもあったか。めちゃくちゃエロい美女がいて、会議に集中できなかったとか?」 「そんなんじゃねえよ。ただ、開始直前に資料を急いで配ってるときに、何もないところでつまずいて、持ってた資料をバラけさせたってだけ。」 「宗一は、たまにドジっ子ちゃん要素発揮するからなー。今回はタイミングもナイスだったってわけか。」 「何がナイスだよ。資料拾ってる間の周りの視線が、辛かった。」  手持ち無沙汰に、ビールを流し込む。 「けど、そのとき資料を一緒に拾ってくれた人がいて助かったよ。」  なぜだか無言になる。二人ともビールをのどに流す。 「わかったぞ、その拾ってくれた人が美女で、恋しちまったんだな。」 「ちげーよ。拾ってくれたのは男の人で、あそこだ、青風通りの端っこにある白川神社の宮司さんだった。」 「宮司も会議に参加してるのか。」 「まあ青風通りにあるしね。結構イベント中は、観光客とかで賑わうらしいよ。」 「へー、確かにあそこは、恋愛成就の神様でそこそこ有名だからな。クリスマス前だし需要ありそう。」  屋台のおじさんがチラチラと、こっちを眺めている。 「おでん適当に見繕ってもらっていいですか。」 「あいよー、適当にね。」 「あ、おっちゃん。俺のには絶対、卵と大根入れてね。」 「わかってるよ、任せな。」  そこまで大きくない器に、所狭しとおでんが載せられてきた。大分冷えてきたのか、おでんから立ち昇る湯気が、白くハッキリと見える。  そこからは康太の仕事の話になった。康太は、管財課という庁舎内の管理全般を行う部署に所属している。庁舎内の管理というと、一見市民とかかわることが少ないので、トラブルが少ないように思われる。私もそういった理由から、最初康太が管財課に配属となったと知ったときは、少し羨ましがっていた。しかし実際には、庁内にも厄介な人は多いらしく、そういった面々との調整に、なかなか苦労しているようだった。またときには、庁舎内の駐車場で交通整理を行うときもあるらしく、派手さを好む康太には、そういった仕事のせいで少なからずストレスが溜まっていたようだ。本人はそれをストレスとは思っていないようだが、話を聞いている限り大変そうだし、仕事の話を始めてから康太の飲むペースが上がった。少しだけ、康太に優しくしてあげようと思ったのは内緒だ。 「そろそろ行くか?」 「んー、そうだねー。みんなが僕らを待っている!」  康太は人差し指を立てて、上を指差した。 「酔ってる?」 「全然酔ってない!」  こいつは酒を飲んで、フラフラになったりすることは無い。しかし、ただでさえうざったい性格が五割増しでうざくなる。 「ごちそうさまでした。」 「おっちゃん、またくるね!」 「おーう、いつでもきな。」  お会計はとりあえず、私が済ませて立ち飲み屋を出た。  時刻は午後六時十五分、私と康太は飲み会が行われる繁華街へと歩き出した。

ともだちにシェアしよう!