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第1話

「ねぇ志葉ちゃ〜ん、モスコー・ミュール作りたいんだけどライムジュースってどこにあるのー?」 時刻は日も沈みかけた午後17時前。店の表にあるお洒落な黒板風の看板にメニューを記入していた志葉初眞は、中から聞こえてきたその煩わしい声に勢いよく振り返った。 「だからいつも言ってるじゃないですか!手前から3番目の棚の2段目にあります!」 「あ、そうなのー?ごめんごめん」 全くもって感情の篭っていない謝罪が開けっ放しのドアから聞こえてくる。ちらちらと見え隠れする男の大きな身体はおそらく、先ほど言っていたライムジュースを探しているのだろう。 「ふむ、手前から3番目の棚の2段目ね……ふっ、3なのか2なのかどっちだよってね」 「これっぽっちも面白くないのでさっさと探してきてください」 どうして大の大人がいつもいつもこんなくだらないことで吹き出せるのか、呆れを通り越して半ば感動しながら志葉は辛辣にそう切り捨てた。 志葉の働くバーの店長もとい、世界的有名なバーテンダー、苺谷雄人。 彼こそが、先ほどから志葉の手を煩わせている男そのものだった。 齢50を前にしても中身は見事にお子様属性の苺谷は、バーテンダーとしての腕は確かなもののそれ以外はめっきりで、暇さえあればカウンター席に座る客に愛の言葉を囁いているようなポンコツである。 志葉がまだまだ駆け出しバーテンダーだった頃に出会った苺谷は、もっとスマートで品の良い大人の色気のようなもので溢れかえっていたはずなのに。何がどうしてこうなってしまったのか、今ではスマートさがすっかり抜け落ち無駄に濃いフェロモンだけが残ってしまった。 「俺はもっとこう、苺谷さんが作るお酒の美味しさをみんなに知ってもらいたいのに。……なのにあの人ときたらいつもいつもお客さんをくどいてばかりでッ…」 日々の恨みつらみを思い出すと握ったままだったチョークに自然と力がこもってしまい、次の瞬間白い物体は志葉によって木っ端微塵に破壊されてしまった。 この寒い季節によく似合う、粉雪のようなチョークの塵が空を舞う。 「……チキショウ…」 チョーク自体にはもちろん何の罪もないのに、今日もまた一つの犠牲を生んでしまった。感情のコントロールがうまくできない自分に情けなくなりながら、志葉は重たい腰をゆっくりとあげた。 「はあ…切り替えて今日も仕事頑張りますかね!」 志葉が気合いを入れるために大きく背伸びをし、店に戻ろうと方向を変えた時だった。 「あ、あの!」 若々しい大きな声が志葉の背後から聞こえてきた。 「…?はい、なんでしょうかーー」 まだ開店には時間があるし、道案内かなにかを頼まれるのだろうかと不思議に思いながら振り返る。 と、そこにはーー 「は、初眞にいちゃん!…だよね!?」 どこか見覚えのある、20歳くらいの若い男がこちらを見ながら無邪気に笑っていた。 「……にい、ちゃん…?」 あまりにも突然のことに志葉の頭は混乱し、ひとりっ子の自分には全く似合わない"にいちゃん"という単語が脳内でぐるぐる回る。 大きめのパーカーの上に締まった黒のロングコートを合わせた、いかにも若者らしい姿のその男は志葉が考え込んでいるのを見越してか、弾んだ声でそのまま続けた。 「お、俺!俺だよ、亘謙人!初眞にいちゃんの実家の隣に住んでた子!」 ーー亘、謙人…?俺の実家の隣……? キラキラとした屈託のない笑顔で言われ、脳内でその言葉を復唱した次の瞬間、志葉の脳みそは堰き止められていたダムが決壊するかのように一気に彼のことを思い出した。 「えっ、えっ、あの亘くん!?」 志葉は思わず近くまで駆け寄りその広い肩に手を置くと、不躾にもじろじろと男の顔を見回した。 「た、確かに目元が亘くんそっくり……いつの間にこんなに大きくなったの……!?」 間違いない。目の前で嬉しそう微笑むこの青年は、志葉が住んでいた実家のお隣さんの子供、亘謙人そのものだった。 「そりゃ13年も経てば俺も成長するよ!」 どこか可笑しそうに笑った亘は、俺もう大学四年生だよ?と、これまた志葉が心底驚くようなことを言い放った。 「えええ!?そんなになったの?お、俺の記憶じゃ亘くんはまだ9歳そこらの可愛い子供だったのに……」 当時まだ幼かった亘を弟のように可愛がっていた志葉は、その事実を聞いてもなお、あの小さな少年がこんなにも立派な男に育ったなんて信じられなかった。 大きく綺麗な瞳は今では志葉の目線よりはるか頭上にあり、何かスポーツをやっているのだろうか、しょっちゅうおんぶをねだっていたその身体は分厚く、逞しかった。 「こ、こんなに大きくなって…」 数十年ぶりの再会だったからか、志葉の胸は予想以上にぐっと熱くなり目元にじんわりと涙が滲んだ。 「ちょ、泣かないでよ初眞にいちゃん…!」 ハンカチを取り出し目頭を軽く抑えはじめた志葉に亘はわかりやすく慌て、オロオロと視線を彷徨わせた。 年甲斐にもなく人前で泣いてしまうなど、自分は一体どうしてしまったのだろうか。 「ぅっ、ごめん亘くん…なんか感動しちゃって…」 ずびっと鼻をすすり、潤んだ瞳でじっと見つめると、亘はどこか恥ずかしそうに頬を赤らめた。 なおも溢れる涙をぬぐっていた右手に、ふと温もりを感じる。 「…亘、くん……?」 先ほどから外に出っぱなしで冷え切っていた両手を、亘の大きく温かい手にぎゅっと包み込まれる。 なにか言いたげなその表情に、志葉は無意識にこくりと首を傾げた。それがどれほど男の庇護欲を煽る仕草なのかも知らずに。 「は、初眞にいちゃん、俺…!」 「はい、そこまで〜」 亘が震える声でなにかを言いかけたその時、志葉の真上から聞き慣れた低い声が降ってきた。直後、頭にずしりとした重たいものを感じる。同時にふんわりとした髪の毛が志葉の頬をくすぐり、レッドムスクの香りが広がった。 どこか官能的で温かみのあるその香りは志葉が嫌という程知っている匂いだった。 瞬間的に思い出された男の名前を恨めしく呼んでみる。 「い、ち、ご、た、に、さん?」 「おっ、なになに志葉ちゃん、顔みなくても俺だってわかんの?いやぁ愛されてるなぁ俺」 予感的中。後ろから羽交い締めするように志葉の身体を抱きしめてきたレッドムスクの香りの正体は、正真正銘苺谷雄人そのものだった。 「ああもう、なんでいちいち抱きつくんですか!あと俺の頭に顔乗せないでください重いんですよ!」 一体いつの間に外に出てきていたのか、志葉の頭に顔を乗せたまま、苺谷は駄々をこねる子供の様にむくれて言った。 「ひどいなぁ。志葉ちゃんが知らない男にナンパされてるから俺は助けにきただけなのに」 「はあ?ナンパって…」 何故その単語が今ここで出てくるのかすぐには分からなかったが、苺谷が不貞腐れた様子のまま指差した方向を見て志葉は理解した。 「なんなの?この若いのはさぁ」 思いっきり不機嫌さを露わにした声で言った苺谷の言う"若いの"とは、紛れも無く志葉が先ほどまで話していた青年、亘だ。 まさか亘がナンパを疑わるなんて思いもしなかった志葉は、慌てて訂正した。 「ちょ、違います!この子は亘謙人くんです!俺が実家にいた時よく遊んでた弟みたいなもんですから。てかそもそも亘くんはナンパとかそんな苺谷さんみたいなことする子じゃないんで」 いい加減離してください、と付け加えいつも通り苺谷をぶん殴ってやろうと意気込んだその時、志葉は両手を亘に握られていることを思い出した。そこでやっと、先程から亘のことを1人にしていたことに気がついた。 「あ……ご、ごめんね亘くん!この人は苺谷雄人さん。こんなんだけど一応俺の上司」 苦笑いで簡潔に説明し、なおも握られたままだった両手をさりげなく引っ込める。 「そ、うなんだ……」 「亘くん?」 何か含みのある言い方に違和感を覚え、一体どうしたのかと口を開こうとしたが、志葉の視界に入ってきた腕時計が指し示す時刻を見て最早それどころではなくなった。 17時30分、気づけば開店30分前に差し掛かっていたのだ。 志葉の表情が一瞬にして青ざめる。 「やばい、今日オープン直後に2組予約入ってたんだった!」 「えっ、うそまじで……?」 志葉の一言に、いつも飄々としている頭上の男も慌てた様子で言った。 事前に料理やカクテルの希望も受けており、オープンし次第すぐに飲食を楽しみたいとの要望がきている。しかも2件もだ。 開店まで残り30分、志葉と苺谷で必死に料理を作ったとしても、これでは間に合いそうになかった。 だがここで悩んでいても仕方がない。せっかく再会できた亘とあまり話が出来ず寂しくはあるが、仕事には変えられない。 「ごめ、亘くん、また今度ゆっくり話そ!」 後ろ髪引かれる中ではあるが、急いで切り上げようとした志葉に亘の張り詰めた声が重なった。 「は、初眞にいちゃん、俺も手伝うよ!」 「え……」 「俺、料理好きだしある程度のことだったらできるから。だからお願い、俺に手伝わせて!」 必死に言った亘にそれはこっちのセリフだろうと頭でツッコミながら、志葉はこれ幸いと頷いた。 「ぜひお願いします!」 17時32分、図らずしも助っ人を手に入れることができた志葉の、絶対に負けられない時間との戦いが始まった。

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