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【壱】

 古くから日本に存在する信仰の中でも憑き物を神として祀る神社は少なくない。  その根源は民間信仰から成り立つもので、その土地の血筋や家系に関係しているとされている。  よく知られているものとすれば狐が有名だが、その他にも狼やイタチに似た何か――似てはいるがその正体は不明――という信仰対象もある。  その中でも“(いぬ)”を祀っているのが、俺の実家である狗賀(くが)神社だ。  父である三好(みよし)登吾(とうご)は先祖代々続くこの狗賀神社の宮司を務めている。  もう何代目かも分からないほど続いている神職ではあるが、元はといえば民間呪術を用いて病気などを治していた巫女の血筋で、そこに住む者からしたら“狗憑きの変わり者”扱いだったようだ。  元々、気性の荒い動物故に、憑依される側の感情の起伏や体調の変化によってその体を乗っ取り、奇声を発したり人様の物を盗んだり……と、決して尊敬するような神ではなかったらしい。  しかし、その神の力を抑えて自分の力に変え、周囲の人々に尽力したのは三好家の血筋だから成し得たことだと、今は亡き祖父から耳にタコが出来るほど聞かされてきた。  三好家としては、それが誇らしい事であり、その血筋を絶やすことなく守ることが生きていく上で重要なことだと語り継がれている。  そんな狗賀神社も新しい年を迎え、初詣の参拝客が多く訪れていた。  一月二日――。  太陽が傾き始め、薄暗くなった境内には篝火が焚かれた頃、昼間と比べれば参拝客の数も格段に減る。  俺は神社の隣に立つ自宅の窓からぼんやりとその明かりを見つめていた。  頭にはタオルを被り、まだ濡れたままの髪からは滴が落ちていた。 「――ったく」  小さく吐息して洗面所に戻ると、手早く髪を乾かす。  いつもより早い入浴に戸惑いながらも、これからの“務め”のことを考えるだけで体が疼き始めていた。  ジーンズにスウェットパーカーというラフな格好に着替え、裸足のまま階段を下りると、広い玄関ホールから話し声が聞こえて思わず足を止めた。 「――宮司さんにはいつもお世話になって。これ、お年賀……」 「わざわざすみません。足の方は大丈夫ですか?」 「ええ…。ご祈祷してもらってからはだいぶ動くようになったんですよ。これはそのお礼も兼ねてだから」  階段に沿って取り付けられた手摺に腰掛けて下を覗き込むと、父と近所に住む高齢の女性が話し込んでいた。  彼女は右手に杖を持っているが、確か数ヵ月前までは寝たきりだったと聞いていた。  その彼女が清酒の入った一升瓶を抱えてここまで歩いてきたということにも驚いたが、それよりも俺は彼女に纏わりつく黒い影が気になって仕方がなかった。  すっと目を細めて彼女を見つめる。 (――やっぱりか)  肩の力を抜いて髪をかき上げると、残りの数段を一気に下りた。 「こんばんは…」  俺の声に弾かれるように顔を上げた彼女は嬉しそうに破顔した。 「あら…。昊貴(こうき)君、明けましておめでとう」 「明けましておめでとうございます。いろいろとすみません」  深く頭を下げて新年の挨拶を交わす。高校生の俺が出しゃばるところではないのだが、父の手前、少しは真面目な息子を演じている。 「いくつになったの?しっかりして……宮司さんも安心ね?こんな息子さんがいて」 「手間ばかりかかって仕方ありませんよ。受験生なのに勉強もしないで……」 「勉強しなくても出来るなら、する必要ないものね~?」  楽しそうに笑う彼女に気付かれないように、父の白衣の袖を引っ張るとそっと耳打ちした。 「帰る途中にひったくりに遭う。誰か一緒に……」  それだけ告げると、父は黙って頷いて了解の意を示す。 「太田さん、もう暗くなり始めてるから私が送りますよ」 「ええ!宮司さんにそんなことさせられませんよ!」 「今、丁度手が空いたところなんですよ。また転んだりしたら大変だ」  そう言いながら草履を履く父に軽く片手を上げる。  本来なら俺が送っていってもいいのだが、今日だけはそうもいかない。それを知っている父は真面目な顔で言った。 「――昊貴、失礼のないようにしっかり務めを果たすんだぞ」 「分かってるよ……」  上げた手をひらひらさせながら、廊下を歩き出す。  この奥には勝手口があり、そこから社殿へ直接行けるように石畳の通路が造られている。  俺は素足にスニーカーを引っかけると、踵を踏みつけたまま歩き出した。  幼い頃から慣れ親しんだ社殿は俺の遊び場だった。だから、たとえ暗くなったとしても迷うことなく目的の場所に行くことが出来る。  石畳みが途切れ、玉砂利を踏みしめながら進み、社殿の階段の手前で靴を脱いで駆け上がると、すっかり人気の途絶えた境内に視線を向けてから木戸を開けて中に入った。  拝殿に入ると、ピンと張り詰めた空気が心地いい。こう思えるようになったのはあの日からだ。  そう――俺がここの御神体である“(いぬ)”と契りを交わした日。  赤く燃える篝火を見ながら二年前の事をふと思い出した。  * * * * *  当時十六歳だった俺は三好家に伝わる昔語りなど、自分には無縁の事だと思っていた。  ある日、父の手伝いで祭事の準備をしていた時だった。宮司の息子だからという理由ではなく、ただ単にバイト感覚で小遣いが貰えるからという安易な考えからの手伝いだ。 拝殿の床を水拭きしていると、ふと何かに呼ばれたような気がして顔を上げた。 すぐ近くにいた父に聞いてみるが呼んではいないという。 その直後、それまで雲一つなく晴れていた空が急に曇り始め、薄暗くなった拝殿に雷鳴が轟いた。 「――幻狗(げんく)様」  父が口にした名前らしきものを耳にした時、不意に俺の体がぐらりと傾いた。  その体を支えてくれた父の腕の強さは今でもハッキリ覚えている。今までになく真剣な表情で本殿の方向を見据える父は唇をギュッと噛みしめたままだ。 『――登吾(とうご)、その禰宜(ねぎ)はお前の息子か?』  どこからともなく聞こえた低く澄んだ声に、俺の心臓が高鳴り、呼吸もままならなくなった。 「そうです。しかし、この子はまだ禰宜(ねぎ)としては仕えておりません」 『ほう……。だが、我の声は聞こえているのだろう?三好の巫女の血を今までになく濃く引いているようだな……』 「え…?」 『我の声を聞けるお前が気付かないでいるとはな……。いくつだ?』  そう問われても、父はすぐには答えることはなかった。  俺の年齢を明かしたくない理由でもあるのだろうか……。しかし、全身を包み込む冷気に身を震わせた俺に気付いた彼は、重々しく唇を開いてしまった。 「――十六です」  幻狗(げんく)と呼ばれた姿の見えない“何か”はどこか笑みを含んだ声で言った。 『ほう……。それならば我の花嫁として迎えられる』 「な…っ、何を仰りますか!これは私の一人息子、いずれはここを継がなければならない存在なのですよ?」 『それがどうした?我は大昔から三好の血で生きながらえている。純血に近い血を持つ者を伴侶に迎えて何が悪い?そうなれば我の力は増し、この土地は護られる…。お前とてそれを望んでいるのだろう?』 「しかし……無理なものは無理です。今まであなたのワガママは全て聞き入れてきましたが、こればかりはお返事することが出来ません」  キッパリと言い切る父を見上げ、普段は無口で神社の事ばかりを考えているただの堅物だと思っていた自分が恥ずかしいとさえ思える。  決して丈夫とは言えない母を気に掛けながらも、俺の事も大切にしてくれていたことを知る。  震えが止まらない俺の体を抱きしめ、何もない空間を睨みつけた父に幻狗は笑いながら応えた。 『登吾(とうご)がそこまで大事にするもの……余計に欲しくなる。その子を我に渡してこの社が倒れるというのであれば、お前のもとに置いてやる。いずれその子が心を決め、我と共に神になるというまで待ってやってもいい。だが――我のモノだという証は残す』 「幻狗様……」 『名は――。名はなんと申す?』  父との会話とはうって変わった優し気な声が俺の鼓膜をくすぐった。  冷気に包まれた体を暖かい毛布でくるむような感覚が、俺の口を開かせた。 「――昊貴(こうき)」  信じられないという顔で俺を見下ろした父の目は驚きと落胆、そしてわずかな哀しみが浮かんでいた。 「お前……どうして。神に名を――自身の名を告げるという意味が分かっているのか?お前は…もう……」 「親父だって……同じだろ」  神に己に名を告げること――すなわち、絶対的な忠誠を誓うということだ。  自らの口で声で告げた名は、取り消すことは出来ない。  父の名を気兼ねなく呼ぶ幻狗は、この神社の主である三好登吾と主従の契約を交わしていることになる。それは山村地域に根付いた信仰宗教として実に特殊ではあるが、三好の家に生まれたからには絶対に避けて通れない道なのだ。 『昊貴……』  低音で名前を囁かれただけで、背筋がゾクリと震え、甘い痺れが全身を駆け巡る。 「――んあぁ…」  思わず漏れた吐息を父に聞かれたことで、ハッと我に返る。 「昊貴、お前……まさか、本当に」 「体……変だ。ゾクゾクする……でも、気持ち……い」  父は本殿の方を睨みつけると、音を立てることなく俺を抱き上げた。  白衣の生地がひんやりして、火照った頬に心地良かった。 「私でも抑えきれないあなたの荒い気性を……この子が、抑えられるとでもいうのですか?」 『それは昊貴次第だ…。我を制御出来るほどの血を持つ者であれば、それも可能であろう。お前の力量が足りないという事実をいい加減認めたらどうだ?我は昊貴が欲しい……。今夜、本殿に迎える』 「そんなに欲しいのであればご自身で迎えに来られたらいい。そうでなければ昊貴は渡しません」  強気な態度に出る父の声は、張りのあるしっかりとしたものだった。  神である幻狗は人間界には足を踏み入れることは出来ない。強力な結界の張られた本殿から出られないと分かっていてそう言ったのだ。  父の神に対するささやかな抵抗だった。  何の揺るぎもない意志の強い物言いに俺は知らずのうちに泣いていた。  父に反抗して喧嘩したことなど数えきれないほどある。そんな時も涙は絶対に流さなかった。  泣いたら負けだと思ったからだ。  こういう性格は間違いなく父親譲りであるという自覚はあったが、絶対に認めたくはなかった。  厳粛な祭事をそつなくこなす父の背中を何度も見てきた。しかし、それを凄いと思いながらも口にすることがなかった俺。  子を守る父の姿を初めて目の当たりにして、それまでの想いが一気に溢れ出したのだ。  しかし相手は神だ。何の力も持たない人間に勝ち目はない。  下手をすれば俺たちだけでなく、この地域の人々にも災いが起こる。狗神は気性が荒く、その逆鱗に触れれば何が起こるか分からない。  過去の文献には水害や土砂崩れ、飢餓や天災などの記述もあるくらいだ。それも祖父の昔語りで聞いていた程度の知識ではあったが、いざ狗神の機嫌を損ねるかどうかという瀬戸際に立たされた今、もう選択の余地はない。 「親父……俺、いいから」 「何がいいんだ?」 「もう…覚悟決めろってことなんだろ?そうじゃなきゃ…みんなに迷惑、かかる…だろ?」 「そんな簡単なことじゃない!お前、幻狗様の花嫁になるという意味が分かっているのか?」 「……」 「神の領域には人型では足を踏み入れることは出来ない。つまり……お前の魂を連れていかれるという事なんだぞ!お前はそれでいいのか?俺や母さんを置いて……死ねるのか?」  溢れた涙が頬を伝い、パーカーの襟元を濡らした。  死を以って神に仕える――。  それを繰り返しながら巫女の血を継いできた三好家の宿命であるというのであれば、仕方のない事なのだろう。  父が守ってきたこの神社を存続させ、地域の人々に平穏で豊かな暮らしを保証するためには、何に於いても犠牲が必要だということだ。  供物や祝詞だけでは満たされない神の欲求を満たすものがこの俺であるのなら――死も覚悟する。 「――ごめん」  幻狗との話し合いですぐに死ぬことは回避出来そうな気がする。そう思ったのは至極ぼんやりとした思い付きで、確証ではない。  でも今は――。 「幻狗……」 『話はついたか?気が短い我が黙ってこれほど待っていたのだぞ。もちろん良い返事なのだろうな?』 「――どうすればいい?」 『どういうことだ?』 「き…決まってんだろ!お前の花嫁になるには、どうすればいいって聞いてんだよっ」 「昊貴っ」 「親父は黙ってて!――なあ、覚悟決めてるうちにさっさとしろ!」  細身でいくら体重が軽いとはいえ、そう長い間父に抱かれているわけにはいかない。  足をバタつかせて体を捩ると、彼の腕からすり抜けるようにして床に足をついた。  まだ震えている体がうまく支えられずに、足元がふらつく。  そんな俺の肩を抱き寄せるように父の腕が伸びてくる。 「昊貴、自分を粗末にするなっ」 「粗末になんかしない!俺、これから先……親父に何も返せそうにないからさ。だから…今、この神社も親父も守ることにした。――おい、幻狗!」 『くく……っ。威勢のいい花嫁も悪くない。では、その意志とやらが揺るがない今夜にでも契るか?』 「好きにしろっ」 『では今夜……。我が迎えにいく。その体、清めておけ……』  まさかと目を見開く父を嘲笑うかのように、嬉しそうな笑い声を残してその気配は消えた。  それと同時に薄暗かった拝殿に日差しが差し込み、先程の不穏な空気は一掃された。  空には青空が戻り、風はじつに穏やかで柔らかかった。  まるで今体験したことが夢だったのではないかと思えるほど、世界は変わっていた。  俺は異常なまでの緊張感から解放され、大きく息を吐き出すと、その場に膝から崩れ落ちた。  ひんやりとした床に両手をついて項垂れていると、背中に大きな手が添えられる。 「――昊貴、すまない」  俺は顔を上げることなく、肩で息を繰り返しながら言った。 「しょうがねぇだろ……。これが“神に仕える”仕事なんだから。それって親父が一番よく知ってるはずだろ?何言ってんだよ、今更…。それに本当にアイツが来れるかどうかなんて分かんないだろ?あの本殿からは出られないんだから」 「お前……いつから幻狗様の声を聞けるようになったんだ?」 「今日が初めてだよ…。神様の声を聞くって、結構キツイのな……。親父の仕事になんか興味なかったし、将来ここを継ぐつもりもなかったのに……やっぱり血は争えないってか」  無理やりに口角をあげて父を見上げると、彼の目には涙が溢れていた。  初めて見た父の涙だったが、これが最後だと思うにはあまりにも綺麗すぎて、俺はすっと目をそらした。  こみ上げる嗚咽をぐっと我慢しながら、ギュッと拳を握る。 「母さんには言うなよ……絶対に」 「――あぁ」 「あと……絶対に戻ってくるから。そう簡単に死んでたまるか」  自分に言い聞かせるように、そして父を安心させるように力強く呟いた。  今夜、幻狗が俺の前に現れることが出来なければ、この話はなかったことになるはずだ。  それなのに……涙が一粒だけ、握った拳の上に落ちて流れた。  * * * * *  ――その夜、幻狗は俺のわずかな願いを踏みにじるかのように姿を現した。  自室で眠っていた俺を何の躊躇いもなく連れ出し、静まり返った社殿への廊下を足早に歩いた。  拝殿を抜け、参詣人(さんけいにん)が供物を捧げる幣殿と呼ばれる場所を通り、誰も足を踏み入れることのない最奥の本殿に向かった。そこには御神体と呼ばれる丸鏡が置かれている。  観音開きの木戸の両脇には、一七〇センチという俺の身長をゆうに超える大きさの黒い狼にも似た犬が二頭控えていた。  だが、俺の隣に立つ長身の男の姿を見るなり、血相を変えてその姿を勇敢な人型に変えた。 その光景に息を呑んだまま、彼らの会話を聞くでもなく聞いていた。 「幻狗様……まさか!なぜ本殿の外にっ」 「お前たちはどれだけ我に仕えている。誰がここから“出られない”と言った?我はただ“出ない”だけだ。外界は無駄な力を使う…」 「――ところで、この者は?人間……ですよね?ここは神の領域ですよ?下等な者が足を踏み入れることは出来ません」  上質な黒地に輪無唐草の紋様が施された狩衣を身に着けた男の横に、まるで捕虜のように並んだ俺がいた。  少し癖のある長い黒髪を後ろで束ね、野性的な眼差しで前を見据えているのはこの社の御神体だ。  そんな俺に訝し気な視線を投げかける二人の青年を睨んだ幻狗は、イラついたように口元を歪ませた。 「今後、二度とそのような口をきくな。これは我の花嫁となる三好昊貴だ。三好の巫女の血を最も濃く引く者…。我の糧となり伴侶となる男だ」 「え?そんな御冗談を…」 「我が冗談でここに人間を通すと思うか?そこを退け!」 「ですが…っ」  俺の手首を掴んだまま、二人を押しのけて前に出た。  焦ったようにそんな幻狗を制止した彼らを肩越しに睨みつけると、深い海のような青い瞳が深紅に変わった。 「我に逆らうか…。天将(てんしょう)弦地(げんち)」  地鳴りのような音が響き渡り、二人は喉の奥で短く叫んだと同時に動きを止める。 「――いいえ」 「分かればよい…。昊貴がここを出るまで誰も近づけるな。邪神の類は特にだ…」 「御意…」  怒りのために変化した深紅の瞳で見つめられた俺はビクッと肩を震わせた。  神聖な場所である本殿に、寝間着代わりのTシャツとスウェットパンツといういで立ちで、半分寝惚けたような顔の高校生が立っていれば誰でも不審に思うだろう。  しかも、相手が神使(しんし)であれば警戒するのは尚更だ。  彼らはただ忠実に任務を遂行しただけに過ぎない。 「――なぁ、ちょっと言いすぎじゃないか?」 「構わん。あれは我の眷属だ…。花嫁に牙を剥いたとなればただでは済まさん」 「でも…。俺は人間だし、こんな格好だぜ?誰が見たって怪しいだろ…」 「見た目など関係ない。行くぞ…」  背後で観音開きの扉が閉まっていく音がする。  先程まで耳に届いていた風の音も、草木の揺れる音も遮断され、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。  正面に恭しく掲げられた丸鏡を見据え、手前にあるしめ縄を片手で押し上げながら足を止めた幻狗は俺を振り返るなり、いきなり腰を抱き寄せた。 「なっ、何すんだよ」 「黙れ…。少しの間その口を塞いでいろ…。外界とあちらを繋ぐ門を抜ける」 「はぁ?」 「黙れと言っている」  そう言うなり、力任せに引き寄せられた俺は冷たい唇に口を塞がれた。 「ん…っ!」  十六になった今でも彼女を作ることもなかった俺のファーストキスは、神と名乗るこの男にあっさりと奪われてしまった。  しかも相手は男だ…。  初めての事でうまく呼吸が出来ない。息苦しさに目を閉じていると、頭に酸素が回らなくなりぼんやりとしてくる。  そんな俺の体を強く抱きしめた幻狗の着物の生地が擦れる音だけがやけに大きく聞こえた。 「――ん、ぅぐ…」  ふわっと足が床から離れ、俺は体のバランスを崩した。しかし、力強い腕がそれを支えてくれる。  その腕にこの上ない安心感を覚えた俺は、ふっと体の力を抜いた。  酷い耳鳴りと、全身に纏わりつく冷気が今までの世界とは違う場所にいるということを教えてくれた。 (く…苦しい)  触れたままの唇の端から、呑み込めない唾液が溢れて顎を伝い落ちた。  恥ずかしい……そう思った時、冷たい唇が離れていった。  何か物足りなさを感じて、俺は目を開くとぼんやりとした視界の中に彼の姿を追った。 「――幻狗」  力なく呟いた俺に応えるように、すぐそばで衣擦れの音が聞こえてホッと胸を撫で下ろす。 「安心していい、ここは我の寝所だ。誰も入ることを許されない聖域……」 「寝所って……え?」  学年では中の上という成績の俺が“寝所”の意味を間違えるわけがない。まして何かの聞き間違いということもない。 視界をクリアにするべく、何度か瞬きを繰り返すと薄闇の中に浮かび上がったのは、御簾(みす)の向こう側に畳敷きのそう広くない部屋があり、その中央には慎ましやかに白い一組の布団が敷かれていた。 「花嫁として正式に輿入れをする前に、我の力とお前の血を共鳴させる必要がある。それには儀式が必要となる」 「ちょ、ちょっと待てよ!儀式って……まさかだろ?俺はただ花嫁になるって言っただけだぞ?」 「それ以上に何があるというんだ?神の伴侶になるには、お前にもそれなりの力を分け与えねばならない。そうでなければ今後、あちらとこちらの行き来に不自由が生じる」 「は?なんだよ、それっ!――っていうか、なんで寝室に連れ込まれなきゃならない?」  意気込んで立ち上った俺の腰に幻狗は手を絡ませて、一重だが切れ長の青い瞳に見据えられる。  その瞳は蝋燭の心細い灯火の中でもはっきりと色を見せ、同時に彼の妖しい色香にあてられる。 「我と契れ……昊貴」 「――嫌だって言ったら?」  「力ずくでもお前を我のものにする…。ここは神の聖域、人間が自由に動ける場所ではない」 「騙したな…」 「正当な取引だ。お前の血と引き換えにこの土地の民が平穏に暮らせる」  すっと立ち上った彼は片手で御簾を上げると、俺の手を引き寄せた。  俺の考えが浅はかだったと気づいた時には、もう手遅れだった。  人間界での婚姻は指定の紙切れに、互いの署名と印鑑があれば手続きは完了する。  それと同様だと思い込んでいた俺は今になって恐怖を覚えた。  無意識に体が震え、思うように声が出ない。  神との契り――つまり、この男とセックスするという事なのだ。  童貞とはいえ、男同士がどこで繋がるかというくらいは知っている。そして、それがどれほどの羞恥と苦痛をもたらすかもその手の雑誌で読んだことがある。  そういった趣向を持った者同士ならば何も言わずとも自然に行われる行為だろうが、俺は正真正銘のノンケであり女性しか受け付けない脳みその持ち主だ。  さっきのキスは――事故だったとしてもセックスなんてあり得ない。 「何を震えている?あれだけ大見得を切っておいて、今更“怖くなりました…”は認めないぞ」 「別に…ビビッてなんか、ない。けど…」 「じゃあ、なぜ震える?」 「いや…その…、俺は男だし…あなただって男、だろ?そんな不浄な…関係で、その…神としてどうなの?って感じで…」 「何をごちゃごちゃ言っている?さあ、その着物を脱げ!」  いい加減焦れた様子の幻狗は、俺を布団に押し倒すと唇を重ねてきた。  しっかりと両手を押さえ込まれ自由を奪われる。 「んっふ!――やぁ、め…っろ」 「時間をかけて可愛がってやる。そうしないとお前を傷付けることになってしまうからな…」  唇を離れ耳に移動した彼は、耳朶を甘噛みしながら底なしに甘い声で囁いた。  その声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ね、体の奥がジン…と痺れたように疼き始めるのを感じた。  まるで意志を奪われるような魔法の声に、体がうまく動かない。 「――お前に酷いことをするつもりは毛頭ない。安心しろ…」 「そんなの…信用、で…きる、かぁ!」 「冷たい事を言うな。我はお前を……」 「あぁ……んぁっ」  首筋をきつく吸われ、チリッとした痛みの後でじわじわと快感に襲われる。  それを何度も繰り返されれば、嫌でも声が出てしまう。  唇を噛んで我慢しても、それに気づいた幻狗は自身の指で唇をこじ開けると、そのまま指先で舌を撫で上げた。 「んはぁぁ……」  ピチャ…と指先に纏わりついた唾液が音を立てる。その音が妙に卑猥に感じられて、俺は下肢が熱くなるのを感じた。  相手は男だ、絶対に反応するはずはない――そう思っていた自身の理性が突き崩されていく。  薄いスウェット生地を押し上げるように勃起したモノは、一人でする時よりも熱く硬くなっていた。  我慢できずに手を伸ばすが、呆気なく彼に阻止されてしまう。 「――もう、体が求め始めたか?素直な体だな…」 「ちが…っ!や…ぁ…あぁ…」  Tシャツの裾から入れられた冷たい手に体が瞬時に反応する。  指先が胸の突起を掠った時、全身に電流が流れたかのように俺はのけぞっていた。 「いやぁぁぁ」  甲高い声を上げ、情けないことに着衣のまま射精してしまったのだ。  一人での自慰行為でもこれほど早く射精することはない。  しかもそれが男の愛撫で促されたという事実をうまく受け止められないまま、俺は胸を喘がせた。  青い匂いが広がると同時に、生暖かく下着が濡れた感触が気持ち悪い。  急激な絶頂を迎えて火照った頬を冷たい敷布に押し付けながら、俺はぐったりと弛緩した。 「――いい声で啼く。お前の声は我の力を増幅させる……」  精液の染みが広がったスウェットのウェストに指をかけた幻狗は、下着ごと一気に引き抜いて脱がすと、濡れそぼった俺のペニスにそっと顔を近づけた。  下生えまでしとどに濡らした精液に丁寧に舌を這わす。  後ろに束ねていた髪を解いたのか、長い黒髪が俺の足にさらりと落ち、その柔らかな感触にも腰が揺れてしまう。 「やぁ…ぁぁ」  鈴口の残滓を指先で掬うようにして、俺自身も触れたことのない場所にそっと塗り付けられる。  初めて他人に触れられた後孔は、その刺激にキュッと力が入り、異物の侵入を頑なに拒んでいた。  それは理性を崩された俺の唯一の抵抗だった。  しかし、それに耐えられていたのはわずかな時間だけだった。  円を描くように丁寧に蕾の周りを愛撫する指の動きに、きつく閉じられていたはずの初心な蕾はゆっくりと綻び始めてしまったのだ。  いつしか彼の指を求めてヒクヒクと収縮を繰り返している。  一度放ったはずのペニスも再び力を取り戻しつつあった。 「綺麗な蕾だな…。この慎ましい口を我の凶悪な楔で犯すと考えただけで武者震いする。だが、楔を受け入れるにはまだ綻び足りない」  幻狗は長い指先を柔らかな蕾に食い込ませると、ゆっくりと中に侵入を開始した。  本来、排泄の機能を果たすその場所に異物が侵入すれば、人間の防衛機能として排除しようという動きが自然と発動するはずだ。だが不思議なことに俺のそこは幻狗の指を拒むことはなかった。 「――っく」  息を詰めて敷布を掴み寄せるが、確実に奥へと入っていく指を受け入れる蕾は嬉々として小刻みに痙攣を繰り返していた。 「キツイな…。ここは初めてか?」 「当たり前だっ!そんな場所……誰が…んあっ」  中で指を抉られて思わず声が出てしまう。中で蠢く幻狗の指は何かを探しているようだ。  ぐるっと指を回転させながら出し入れを繰り返している。その動きは次第に異物感を感じさせなくなっていった。  初めての感覚に体が慣れ、小さく息を吐いた時だった。 「うわぁぁ――っんん!」  彼の指先が一際大きく動いた瞬間、全身に電流が流れたかのような衝撃に目の前がチカチカした。  力を持ち始めていたペニスがビクンと跳ね、先端からは透明の蜜を垂れ流している。  腰の奥が気怠い…。ムズムズする…。  仰向けのまま腰を突き上げた俺は真っ白になった頭の中に流れ込んできた情報に困惑したまま動けなくなった。 (今のは――何?)  幻狗は後孔以外どこにも触れていない。それなのにイキそうになってしまうほどの快感に襲われた。  さっきみたいなことがもう少し続けば、確実に俺は達する……。 「――ここか?お前のいいところは」 「いい……とこ、ろ?」 「ここに触れれば屈強な者でも愛らしい声を上げるほどの快楽を得られる…。早く昊貴のここを弄って滅茶苦茶に泣かせてみたいものだ」 「ふ…っざけんな」  強がってはみるが幻狗の指が中に入ったままの今、下手には動けない。  体のどこも押さえ付けられているわけではないのに逃げようという意志が体に伝達しない。  手も足も自由で、あわよくば幻狗を突き飛ばして距離を置くことは可能なのに――。  俺は白い布団に縫い付けられたように動けずにいた。  これが神の領域が成せる業なのか…。 「――さっきまでの威勢はどうした?逃げもしない」  心の中を読まれたようで居たたまれない。  顔を背けて唇を噛んだ。  そんな俺を試すかのように幻狗は突き入れていた指を一気に引き抜いた。 「う――っ」  たった一本の指が抜けただけなのにビクッと体が揺れる。  それを気付かれたくなくて、そのまま足を閉じて横向きになると彼に背を向けた。  すると、背後で彼が立ち上がる気配を感じ、衣擦れの音が聞こえたと思うと畳の上にドサリと何かが落とされた音がした。  俺はこっそり首を捩じって背後に目を向けると、幻狗がそれまで着ていた狩衣と同色の袴を脱ぎ落しているところだった。 (マジかよ…!)  どうやら彼の“契り”というのは本気のようだ。  このままでは俺の貞操が危ない。女性に犯されるなら百歩譲って納得出来るかもしれないが、自分と同じ男に犯されるとなれば俺のプライドが許さない。  胸元まで捲られたTシャツの裾をそっと下ろして、まだ熱を保ったままのペニスを隠した。  畳を踏みしめて彼が移動する音が聞こえる。一見布団以外何もなかった部屋に何があるというのだろうか。  見えないところで何かをされている恐怖に耐えられず、思わず彼の名を呟いた。 「――幻狗?」  返事はない。  それが余計に俺の不安を駆り立てる。 「幻狗?何……してんだよ」  ミシリとすぐ近くで畳が沈み、俺は体を硬くした。  部屋の隅に置かれた燭台の上で揺れる蝋燭の火がふわりと揺れると、薄闇に広がっていた影が蠢めくように見えた。 「幻狗!」  俺は勢いよく体を起こすと、背後にいるはずの彼を振り返った。 「どうした?」  白衣に白帯といういで立ちで両手に白木の盆を持ったまますぐそばに立っていた彼を下からゆっくりと見上げて、小さく安堵のため息を吐いた。 「――なんでも、ない」 「何を恐れている?ここには誰一人として足を踏み入れることは出来ん」 「そう……だよな?」  自分が何かに怯えている事を無意識に露呈している事にも気づかずに、俺は全身に入っていた力を徐々に抜いていった。  彼はゆったりとした動きでその場に片膝をつくと、傍らに白木の盆を置いてから俺の頬にそっと手を伸ばした。 「我が怖いか?」  その問いには答えられなかった。素直に頷いてしまえば自分の弱さを知られてしまいそうで嫌だった。 「我は(いぬ)だ……。気性が荒く、人の弱みに付け込んでその体に憑依を繰り返し悪事を働いてきた。それがなぜ神として崇められたかといえば、三好の血が我を鎮めたからだ。お前は聞かされてはいないだろうが、昔から(にえ)として三好の血筋である若い男を食って来た。血一滴、骨一本残すことなくこの体に納めてきた……。だが、それは一時の抑えにしか過ぎない。この貪欲な体はそれだけでは我慢がきかなくなった」 「――じゃあ、俺も……食うのか?」  幻狗はゆっくりと首を振った。  綺麗なカーブを描く薄い唇を見ていると、にわかに信じられない。  真っ赤な血で染まった幻狗の唇が想像出来なくて、俺は目を伏せた。 「お前は贄じゃない……」 「じゃあ……一体誰がお前の飢えを満たすんだよ?俺も手に入れて、まだ他の人を襲うとか……許されることじゃない」 「そのためにお前の血が必要となる……」 「え?」 「お前は三好の巫女の血――つまり先祖の血そのものを持つ稀有な存在。最も濃厚な巫女の血であれば我の暴走は食い止められる。だが、民の声を聞くだけでも我の力は消耗していく。だから……お前を側に置きたい」  深海のような青い瞳は揺らぐことなく俺だけを見つめている。  元は憑き物として恐れられた彼だが、今は神としてこの土地に根付いている。その神が言う事であれば嘘はないはずだ。  もし、これが俺を手に入れるための常套句だったとしても、今俺を見据える真っ直ぐな眼差しに嘘はないと信じたい。 「側って……。俺は人間だぞ?」 「我と同じものになればいい……」 「なれるわけないだろ……。それに俺だって学校とか進学とか……いろいろ考えなきゃいけないし、いきなり神様になるから死にますってわけにはいかない」 「お前は死なずとも神になれる血を持っている……」 「――え?」  神の領域に入るということは、この肉体を捨てて魂にならなければならないという話は耳にしていたが、俺が特殊な存在であるということは初耳だった。  冷静に考えれば、今だって生身の体のまま神の領域に入っているのだから、幻狗の言葉にも納得がいく。 「ただ――条件がある」 「条件?」 「我と契りを交わし、正式に伴侶とならなければならない。そうすればお前が危惧している外界の事も心配は無用だ。だが、輿入れには何かと準備が必要となる。その前にお前の純潔が奪われるようなことがあれば、この話はなかったことになる。そうなると我を満たす存在がなくなり、必然的にただの憑き物に戻る」 「純潔って……。俺、男とする気ないしっ」 「相手が人間とは限らない。お前が巫女と知れば邪神の格好の餌となる」 「はぁ?」 「邪神がお前の力を手に入れてみろ。この土地は荒れ果て、民は苦しみを味わうことになる。それは今も昔も変わることはない……」  端正な顔がゆっくりと近づいて唇が重なる。  クチュッと音を立てて啄まれる唇が心地いい。つい先程までキスなどしたこともなかったとは思えないくらい、俺の体は順応していた。 「――お前を我のものに出来るのならば、この命を懸けてもいい。ただの狗(いぬ)に戻れというのなら、いっそお前を食らって堕ちていく」 「幻狗……」 「受け入れてくれるか?昊貴……」  幻狗の真摯な態度に疑いの余地はなかった。逃げられない状況で上手く絆された……と言ってしまえばそれまでだが、神が“命を懸ける”と言うのであれば、それなりの心積もりなのだろう。 「――お前が死んだら、どうなるんだ?」 「さあな…。考えたこともないが、神がこの世から消えるということは、ただならぬことが起きるのは不可避だな」 「じゃあ……。俺が死んだら、お前も死ぬってことだろ?つまり俺が死んだらとんでもないことが起きるってこと?」 「そうなるな……。まあ、死なせはしないがな」  不敵に笑った幻狗の美しさに目を奪われたまま、俺は彼に処女を捧げた。  想像を絶する痛みと快楽をこの体に刻み込まれ、同時に俺は幻狗の婚約者として神の力を得た。

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