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瀬名一樹のような購買組にとってお昼休みは戦争と言える。1日15個限定の幻のメロンパンを求め、号令が鳴るとともに勢いよく床を蹴って教室を飛び出した。
1年D組は第2棟の三階に位置し、第1棟の一階にある購買からはどのルートで行っても最低3分はかかる。そこそこ不利な状況で、それでもどうしても俺はこのパンが食べたいんだと、このパンのために午前から苦手な数学も眠たくなる英語も我慢したのだと言い聞かせ、生活指導に注意を受けない程度の小走りで廊下を走った。
階段を一段飛ばしで降りて一階へ。降りた先の右手側が2年B組だ。今日も程よく賑わっている。—いや、正直賑わいすぎて進むのが困難なくらいだ。喜んでいいのか分からないが、人より肉付きの悪い身体を横向きにして人と人との間をするするとすり抜けていく。
(それでもなかなか前に進めない.....)
今日もメロンパン争奪戦に敗北の色を感じ溜息を一つこぼしたあたりで誰かにそっと手首を掴まれた。
「えっ、」
「こんにちは、一樹くん」
「っお」
「お?」
(推しーーーーーー!)
西野蒼、17歳。
15歳の時に渋谷でスカウトされmen's fajyの専属モデルに。
恵まれた長身と端正な顔立ち、凛とした佇まい、色っぽい視線その他諸々全てを語るには三日三晩必要なほどの魅力たちを携えて瞬く間に売れ、現在はバラエティにも出演するくらいの人気モデルである。
一樹は西野蒼が初めてmen's fajyに載った時からずっと応援している所謂古参ファンだ。古参と言えどもそもそも彼の芸歴自体が2年なのでそこまで長くはないのだが、世間で名がある程度知られるまでに半年くらいかかったので、それより前から応援しているファンは古参として位置づけられている。
顔、性格、生き様、追っかける理由など言い出したらきりがない。男が男を推すなんて、とこれはもう耳にタコができるくらい言われてきた言葉だ。しかし一樹の性嗜好はノーマルだし、憧れが強すぎるゆえのこの熱量なのだが、冷静に考えて同性にこれだけの熱量で推されたら気持ち悪いよな...という自覚ももちろんある。そのため、本人と直接会うようなイベントには行かないようにしていたし、ファンレターなども控えていた。雑誌の切り抜きや、出演したバラエティ番組などは何十回、何百回と見たのだが。
「おーい、一樹くん、聞いてる?」
「はへ?!」
素っ頓狂な声を出すのも許してほしい。誰しも目の前に狂うほど好きな推しがいたらこうなるだろう。しかもこの空き教室には俺と彼しかおらず、美しい琥珀色の瞳で見つめられているのだ。正気でいられる方がおかしい。
発端は1ヶ月前に遡る。
いつものように午後の授業を終えたあと、バイト先のカフェ KANARIAに向かった。
カフェ KANARIAは知る人ぞ知る、こぢんまりとした、しかしこだわり抜いたコーヒー豆や茶葉を取り揃えたお店だ。もともと母親が紅茶の輸入に携わる会社で働いていたので、普通の男子高校生は知らないような変わった名前の紅茶も幼い頃から飲んでいた。カフェ KANARIAも母の行きつけのお店で、学校の友達はほぼ全員知らなかったが一樹だけは昔から馴染みのあるカフェだった。どこかでバイトを始めよう、となった時、常連の母親がここの店主に口をきいてくれ、特に面接もなくバイト先が決まった、という流れだ。
いつも通り手早くカッターシャツとギャルソンエプロンに着替え、ホールに出る。時間は午後5時半。カウンターキッチンとテーブル席が三つの店内は、ぐるりと見渡すだけで端まで見渡せるほどの大きさだ。ここはカフェメニューだけでなく、オムライスやハンバーグなどの定番のディナーメニューもあるため、夕飯として立ち寄る客もそれなりにいた。店主の篠田さんは料理も上手な五十路のダンディなおじさんで、一樹のまかないも手を抜くことなく作ってくれる。
今日のまかないに思いを馳せつつ、先ほど帰ったらしい客のテーブルを拭いていると、カラン....という入店を知らせる音とともに上背のある男が1人入ってきた。ろくに顔も見ずいつも通り「お一人様ですか?」と声をかけようと顔を上げ....思考が停止する。
「....っ」
「あの....」
「あ、お一人様ですか?」
「はい」
(西野、蒼.....!)
とっさに言葉が出た自分を褒めたい。上昇する体温に頭がクラクラして、こちらのテーブルへどうぞ、と促す手が明らかに震えていたのがかろうじでわかった。
同じ高校に通っているのは知っていた。彼がいるからこの高校を選んだわけではなく、本当に知らずに入学したら彼が一つ上の学年にいたのだ。気づいたのは入学式から一週間くらい経った時で、気持ち悪いくらいの熱量を自覚している手前、絶対に接触しないようにしようと心に誓っていた。
(それなのに)
西野蒼がまさかこんな小さな店でご飯を食べるなんて思わなかった。というかわざわざこの店を選んで入ってきたことが意外だ。
デトックスウォーターをコップに一杯分注ぎ、西野蒼が座るテーブルに持っていく。明らかに手が震えていて気を抜くとこぼれそうだ。
「ご注文はお決まりですか?」
もしかしたら声も震えていたかもしれない。
「じゃあ、このハンバーグプレートで。サラダもつけてくれる?」
「....はいっ」
バラエティや校内ですれ違いざま聞いていたとはいえ、声までいいなんて反則だと改めて思う。注文を言ってもらっただけなのに、春のような温かで優しい声色が両耳から流れ込んできて幸せで死ぬかと思った。
厨房にいるマスターに注文を伝え、出来るだけ普通の顔でホールへと戻る。店内を巡回するにもそわそわしてしまって仕方ない。チラリと西野蒼を盗み見ると長い脚を組んでスマホを触っていた。
(スマホになりたい....)
バカみたいな願望が頭をよぎり、何を言ってるんだとかぶりを振る。いや、それにしてもあまりにかっこよすぎないか。彼の周りだけ空気が輝いて見える。なんかいい匂いもするし。たった1個しか歳が変わらないなんて信じられない。
「一樹く〜ん、これ、持って行って〜!」
厨房の方から篠田さんの声が聞こえて、「はい!」と返事をしてから厨房に戻る。ボウルに鮮やかに盛られたサラダを受け取って、西野蒼のいるテーブルへと向かった。
「失礼します。サラダになります。」
出来るだけ音を立てないようにゆっくりと皿を置く。必要以上に推しの近くにいるのは心臓に悪いので、出来るだけ自然な所作でそそくさとテーブルを離れようとした、その時。
「ねえ、君さ、おんなじ高校の子だよね」
え。
人間びっくりしすぎると声が出ないのだと改めて思った。本当に声が出ない。推しに存在を認知されていた、だと...?あまりの僥倖に目頭が熱くなる。
「そう、ですね、西野先輩と同じ、桜丘高校に通っています。」
「あれ?俺のこと知ってるの。」
知ってるも何も大ファンですー!と泣き叫びながら古参ファンアピールをしたい衝動をぐっと堪え、「そりゃ、先輩有名ですもん。」と出来るだけ落ち着いた声色で言った。
「ふうん、そっか。俺、ここの近くのマンションに住んでるんだけど、時々君を見かけたから気になってたんだ」
テーブルに肘をついて少し首を傾げる推しがたまらなく尊い。一眼レフカメラで全アングルから撮影したい。....というか、さらっと流していたけど気になっていたって何?どこらへんが?普通の男子高校生ですけど....。
そんな一樹の考えを読んだかのように西野蒼はくすりと笑ってからこう続けた。
「いつも右側の髪の毛が跳ねているから、可愛いなあと思って。」
「....」
極上スマイルでそんなことを言うものだからバイト中でなければ卒倒ものだ。どう考えても発狂案件なのだが、衝撃が強すぎて逆に頭が冷静で、言われた言葉をぐるぐると頭の中で反芻した。
「か、可愛い....?」
「そ。可愛い。」
西野蒼が琥珀色の瞳を優しく細めて笑う。どこか蠱惑的で、目が合った瞬間、胸の奥深くでドクンと音がした。
「男相手に、可愛いなんて、そんな。」
素直に礼を言えばいいのに、咄嗟に出てきたのは可愛げのない言葉。言った瞬間激しく後悔して床に崩れ落ちそうになったがぐっと堪える。
「可愛いものは可愛い。君、そんな顔して結構ツンデレキャラ?」
そんな顔ってどんな顔だよ、と返答する暇もなく、西野蒼は「まあ、ツンデレも可愛いよね〜」と呑気な声で続けた。
「いただきます」
綺麗な所作で合掌し、何事もなかったかのようにサラダを口に運ぶ推しを見ながら、やっとのことで「失礼します」とテーブルを離れたのだった。
その次の日から、西野蒼はなぜか一樹と学校ですれ違うたびに声をかけてくるようになった。
モデルと学校生活をこなしている西野蒼は一般生徒より登校日数は少ない。しかし3日に一回は声をかけられるので、意外と学校生活にも重きを置いているのだな、と感心した。
話しかけられるたび、あまりの顔の良さにびっくりして何も言葉が出てこない。質問されたらなんとか答えるが、余計なことを話してはいけないと返答も素っ気なくなってしまって、西野蒼に『やっぱりツンデレだね〜』と言われても何も言い返せない。
そんな卒倒しそうな学校生活を続けること1ヶ月、今に至るわけである。
「ねえ一樹くん、何か話してよ」
「西野先輩、俺なんか連れ出して面白いんですか?さっきもクラスの外まで西野先輩を見ようとしてる人たちで溢れていたし、こんなところで時間を潰している暇が」
「誘ったのは俺だし。癒しが欲しいんだ」
一樹の言葉を遮って、栗色の髪の毛を揺らしながらそう言った彼の表情はどこか拗ねているようにも見えて可愛い。というか相変わらず顔がいい。
先輩が『隠れ家』と称して鍵を持っている第2科学準備室に2人きりでお昼ご飯を食べているわけだが、ドキドキしすぎて内心ご飯どころではない。テーブルに向かい合わせで座ると西野蒼の端正な顔が嫌でも見えてしまって息をするのがいちいち苦しい。頑張って顔に出さないようにしているが、誤魔化しているのがバレるのもおそらく時間の問題だろう。
それでも、どうしてもガチファンだとバレたくない。気持ち悪いと思われるのだけは耐えられない。それなら、無愛想で『ツンデレ』な自分を演じ続けようと思った。そうして、一年早く卒業してしまう西野蒼は、なんだか無愛想な後輩にちょっかい出してた学生時代もあったと、この時間を些細な思い出にして-いや、忘れてもいい-更なる躍進を続けて欲しいのだ。
「癒し要素、俺にはないと思いますけど」
「本当にそう思ってる?」
心の底から思ってます、と平坦な声で返し、一樹は西野蒼が確保してくれていた幻のメロンパンに噛り付いたのだった。
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