216 / 227
風船-balloon-3
ニッコリと微笑んだお兄さんは「じゃあね」と手を振って俺から離れていった。
「風船だ……」
手に持った紐に繋がれた先にはふわりふわりと浮かぶゴム製の青い風船。初めて手にした浮かぶ風船に俺の気分は高揚していた。
スーパーへ行くことを辞めて、家に向かって歩く。
横断歩道の手前で信号が赤になり、立ち止まる。空を見上げるように上を向けば、そこに浮かんでいる。俺の手に繋がれている。
握っていた手を開いた。
一瞬だった。
するすると糸が手のひらを伝って上へ昇る。さっきまですぐ近くに見えていた風船は、どんどんどんどん空の中で小さくなっていく。色も空の青と一体化しそうになっている。
眩しい太陽に目を細めながら、風船の行方を必死に追う。
その瞬間、強い風が吹いた。
「あ……」
風のせいで目を瞑ってしまい、次に見上げた時には追っていた風船は居なくなり、視界には空が残った。
「……自由になれたかな」
繋がっていたはずの手を空にかざして、俺は振り向く。
家の道と反対のスーパーへの道を行く。
非日常に感じた一時はあっという間に終わりを告げて、また日常に戻された。その原因は自分自身で、これが俺には合っているんだと言い聞かせる。
何も無かった。
また変わらない日常が始まった。
---
「あ、れ?朱ちゃん」
「おう。おかえりー」
目的を達成して、家に帰ると愛しい人は既に仕事を終えて帰宅していた。なんなら、キッチンに立って夜ご飯を作ってくれていた。
「早かったんだね」
「ん。朝から撮影が順調でさ。巻いて終わったんだよ」
「そっかー。やったね。二人の時間が長くなって嬉しい」
ジューっと音を立てて炒めものをしている朱ちゃんの隙を突いてほんの一瞬のキスをする。
「……ったく。料理中は止めろって何時も言ってるだろ」
なんて、文句を言いながらも嬉しがっているのを俺は知っている。
「じゃ、出来るの待ってるね」
俺はそのままリビングへと向かう。
ソファに背を預けて上を見上げると、家の天井にはふわふわ浮かぶ白色の……。
「ふう、せん……?」
「あぁ、早速バレた?」
作った料理を皿に乗せて運んできた朱ちゃん。どうやら今日の撮影で使った風船らしく、一つだけ持って帰ってきたみたいだ。
「小さくて可愛いだろ?」
腕を伸ばして垂れる紐を掴み、俺へ風船を見せてくれる。
「うん。可愛い。それを持っている朱ちゃんがね」
「なんだそれ」
そう笑って返す朱ちゃんは、俺をベランダへと手招きする。
「風船を空に放つんだ。バルーンリリースって言って、幸せが空に続きますようにって願いが込められてるんだって」
俺の手を掴んでその白くて小さな風船に繋がる紐を朱ちゃんと一緒に持った。「せーの」の合図と共に、その手から風船を放つ。
するりと簡単に浮かんでいった風船は、自身のスピードで空へと上っていった。
「よし、これで俺達の幸せは何処までも続くね」
少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに真っ暗な空に浮かぶ風船を見つめて朱ちゃんは言う。
そんな彼を後ろから抱き締めて、俺はこの幸せを胸いっぱいに感じる。
子供の頃の一つの苦い思い出が報われたような気がして、「ありがとう」という気持ちを込める。
ともだちにシェアしよう!