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 二人が生き残れたのは『幸運』だったからだ。  しかし、たった二人で生き残ってしまった事実を『幸運』だと呼べるのだろうか?  都営地下鉄大江戸線、駅のホームに立つ弘人(ヒロト)の元に、人ごみをかき分けて剛(タケル)が駆け寄ってくる。  剛はふとしたきっかけで弘人と知り合った壮年の男で、朝の通勤時に談笑をする仲だ。  人好きする笑顔で近づいてきた剛は、冬山登山の装備に、さらに手荷物まで抱えている。  175センチの弘人よりも頭一つ分高い長身と、整った目鼻立ちで普段から視線を集める彼だが、今は別の意味で視線を集めていた。  弘人も剛の見慣れない格好に最初は驚いたが、登山が趣味だと言っていたのを思い出し納得した。  伊達なスーツに身を包んでいる普段より、厚いウェアを着て80Lザックを背負っている今の方が、動きが軽やかに見える。 「おはようヒロくん!」  12月とはいえ、東京でこの格好は暑い。  剛は額にうっすらと汗を浮かべている。 「おはようタケさん。これから登山? 仕事は?」 「有給だよ。これから長野の実家に行って、昔馴染み達と雪山を縦走するんだ」 「長野なら特急あずさでしょ? そんな大荷物なんだから新宿までタクシーで行けば良いのに」  現地に発送しておく、という手もあったはずだ。 「ヒロくんに装備を自慢したくてさっ」  そう言う剛の表情は冒険に出かける少年のように輝いていて、弘人はこれから職場に向かう自分を少しだけ不自由に感じた。 「……それにしても大荷物だね」  弘人は剛の全身を見て呟いた。 「兄貴の息子が信州大学の登山部に入ったんだけど、バイト代じゃ装備が買えないって泣きつかれてね、使っていないやつを持ってきたんだよ。小さくなって着られないウェアやシューズも入ってるんだ」  剛はそう言って背負ったザックとは別に手で持ってきた65Lザックを軽々と掲げた。  「いいなぁ。俺も行ってみたい」 「今から一緒に行く? ヒロくんは甥っ子と体格が近いから、きっとこの装備ピッタリだよ」 「やった! 仕事ばっくれてタケさんと旅行だ!」 「ハハハ、おっちゃんに付いてこいっ」  根が真面目な弘人が仕事をサボるはずもなく、そもそもド素人が雪山に登るなんて無茶だ。  二人は冗談を言い合いながら、珍しく遅延している電車を待っていた。  羨ましがる弘人に気を良くした剛は、新調したばかりのピッケルをホルダーから抜き取り、重いけど強度があるんだと言いながら見せてくれた。  嬉しそうに材質や性能を語る剛に弘人まで顔が綻んでしまう。  弘人にとって剛という存在は、なんとも形容しがたい。  父のようだと称するには若過ぎ、兄にしては年が離れ過ぎている。  上司のようだと称するにはくだけ過ぎているし、友人とも違う。  最も近い言葉を挙げるとするならば『憧れの人』だろうか。  自由で無邪気で人懐っこく、それでいて視野が広く頼りになる剛を見て、弘人は『将来こんなオヤジになりたい』と常々思っていた。 「そういえば最近の天気は変だよね。もう3日も大雨が続いてるし、冬なのに変に温かいし……長野の天気はどう? 登山なんて出来るの?」  弘人が疑問をぶつけると、剛はけろりと答えた。 「悪天候で登れないかもな。でも仲間達も働いているから日程もずらせないし、登れなかったら皆で飲み歩くから別にいいんだ」 「楽しそう……ねえ、タケさんはなんで山に登るの?」  絶景に出会えるから?  他には無い達成感を味わえるから?  都会の喧騒を忘れられるから?  弘人の予想はどれも違っていた。 「……恥ずかしいから、かな。時々、世間と隔絶した山に……逃げたくなるんだよ」  そう笑った剛の顔は辛そうで、心底自分という存在を恥じているように見えた。 「それって、どういう……」  弘人が問いかけたその時、ホームにどよめきが起きた。  地上へ続く階段から真っ白な濃霧が駆け下りてきて、二人がそれを目視した次の瞬間、痛みを感じる程の冷気が肌を刺す。  濃霧に包まれた人が悲鳴を上げる間もなく倒れていくのを、ひと際長身の剛はいち早く気付き、弘人の手を取って走り出した。 「毒ガスか!? 口と鼻を押さえて!」  剛は弘人の肩を抱きながら身を屈めて叫んだ。  濃霧が二人の横を流れていくと、近くで電車を待っていた人が喉や胸を押さえてバタバタと倒れていく。 「くそっ!」  あっという間に構内は白く染まり、ほとんどの人が霧に包まれた。  駅のホームに逃げ場は無く、剛は線路に飛び降りる。 「タケさん!?」 「こっちだ!」  弘人も続いて線路へ飛び降りると、間一髪で頭上を霧が流れていった。  剛はホーム下の小さな扉の鍵を、ピッケルのブレードで力一杯殴打し扉をこじ開け、ふらつく弘人を放り込んだ。  自身も急いで入り扉を閉める瞬間、線路に濃霧が流れ込んでくるのを垣間見た。  小さな照明しか無い薄暗い階段を下りると、線路に平行した点検用の通路に出る。  後ろの扉はミシミシという音を立てて凍り付き、先ほど降りてきた階段も瞬く間に凍っていく。  急激に下がる気温と信じられない光景に剛は身震いをしながら、階段から転げ落ちて気絶した弘人を引きずって、地下通路の奥へ奥へと逃げていった。

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