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 荒い息づかいと振動で覚醒した弘人は、剛の広い背中におぶられていた。   「ん……?」 「はぁ…はぁ……あ、起きた? 頭打って、失神してた、みたいだけどさ、吐き気とか無い?」  途切れ途切れに問いかける剛は弘人を背負い、腰に巻き付けたロープで二つのザックを引きずっていた。  強靭な肉体が成せる技だ。 「吐き気は大丈夫だけど……なにこれ、すっごく寒いっ!」  寒いどころか、痛い。  鼓動が早くなり、命の危険を感じる程の寒さだ。  声が震え、息を吸うだけで喉が痛み、鼻先の感覚が無くなる。  剛の背中から降りた弘人はいつもの作業着ではなく、冬山登山用の防寒着を着ている。  ブーツ、手袋、帽子等、フル装備をしているにもかかわらず震える程寒い。  気絶している間に剛がウェアを着させてくれなかったら凍死していたかもしれない。 「もう、大丈夫かな?」  剛はヘッドライトで後方を確認した。  通路を浸食する異常な凍結は迫ってきていないようだ。 「なにがどうなったの?」 「……あの白い霧、毒ガスじゃなかった。人が死ぬ程の、冷気だ」 「え……ただの冷たい空気? 嘘だろ?」 「気圧計を見るに、地上はもの凄い風が吹いている。ここですら−30度を切っているから猛吹雪になっているかもしれない。あと、扉が凍り付いて外に出られない」 「そんなっ……どうしたら……」  取り乱す弘人を落ち着かせるために、剛はにっこりと笑って言った。 「とりあえず、ご飯を食べよう!」 「これ食べて待ってて。寒い時は沢山食べなきゃ熱を作れないからね」  剛は行動食のチョコバーを弘人に持たせると、手際よくバーナーでお湯を沸かし、ザックから次々と食料を出していく。  お湯があれば作れるパスタやリゾット、フリーズドライのカレーやシチュー、高級な缶詰、大量のレトルト食品と凍ってしまった飲料水。  二人で食べてもしばらくは困らない量の食料を確認し、弘人は落ち着きを取り戻した。  わざわざ食料を広げて見せたのは剛の心遣いだろう。  細い通路の壁に張り巡らされた太い配線が不気味で、今まで剛に背負われてきた後方も、これから進んでいくであろう前方も真っ暗で、ただただ恐ろしかった。  だが、LEDランタンに照らされた暖かいリゾットを、ふかふかのシュラフの上で口にすると、僅かに心が和らいだ。 「美味しい……」 「だろう? 最近のは本当にウマいんだ。あまりのウマさに自宅でも登山メシしてるんだよ。コンロもあるのにわざわざバーナー焚いてね」 「マジで? ふふふ、コスパ悪そう」 「よかった……やっと笑ってくれた」 「え?」 「ヒロくん、さっきまで酷い顔してたからさ、オジさんは安心したよぉ」 「そんなに酷い顔だった?」 「ああ、まさにこの世の終わりって感じ!」  おどける剛に弘人は思わず笑みをこぼした。  こんな危機的状況でも他人を思いやれる彼に頭が下がる思いだった。  それから二人は、地上への出口を探して歩き出した。  通路は地下鉄の線路に平行して駅から駅へと続いている。  歩いていると右手に線路上へ出るための扉があり、嬉々として駆け寄るが、どの扉も凍り付いていて開けることは出来なかった。  次の扉で外に出られる、次こそは、次こそは。  そんな思いを嘲笑うかのように開く扉は見つからない。  絶望を顔に滲ませる弘人を、剛は何度も明るい調子で励ました。  しかし、絶望は弘人の精神を蝕み、人格を歪めていった。 「何、書いてるの?」  ある夜、蜂蜜がたっぷり入った紅茶を飲みながら、弘人は剛に問いかけた。 「日記さ」 「それ、意味あるの? 電話も繋がらないし助けも来ない。地下に閉じ込められたまま死ぬかもしれないのに、意味ないだろ」  苛立ちを含んだ声で更に問う。 「何言ってるんだ、助かるに決まってるだろう? それに意味ならある。後々読み返して、辛かったことも悲しかったことも、未来の笑い話にするためさ」 「は? なにそれ。……じゃあ俺は遺書を書くことにするよ。その方がよっぽど有意義だ。その手帳貸して」 「っ……だめだっ!」  弘人が奪い取った小さな手帳を取り返そうとした時、一枚の写真がはらりと落ちた。  それはゲイ向けのポルノ写真だった。  ポルノと言ってもそれほどいかがわしい物ではなくアーティスティックな作品だ。 「え…………タケさんって……ホモなの?」  沈黙し視線を泳がせる剛の姿が、問いの答えだった。 「マジかよ……気持ちわりぃ……俺のこと狙ってたりして」  せせら笑う弘人に剛は反論すらせず、ただただ恥ずかしそうに、悲しそうに笑っていた。   「サイテーだ……」  弘人はそう吐き捨てるとシュラフに潜り込んで眠ってしまった。  サイテーだ。  それは剛に投げつけた言葉だったが、弘人自身に言った言葉でもあった。  弘人は異性愛者だが、普段は他者の性的指向に嫌悪したりしない。  いつもの日常であったならば「タケさんゲイなの? モテそうだね」くらい言っていただろう。  極寒、暗闇、閉塞感、そして疲労。  平静を保つのが難しい極限状態の中で、誰かに感情をぶつけずにはいられなかった弘人の弱さだ。  弘人の弱さが、剛を傷付けた。  明日には謝ろう、そう思った次の日、剛は高熱を出して動けなくなっていた。

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