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not sweet… 1

スラックスのポケットで携帯が振動して、反射的に布越しにそこに手をやった。 目の前の男は、俺のその動きが気に障ったらしく、元より上がっていた眦をもっとつり上げて咎めるような視線を向けた。 この静かな部屋では、例えマナーモードの振動音でも微かに響く。 「すみません」 鳴り続けるバイブ音を消すために、ポケットから音の元凶を取り出し、素早く通話拒否のボタンを押した。 一瞬見た画面に表示されていた名前は、思っていた通りの相手だ。 「見本にならなきゃいけない教師がちゃらついててどうするんですか?貴方がそういう雰囲気だから、生徒に舐められるんですよ」 「…すみません」 「教師なら教師らしく、生徒とは適切な距離を持って接して下さい。『しいちゃん』なんて呼ばせてるから、貴方はいつまで経っても生徒と同列なんです」 「気を付けます」 「そもそも貴方は………」 ああ、また始まってしまった。目の前の神経質そうな男は、俺が勤務している高校の1年生の学年主任であり、俺の指導教員だ。この男――志垣先生が担任を務めるクラスの副担任を今年の春から任されたのだ。 去年大学を卒業後教員採用試験に合格し、この高校に赴任して早1年と3ヶ月。 1年目は、自分の担当科目である英語の授業のみに専念できたので、馴れないとはいえ今思えば気楽だった。 志垣先生からは、この3ヶ月頻繁にお説教をくらっている。 そのお説教の内容は多岐に渡るが、最近は俺の素行面を注意されることの方が多いのかもしれない。 担当教科の授業や副担任としての事務作業以外にも、志垣先生の補佐として馴れない専門外の授業の資料作りを手伝わされたり、実験器具の補充や点検なども任されているが、少しでも誤りを見つけるとしつこく追求されるので、最近ではそのおかげかそれらはほぼ完璧にこなせる様になってきた。 だからこそ素行を注意されるのだろう。たぶんこの人は俺自身が気にくわないのだ。 俺の髪の色から目の色から、しゃべり方から何から何まで気に入らないから、何か理由をつけて文句を言いたいのだ。 志垣先生のお説教は、注意するきっかけの出来事を取っ掛かりとして、最終的には人格否定の様な所まで行くのが常だが、俺はいつも何の反論も出来ずにいる。腹も立つし、正直傷つくのだが、どうしても言い返せない。その理由はよく解っている。俺は、「こういう」タイプが苦手なのだ。横暴で、独善的、断定的な物言いをする支配的な人間が。 暫くしたら、ポケットの中でまた携帯が振動し始める。 「またですか」 志垣先生が大袈裟にため息をつきながら言った。 さっき電源も落としておくべきだった。 でも、就業時間はとっくに過ぎ、残業も終えて職員室を出て、玄関で靴を履いている時に志垣先生に呼び止められ、いつもの説教部屋――化学準備室に連れてこられたのだから、携帯がマナーモードで振動することくらい大目に見て欲しいと思う。なんせ、時間はもう21時を回っている。 それでも再び通話拒否を押してバイブ音を消し、電源も落とした。 携帯の照明が完全に落ちたのを見て、志垣先生は少し満足そうに鼻を鳴らした。 * * * 携帯の呼び出し音を1回聞くか聞かないかで、すぐに相手の声が耳に届いた。 『ハル先輩、大丈夫!?』 「ごめん紫音、仕事で…」 『よかったー。電源切れたから、何かあったかと思って心配しました』 「何もないよ。」 紫音の相変わらずの過保護さに思わず苦笑してしまう。俺を幾つだと思っているのだろう。でも、笑い飛ばしてしまうことはできない。俺は実際紫音に昔散々心配をかけたのだから。 それでも、あれからもう7年以上が経ち、俺ももう女の子と間違われるような容姿でもなければ、少し連絡がつかないくらいで心配される様な年齢でもない。もう24なのだ。立派な成人男子。 「今どこ?」 『心配だったから、マンションに向かってる所です』 「ごめんな。じゃあ駅前で待ち合わせてなんか食べてく?」 『うーん……時間勿体ないから、部屋に行きたいです』 「……家、食べるもの何もないぞ」 『コンビニでなんか適当に買っときますよ』 「お前な。スポーツ選手がそんなんでいいの?」 『いいんです。極上のデザートがありますからね』 「…バカ」 『冷たいなーハル先輩。俺もうコンビニ着いちゃった。ハル先輩いつもの蕎麦でいい?おにぎりは?』 「蕎麦だけでいい」 『了解。じゃあ、待ってますね』 通話を終了して、携帯の時計を見ると、22時を過ぎていた。 今日のお説教はいつもに増して長かった。 今日だけは早く終わらせて欲しいという俺の思いを察したかの様にくどくどと。

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