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初めての人 第14話

「葵」 「那鳥君……。何? どうしたの?」  悠栖と朋喜を促し体育館に向かうため教室を後にする慶史を追うように歩き出せば、いつの間にか隣に立っていた那鳥君に声を掛けられた。  慶史のことで頭がいっぱいだった僕はほっぺたの筋肉を持ち上げて笑顔を作る。すると那鳥君はそんな僕に「顔、引き攣ってるぞ」と苦笑いを浮かべた。 「……葵は知ってるのか? その、慶史の―――、悪癖、のこと」  那鳥君は前を歩く本人に聞こえないよう声を顰め、慶史が普段何をしているか知っているのかと尋ねてきた。僕はそれに頑張って笑顔を作り、知っていると頷いた。  きっと那鳥君は知っているならどうして止めないのかと言ってくるだろう。  勿論僕はそれを知ってから何度もやめて欲しいとお願いしてきた。けど、結局今までその願いが聞き入れられることは一度たりともなかった。望まぬ行為で傷つくのは慶史自身だと訴えたこともあったけど、返ってきたのは自ら望んで抱かれているから平気だと言う嘲笑めいた笑顔だった。  僕はその言葉を勿論信じなかった。だって慶史は義理のお父さんに強要されたその行為のせいで沢山傷ついてきたのだから。  慶史はそんな僕に、身体に教え込まれた快楽からは逃げられなかったと言った。  幼い頃に繰り返された性的虐待。悪夢のような日々の中、慶史が辿り着いた『救い』はその行為を受け入れ、相手に服従するより他なかった。  自分を傷つける相手を愛していると自身を洗脳し、与えられる快楽を貪欲に追い求め、『本当の自分』を心の奥底に沈めて殺し続けた。そしてその結果、慶史の身体はその行為に依存し、抱かれることでしか満たされないよう心も身体も作り変えられてしまった。  慶史がそれに気づいたのは、クライストに進学してからだった。自慰をしても満たされることは無く、身体には熱が残り燻り続け、色情に耐えきれず当時3年生だった先輩を誘ったのが『悪癖』の始まりだった。  僕がその『悪癖』に気づいたのは、慶史が寮生相手に売春まがいなことをしていると学園中に知れ渡った後のことだった。  僕に知られないように細心の注意を払っていた慶史は、朋喜や悠栖にバレた時は口止めするために酷い内容で二人を脅したと教えてくれた……。  きっと僕が知ればそんな行為を続ける理由を知りたがるだろうから秘密にしておきたかったと言った慶史は、自身の予想通り自分を責める僕に『葵のせいじゃない』と優しく笑った。『むしろ救われたんだよ』と、言った……。 (あの時救われたのは、僕の方だよ……)  僕の罪悪感を軽くしてくれた言葉は思い出す度目頭を熱くする。  結局何もできなかったのに、結局救うことができなかったのに、慶史は『ありがとう』って凄く穏やかに笑ったから……。 「……あいつ、何があったんだ?」 「え……?」  てっきり慶史に『悪癖』を止めるよう説得しろと言われると思っていたけど、那鳥君が口にしたのは『悪癖』の切欠を知りたいと願う言葉だった。 「慶史の苗字の『藤原』って、旧華族の藤原財閥のことだよな? そんな良いところのお坊ちゃんが学校の寮で売春まがいなことやってるなんてどう考えても過去に何かあったとしか思えない」  それはきっと誰もが抱いている疑問だろう。戸籍上の苗字は『藤原』じゃないけど、慶史が藤原財閥の会長の孫だってことはこの学園の人ならみんな知っていること。  名家の一つとして名前が挙がることのある『藤原』の血縁。本来なら誰彼構わず関係を持ち快楽に溺れるような生き方を許される家柄ではない。  たとえそれが随分昔に亡くなったお父さんの家系だとしても、慶史が会長の孫である事実は慶史のお母さんが再婚しようとも変わることは無いのだから。  それなのに慶史は性に奔放に振る舞い、自分を汚し、堕とすよう生きている。それはまさに『藤原』の名に泥を塗る振る舞いで、以前ゼウスに通う従兄弟から罵詈雑言を貰ったと慶史自身から聞いたことがあった。  学園の外にすら届いている慶史の『悪癖』に、誰もが那鳥君と同じ疑問を抱いている事だろう。何故? どうして? と。 (どうして慶史ばっかりこんな辛い目に遭うの……?)  僕と当事者以外知らない秘密のせいで、周囲は慶史に『失敗作』のレッテルを貼ってゆく。『汚らわしい』と嫌悪感をぶつけ、『男好きの淫売』と酷い言葉をぶつけられる。  そんな中慶史の傷を知ろうとしてくれる存在に、出来ることならすべてを話したいと思ってしまう。もちろん、思うだけで話したりはしないんだけど……。 「悠栖と朋喜にはもう聞いたけど、中等部に入学してすぐ素行の悪さを耳にしたって言ってた。それに、それより前の話は聞いても全部はぐらかされるって」  前を歩く慶史達に注意しながら小声で話を進める那鳥君。  僕は返事をすることができなかった。友達に嘘を吐きたくない。でも、友達を傷つけたくない。今度こそ、僕は友達を―――慶史を守りたかった。 「やっぱり葵は知ってるんだな」  沈黙を守る僕に、ため息交じりの声。  視線を向ければ那鳥君は前を向いたまま「俺の知ってる葵なら、俺と一緒に藤原の心配をするはずだ」と言い切った。 「お前ら、小学校からの付き合いなんだろ?」 「……付き合いが長いから知ってるだろってこと?」 「違う。言っただろ。俺の知ってる葵なら慶史の『悪癖』の理由を知らないならもっと大騒ぎしてる。今みたいに慶史と距離を置いたりしない。絶対に」  『悪癖』に走る理由を知りたいと何度も何度も食い下がることはあっても、こんな風に放置するなんてことはあり得ない。  だから慶史の過去を知っていると確信を持てたと言った那鳥君は、もう一度尋ねてきた。慶史に何があったんだ? と。 「……すごいね、那鳥君」 「別に凄くなんかない。……悠栖と朋喜みたいに優しくないだけだ」 「どういうこと?」 「二人とも慶史に何かあったってことも、それを葵が知って隠してるってことも前から気づいてる。でも、触れられたくないってお前らの意思を尊重して知らないフリをしてるだけだ」  はっきり言いきった那鳥君は「でも俺は悠栖と朋喜みたいに大人の対応はできない」と先に謝ってきた。 「今ははぐらかされてやるけど、俺はこのまま引く気はないから」 「那鳥君……」 「言っとくけど、これは完全に好奇心だからな」  だから優しいとかじゃない。  先手先手を打ってくる那鳥君に、僕はそれら全てが優しさに満ちていると感じた。 『何があっても俺達は味方だ』  そう言ってもらえたような気がしたよ……。

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