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キオクノカケラ~イヴとアリーシャ~(前)

*本編の一部になります。 もうやめて お願い ごめんなさい 助けて 誰か 「……っ!」 心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けて目が開く。定まらない視界の中初めに見えたのは不安げな深緑の瞳だ。 「平気か?」 落ち着かせるように八雲が手を伸ばして頭をゆっくりと撫でる。 くらくらとする意識をどうにか保とうとする。自分が誰でどこにいるのかも朧気で、ともすると全部が揺らいだ影に吸い込まれてしまいそうだ。 「大丈夫かアリーシャ?すげぇ魘されてたけど」 名前を呼ばれるのと同時に背中から強く抱きしめられる。驚いて首だけ後ろを振り返ると矢張り心配そうな深紅の瞳がアリーシャを見つめていた。 「すっごい心臓バクバクしてる」 伸びたもう一つの手が、こちらはアリーシャの胸の辺りをゆっくりと撫でる。 頭と胸を同時に撫でられて意識がはっきりとするよりも先に恥ずかしさが反射的に出てしまい身動ぎをする。 「だーめ。このままじゃアリちゃんの心臓壊れちゃうよ」 そう言うとレオンは後ろから伸ばしていた手に力を入れてアリーシャを自分の胸に閉じ込める。 背中越しに鼓動を感じていると徐々に記憶の霧が晴れて行く。 今日はフィオナが留守の日だったから三人で夕飯を一緒に食べて、それから八雲とレオンに半ば強引にベッドルームに連れて行かれて。それから恥ずかしいことも淫らなことも沢山して気絶するみたいに眠ってしまったのだ。 激しい情事を思い出して顔が赤くなるのと同時に先程まで見ていた夢が放り投げた灰のように虚空へ消えて行ってしまう。 やがてどんな夢だったかも分からなくなって唯怖い夢を見たと言う認識しかできなくなる。 ようやく動悸が収まるとゆっくりと八雲とレオンの顔を見る。 二人とも惜しみ無く愛情を与えてくれて、時々その愛情に溺れてしまいそうになるけれどそれでも分不相応なんじゃないかと思う位に今が幸せで。 (今日……何かヘンだ…) どうしようもない位幸せを感じているのにすきま風の様に不安が心を切り裂いて行く。本当はこれはが見た都合の良い夢で現実の身体はまだあの研究所にあるのではないかと。 漏れでてしまいそうになる悲鳴を飲み込んで手を伸ばすと八雲が握りしめてくれた。 「本当に平気か?」 「うん、平気」 本当は不安で仕方がない、でも不安を言葉と言う形に出来なくてそう言ってしまう。 (雨…………) 気持ちを落ち着けようと目を閉じると屋根を伝う雨音が鮮明に響く。 ー雨が雪のように音が無ければ良いのに。そうしたら悲しみにも気付かずに済んだのにー (大丈夫、大丈夫…) 言い聞かせるように心の中で呟いて目を閉じる。 二人分の暖かい体温が流れ込むと冷たい記憶も頭に滲み出して来る。 (やっぱり、今日は何かヘン…) 映写機の様に一度開かれた記憶は簡単に止める事が出来なくて仕方なく意識をそちらに向ける。 冷たい記憶の始まりはいつも同じ。6歳になって直ぐの頃幸せだった孤児院の生活が終わりを告げて組織の研究所で目覚めた所からだ。 真っ白な空間。染み一つない白綾の壁に白熱灯の灯りが網膜を焼くようで目が痛い。 こめかみ辺りがむずむずしてアリーシャは何度も何度も瞬きをした。ここは何処なのだろう。 ぼんやりとする頭で記憶を辿る。最後に残っていた映像は真っ赤な水溜まりの中に先生や孤児院の皆が倒れている姿だ。 「…っ!!」 鍵と鍵穴が合わさるように意識と記憶が結び付くと頭の中が混乱で満たされてしまう。 悪夢に魘されあように暴れようとするが身体はピクリとも動かない。 鼻腔からアルコールの強い匂いがしたがそれでも脳はあの生臭い血の臭いを思い出していた。 どうにか動く目だけで辺りを必死に見回す。アリーシャの周りには壁に同調したような白い服を着た大人達が無機質な目で見下ろしている。 こんな目を向けられた事は今まで無かった。記憶がもたらす恐怖と現状の不安が頭をより混乱させる。 先程から聞こえる不規則な電子音が耳に響いて頭が痛い。 一人の白い服を着た大人がアリーシャに近付く。手に持った注射器が天井からの光を跳ね返している。 前に受けた予防接種を思い出してアリーシャは身体を固くしたが何か触れたような感覚があるだけで痛みは感じなかった。 注射は痛い筈なのに、不思議そうに大人の方を見るが見つめ返してくる瞳は矢張り無機質なままだ。 (お兄ちゃん…) 寂しくて心細くて大好きな人の名前を呼んでしまう。 けれどそれは同時にもういないという残酷な記憶を呼び起こしてしまう。 泣き叫んで暴れる位の感情が溢れたが身体は動かない、それどころか頭に霞がかかってくる。 ぼんやりと思うように考えられず、口に挿入された管が舌を圧迫して気持ち悪い。引き抜こうにも矢張り身体は動かないままだ。良く見れば管は身体のあちこちに刺さっている。 瞼がどんどん重くなってくる。 目を閉じようとした瞬間、硬質な靴音が辺りに響いた。足音はどんどん近付いてアリーシャの直ぐそばで止まった。 だるさをどうにか押しやって音のした方を見る。 何処までも透き通るような蒼い瞳が此方を見ている。長い金色の髪が灯りを跳ね返してキラキラ光っていた。 (お人形さん?) そう思わせる位整った顔立ちは何故か半分だけ仮面に覆われている。 他の大人と違って見つめる目は優しいが顔全体は困ったような笑みを浮かべていた。 「初めましてアリーシャ」 静かで、それでいてぼんやりとした頭にもしっかり届く位はっきりした声が響く。 (だれ?) アリーシャの疑問を汲み取るように相手はもう一度困ったような笑みを浮かべる。 「私はイヴ。キミの担当だよ?」 (……イヴ?) 担当ってなに?どうして僕はどこにいるの? 疑問が幾つも溢れたけれど強い眠気が全部どうでもいいことのように感じさせる。 イヴと名乗る大人が他の大人と話しているがもう会話を言葉として認識出来ない。 地面に押さえつけられるように意識が遠くなっていく。 「お帰り。アリーシャ」 眠りに落ちる瞬間、イヴがそう呟いたような気がした。 強い光が瞼に刺さる。まだ眠っていたいのにその光があまりにも痛くて無理矢理目を開く。 目の前に現れたのは真っ白な空間だった。継ぎ目の無いタイル張りに天井からは煌々と明かりが照らされている。 果てが無いような白い世界の奥に奇妙な存在が居た。金属が剥き出しになった人の様な形をしているが腰から下は硬質なスカートを履いたように一枚の金属で覆われていて下から車輪が見えた。 「戦闘開始。アリス、戦うように」 頭上から氷のように冷たい声が響いた。 それと同時に目の前に居た金属の塊がモーター音と共に車輪を転がせてこちらに向かって来る。 アリスって誰だろう。そうぼんやり考えていたアリーシャの目の前まで金属が迫る。 手のような長い棒が動いてその先にはキラキラと光る刃物が着いている。機械から殺意を読み取ることは難しいがそれでも棒が振り下ろされれば確実に刃物がアリーシャに当たる事は薄ぼんやりとした頭でもどうにか理解出来た。 「みうっ!!」 紙一重で横に転がり刃物を避ける。金属の塊が鈍い音を立ててアリーシャの方へ向き直る。 カタカタと動き再び棒が頭上に持ち上げられる。 縺れる手足をどうにか動かして立ち上がるとアリーシャは金属から逃れようとする。 「アリス、戦うように」 冷たい声が再び響く。 ーアリスって誰?何が起きてるの?ー そう叫ぶ間もなく金属がこちらに向かって転がってくる。 怖くて身体中震えていたがそれでもアリーシャは走り出した。終わりの無い白い空間はまるで悪夢のようだ。 先程までアリーシャが居た場所の高い部分に広い窓が見えた。そこには矢張白い服を着た大人達がこちらを見ている。 その目は硬質で暖かみが一切感じられない。 「助けてっ!」 それでもアリーシャは叫ばずにはいられなかった。背後で金属が空を切る音がする。 けれども大人達は眉一つ動かすことなくアリーシャを見たままだ、まるで彼等も金属でできた塊のように。 息と溢れそうになる嗚咽を飲み込む。助けてはくれない、どんなに小さな子でも分かる程それは絶望的な状態だった。 アリーシャはひたすら走った。いつか暖かい孤児院のベッドで誰かが起こしてくれることを願い続けて。 「みゃうっ!」 けれど終わりは目覚めではなく衝撃によってもたらされた。白い空間と思っていたのは同色の白い壁でぶつかったアリーシャは尻餅をついてしまう。 背後には金属の塊が迫る。最早逃げる場所も体力も残っていない。 刃物が掲げられる。 「あ………あ………」 目を瞑りたいのに反らすことが出来ないどうにか腕で頭を庇う体制を取るが金属が躊躇することはない。 音が聞こえなくなり全てがゆっくりに見えた。 そして光を跳ね返す刃物が真っ直ぐにアリーシャへ下ろされた。 「ふぇっ…………」 小さな身体を震わせてアリーシャがしゃくりあげる、目を瞑ると大きな涙が幾つも溢れた。 「大丈夫?アリス」 アリーシャの手に包帯を巻いていたイヴが困ったような微笑みを浮かべる。 幸いにも刃物が偽物だったため大きな痣と擦り傷でアリーシャは助かった。けれど陥った不条理は変わらない。 「僕はアリーシャだよ?」 イヴを始め周りの大人はアリーシャのことをアリスと言った。どうしてそんな名前で呼ばれるのか検討もつかない。 「それが君のここでの名前だからだよ」 困った笑みを浮かべたままイヴが言い聞かせるように話す。 「どうして?」 けれどそう言われてもアリーシャには分からないままだ。 「君はここで過去を切り捨てて新しく生まれ変わるんだ。だから新しい名前が必要だろ?」 そっとイヴがアリーシャの頬を包む。覗き込む蒼い瞳は優しく他の無機質な視線を送る大人とは違う気がした。 過去を捨てるってどんなことなんだろう。幼いアリーシャにはとても理解が及ぶものではなかった。 少し似ていても矢張新しい名前には抵抗があった。 「大丈夫。2人っきりの時は呼んであげるから」 アリーシャってー そう落ち着いた声で言われるとアリーシャも渋々頷くしかなかった。押し付けられた名前も運命もとても窮屈だったがどうやったら抗えるのか小さなアリーシャには方法すら分からない。 治療を終えたイヴがアリーシャの頭を優しく撫でると甘くてそれでいて微かに苦い不思議な香りがした。 「おいで」 そう言って握られた手はとても冷たくてアリーシャは驚く。お兄ちゃんを含め手を握ってくれる人達はいつも暖かかったからだ。 不安を抱えたままイヴに手を引かれ建物の中を移動する。広い広い廊下や幾つも並んだ扉、大きなガラスが目に写ったがどれもアリーシャには恐ろしく見えた。 時折他の大人ともすれ違ったがまるで興味がないのか挨拶もせず通りすぎて行った。 「ここが君の部屋だよ」 暗い通路を抜けた扉の前でイヴが立ち止まり話す。 恐る恐る中に入るとベッドと棚、書き物机と簡易的なキッチンがあった。簡素で小さな部屋だが小さなアリーシャには十分過ぎる広さだ。 「イヴは一緒じゃないの?」 今まで一人で過ごすことなど無かったアリーシャは心細くなってイヴの方を見る。 けれどイヴは困った顔のまま「また明日」と言って出ていってしまった。 窓の無い部屋で辺りをキョロキョロと見回すと棚の時計が見えた。11時、こんな遅くまで起きていたことは無いそれでも瞼が重くなる気配はない。 恐々とベッドに潜る。シーツは冷たくてアルコールの匂いが僅かにした。 孤児院に居た時は皆でくっついて寝ていた。だからベッドに一人で寝ることを夢見たときも何度かあった。けれどそれがこんな侘しくて恐ろしいものだとは思いもしなかった。 怖くて毛布を頭から被ると身体を丸めて耳をふさいだ。どうしてこんなことになってしまったのか、グルグルと今までのことが頭を過る。 (……罰) よく先生から言われた悪いことをすると神様が罰を与えると。 それならこれは罰なのだろうか、自分の我が儘で大切な人を殺してしまった。 そして罰はこれだけで終わるのだろうか。 恐ろしくて目をぎゅっと瞑るとまた一筋涙が零れた。 それからしばらくは同じことの繰り返しだった。 起きるとあの白い部屋に連れて行かれて金属と戦わせられる。逃げて追い付かれて怪我をするとイヴが治療をしてまた部屋に戻される。 「もうヤダ!」 イヴの治療を受けていたアリーシャが大泣きする。今まで麻痺していた感情が戻って痛みも恐怖も鮮明に感じる。 泣いても泣いても涙は止まらなくて長い時間そうしていた。その間もずっとイヴの視線を感じていた。それまでは泣くと誰かしらが声をかけてくれたがこうしてそのままにされることは初めてだった。 泣き過ぎて喉と目がヒリヒリと痛む。止めようと何度も目を擦る、指の間から見たイヴは困った様な微笑みは浮かべていたが優しい眼差しをしていた。 何度かしゃくりあげてようやく涙が止まると待っていたかのようにイヴがゆっくりと話す。 「でも戦わないとね。そうでなければ何れ君は死んでしまうよ?」 大きな目をぱちくりとさせてアリーシャが首を傾げる。戦うとはどういうことだろうか。 昔ドラゴンと戦う騎士の話をお兄ちゃんから聞かせて貰ったことがある。その時は自分も物語に入り込んで一緒に戦ったような気分になった。けれど実際はドラゴンの半分も無い金属に立ち向かうことすら出来ない。 死とはなんだろうか、不意に孤児院の子達の遺体が脳裏に思い出される。血を流して真っ白い顔をした子達。さっきまで生きていた物があっさりと無機物へと変わってしまう。 戦わないと何れ自分もそうなるのだろうか。 身震いしたアリーシャをイヴが優しく頭を撫でる。 「そうはなりたく無いだろ」 まるで考えを見透かしたように言われ頭を上げるとアリーシャは小さく頷いた。 理不尽でも死に対する恐怖は十分に理解出来た。 それからイヴはアリーシャに体と武器の使い方を教えた。必要だからと戦いに関する知識も教えられ、怪我をしないようにと手術も何度も受けた。 今まで戦いとは無縁の小さな子供にもイヴは投げ出すことなく根気よく教えた。 長いような短いような時間だった。 ある日実戦だと他の大人に突然言われ戦場に放り込まれた。 結果はアリーシャの力が暴走してしまい、敵も味方も全滅することになった。 雨が打ち付ける中、アリーシャは1人で泣いていた。 敵意を向けていた人間、邪険にしていた人間庇ってくれた人間。人間だった筈の存在が今は濁った瞳で皆こちらを向いている。 戦場での戦いはあまりにもリアルで血と硝煙の匂いがもう落ちない汚れのように思えた。 不意にアリーシャの周りだけ雨が止む。顔を上げるとイヴが傘を差して立っていた。 いつもの格好とは違い黒いコートと黒い皮の手袋をしている。 「帰ろう?」 その声はいつもの様に穏やかだ。 「何で…………」 けれどアリーシャは動けずにいる。 「なんでこんなことしなくちゃいけないの!!」 声を荒らげると雨が一際強くなった。恐怖と混乱でイヴを睨んでしまったが彼は戸惑うことも咎めることもせず何時もの困った様な微笑みを浮かべている。 「それが君の生きる道だから」 そう言って優しくアリーシャを抱き寄せる。眼下にはいくつも死体が転がり生臭い空気を放っている。 人間から死体、そして今は土塊に帰ろうとしている様は恐ろしく改めてアリーシャに死の恐怖を植え付けた。 「ああはなりたく無いだろう」 アリーシャはイヴに抱きつくと返事の代わりに涙を一筋流した。 いつもイヴが治療してくれる部屋に戻る。断片的だが少しずつ分かったことがある。 ここは研究所と呼ばれる所で目の前に居る相手はアリーシャの治療や世話をする担当と呼ばれる職なのだ。 アリーシャの傷を治すとイヴはココアを淹れて渡す。甘いものなんてどれくらい振りだろう。 一口ずつ大事に飲みながらイヴの方を見つめる。 イヴが白衣から取り出した煙草に火を付けるとココアとは違う甘くてそれでいて微かに苦い匂いがした。 彼はこうしてアリーシャと2人きりの時だけ煙草を吸い普段緩く束ねている髪をほどく。 それは一緒の時だけ見せてくれる秘密の様で少しだけ胸が熱くなった。 「落ち着いた?」 目が合うといつもの困った笑みでイヴが尋ねる。アリーシャが頷くとイヴは白衣のポケットに手を入れる。 「じゃあこれを返さないとね」 そう言ってアリーシャの首に細い革紐を掛ける。 「あ……………」 不意に鼓動が速くなり頬が熱くなる。革紐の先には水晶の形をした飾りが付いている。下半分は紫色に染まっていて中には小さな薔薇が収まったそのネックレスは紛れもなくお兄ちゃんからプレゼントされた物だ。 恐々手に乗せると壊れないように優しく包む。目を閉じると優しい思い出達が幾つも甦って来る。 「そんなに嬉しかった?」 「うん!あのね、これはー」 言いかけた途端胸が刃物で抉られたように痛んだ。大好きなお兄ちゃんからプレゼントされた物だと話したかった。 でもそのお兄ちゃんはもういない、自分が殺したからだ。 そんなことイヴには言えない。言えばきっと自分の事を嫌いになるからだ。アリーシャが困っているとイヴは小さく笑った。 「本当はちゃんとした誕生日プレゼントをあげたかったんだけどね」 「え?」 そう言われてアリーシャは驚く、あれからもう一年近く経っていたのか。戸惑ったがそれでもどうにか事態を飲み込むと花のような笑みを浮かべる。 こんな風に笑ったのはいつ振りだろう。 「ううん。イヴのプレゼントすっごく嬉しい」 心からの言葉だった。本当は跳び跳ねてイヴに抱きつきたい位だ。 「あ。イヴのお誕生日はいつなの?」 何も出来ないがせめて彼の誕生日におめでとうだけは言いたい、孤児院でしてきたように。 「誕生日?」 けれどイヴはそれを聞いて不思議そうな顔をする。 「いつ…………だろうね?」 いつもの困った笑みを浮かべて首を傾げる。今回は本当に困っている様に見えた。 「お誕生日分からないの?」 イヴは答えずに小さく笑うだけだった。自分の誕生日を知らないなんて、あんなにワクワクして幸せな時を彼は経験したことがないなんて寂しくて悲しく思えた。 孤児院の子でさえ1人1人誕生日があった。自分の誕生日を覚えてる子もいれば孤児院に来た日が誕生日になった子もいる。 でもイヴには誕生日が無い。 「そうだ!イヴの誕生日僕と一緒にしよ」 イヴは首を傾げたがアリーシャは嬉しそうに白衣の裾を掴む。これ以上無いアイディアが浮かんだ気がして興奮を隠せない。 「それでね、一緒におめでとうって言うの!」 暗澹としか見えない世界に光が差した気がした。誕生日にお互いにおめでとうを言って祝う、そんな日が来るならこの先も頑張れる。 「だめ?」 恐る恐る聞くと答えの代わりにイヴは小指を差し出す。それを目にしたアリーシャは嬉しくて急いで小指を絡めた。冷たい体温が肌を伝わったが心は温かかった。 まるで一年分の幸せをぎゅっと詰めて差し出されたような気分だった。 それからまた同じような日々が続いた。変わった事と言えば勉強が歴史や語学、人体学など多岐に渡ったことやより複雑な攻撃方法を習わされたことだ。 「むぅ……」 解剖学の本と向き合っていたアリーシャがため息とも文句とも言えない声をあげる。 「分からない所があった?」 イヴが後ろからアリーシャと本を覗き込むとアリーシャは首を降る。 「たいくつだなって」 拗ねたように口を尖らせるとイヴが困った様に笑う。ずっと一緒にいてようやくこの笑いが彼の癖だと分かった。 水のように流れる時間、勉強も武術も戦いも同じことの繰り返しだ。イヴを困らせたくは無かったが代わり映えのしない日々に文句の一つも言いたくなった。 「じゃあ他の人に代わって貰おうか?」 けれどイヴは自分との勉強が退屈だと捉えたようで本を閉じてしまう。そうでは無いと言いたくてアリーシャは慌てて首を降る。 「イヴとの勉強は楽しい、よ」 これは本当の事だ。どんな稚拙な問いにもイヴは丁寧に答えてくれる。他の職員は本を渡して通り一辺の説明をして勉強させた後テストをするだけだから優しく教えて色々な話をしてくれる彼との勉強は待ち遠しい程好きだった。 (戦いの練習はちょっと嫌だけど) アリーシャは心のなかで舌を出す。いくら戦いの練習もイヴが教えてくれるとは言え痛いのは嫌だし実戦を想定させる戦いは嫌いだった。 「そう……?模擬戦を同じくらい頑張ってくれるともっと良いんだけど?」 心を見透かされたイヴの答えにアリーシャは顔を赤くして口をへの字に曲げる。 ポーカーフェイスも戦いには必要なのだが戦闘同様こちらもまだまだ練習が絶対の様だ。 そんなアリーシャを見てイヴはまた困った笑いをする。 「ほら、今日は全部終わったらチェスを教えてあげるから」 イヴの出した提案にアリーシャは笑顔で答える。寂しくて辛くて、それでいて退屈な日々も彼が居てくれるから越えられる自信があった。 「ふふっ」 ドアの隙間から顔を覗かせてアリーシャが笑う。思った通り誰もいない。 既に消灯の時間は過ぎているから常夜灯の心細い明かりしかないが目が慣れてしまえば何と言うこともない。 外鍵を開ける方法も短い間だが監視カメラを誤魔化す方法も編み出した。今アリーシャが部屋の外に出ようとしてる者は誰もいない。 「と。悦ってる場合じゃないよね」 するりとドアから抜けると暗い通路をとてとてと歩き出す。足音がバレないように裸足にしたから膝からしたがとても冷たかったが気にせず進む。 今日が終わるまであと小一時間しかない。12月26日、イヴにおめでとうをどうしても言いたかったのにこの日に限って彼は姿を見せなかった。きっと研究所のどこかに居る、そう思って人の目が少ないこの時間にこっそりと抜け出したのだ。 キョロキョロと辺りを見回しながら歩く。この施設に1年以上いるのにこうしてしっかりと見るのは初めてだ。 見回りに見つからないように、ドキドキした気分とおめでとうを言えるワクワクした気分が合わさってちょっとした冒険のように感じた。 自動扉を抜けると白い壁から大きなガラス張りの窓になる。 こっそり近づいて目を凝らすと煌々とした明かりと緑色の服を着た職員が数人見えた。 どうやら手術室を上から眺められるようになっているらしい。 手術台の上にはアリーシャより少し小さな女の子が寝かされている。あの子もきっと戦いで死なない為に、強くなる手術を受けるのだろう。 (がんばれー。がんばれー) 拳をぎゅっと握ってエールを送る。手術は辛いし終わってもあちこち痛いけどこれであの子も死ななくなる。 そうしたらどこかで会えるかもしれない。 もし凄く運が良ければお話しもできるかもしれない。 先程とは違う意味でワクワクドキドキしながら大きな目をさらに開いて食い入るように見つめる。 銀色の台に乗せられて何かが運ばれて来る。目を凝らして見ても矢張りよく分からない。 紫色でタコの足だけ沢山取り付けたような形をしている。 「え?」 不意に足がぐにゃりと動く。 (生きてる……の?) けれどあんな生物図鑑でも見たことが無い。足がどろりと黒い液体を吐く、粘液にツヤツヤと濡れた醜悪な様はバケモノと呼ぶに相応しかった。 職員達は気にすることなく少女を開腹すると傷口にバケモノを置く。赤と緑の世界に異様な紫が混じる。 まるで住みかに戻るヤドカリのようにバケモノは足をうねらせると傷口へ潜って行く。 アリーシャは自分の腹部をなぞる。その顔は血の気が抜けて真っ白になっていた。 死なないように、そう言われてアリーシャも沢山の手術を受けてきた。けれどー。 突然計器が異常な音を立てて波形が乱れる。職員達が慌てて蘇生に走るのをアリーシャは見ていたが脳に留めることはできなかった。 (僕は………何を………) 全ての計器が止まる音がする。少女は死んだのに足だけは今も蠢いて次の宿主を探している様だった。 「げっ…………えうっ………」 耐えきれずにアリーシャが胃の中にあるものを吐き出す。吐いても吐いても脳が気持ちの悪い熱に侵されて止まらない。 荒い呼吸の間から硬質な足音が響く。 見上げるとイヴが相変わらずの困った笑いを浮かべている。 「イヴ…………」 聞きたいことは山の様にあった。あれは何、僕も同じ事されたの。それともこれからされるの。今まで受けて来た手術ってなに。 「僕は…………人間なの?」 けれど真っ先に出てきたのはその言葉だった。バケモノに侵され、浸透された身体。姿は人間だけどそれをヒトと呼ぶのだろうか。 否定して欲しかった。人間だと肯定して欲しかった。でもイヴは困った笑顔のまま首を傾げるだけだ。 「うわああぁぁーーー!!」 叫びが、胃酸で焼けた喉を通って溢れる。 イヴに縋ることも出来ずに踞る。涙は出なかったが叫び声は止まらない。沢山の感情が現れては焼け切れるように消えていき最後に残ったのは絶望と虚無だった。 「あ…………あ……」 まるでこのまま死んでしまうかの様に声が枯れ身体を引くつかせたアリーシャをイヴが優しく抱き締める。 「お誕生日おめでとう。アリーシャ」 遠くなる意識の奥でどこまでも優しい声をアリーシャは聴いた気がした。 それから何日が過ぎただろう。イヴの取り計らいなのかアリーシャは咎められることなく日常に戻された。 けれどあの日脳裏に焼き付いた記憶は消えない。 そしてアリーシャにも訪れた手術の日、施設に来て初めてと言う程アリーシャは暴れて抵抗をした。 普段無機質な目を向ける職員達が狼狽える程攻撃性を見せたが本当に助けて欲しい人の姿はそこに無かった。 麻酔を打ち込まれても意識が消える瞬間まで逃げ出そうと抗った。 そして意識は闇へと消えた。 夢を見た。 真っ白い羽が背中に生えていて今にも空を飛べそうに動いている。このまま羽ばたかせれば大好きな人達の所へ行けるかも知れない。 けれどどんなに羽を動かしても少しも浮かぶ事は出来ないよく見れば羽に大小様々な管が繋がっていて赤い液体が送り込まれている。 羽が異様な動きを見せると根本から紫色の足に変わって行く。 「ああ………ああ………」 恐怖で喉が張り付く。このままではきっとバケモノになってしまう。 無我夢中で足を掴むと引きちぎる。 恐ろしいほどの痛みが背中に走って血がボタボタと床に溢れる。 それでも足はまた生えて来る。それを夢中で引きちぎる、延々と繰り返しどうすることも出来ない。 「イヴ…………イヴ……」 恐ろしくて助けて欲しくて暗闇に向かって叫び続けた。 「イヴ……イヴ………」 高熱に魘されたアリーシャがうわ言のように呟く。今回は術後の調子が良く無いらしい。 それでもイヴは相変わらずの困った笑みを浮かべている。 「鎮静剤の追加を……」 後ろに控えていた職員が動こうとするのをイヴは手で制した。 代わりに屈むとアリーシャの手に自分の手を重ねる。 (イヴの手だ………) 冷たい体温がアリーシャの熱い身体に伝わっていく。朦朧とした意識の中で確かめるように強く彼の手を握る。 「大丈夫だよ」 そう言われた気がして少しだけ呼吸が落ち着く。 そのアリーシャの手をイヴは運命ごと握るように優しく握り返した。 ー続く

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