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キオクノカケラ‐アリーシャとレオン‐
*本編の一部になります。
柔らかな日差しが窓から差し込んで室内を程よく暖めてくれる。うっかりするとポカポカした気温に眠ってしまいそうだがアリーシャは真剣な顔つきで机に向き合っている。
「えっと、閾値を含めて計算するから…」
ノートを1ページも埋める程の長い計算式を終えて傍らにいたレオンの方へ視線を送る。
「うん。大丈夫♪せーかい」
さっと目を通したレオンが笑いながら頭を撫でる。
「さっきから正解する度に頭撫でてない?」
子供扱いされるのが嫌でアリーシャはむくれた様な声で頭を降ってレオンの手を振りほどく。
「だってアリーシャ正解しかしないんだもん」
何故だか文句を言い返されてしまう。言葉の裏を返せば不正解なら何かを企んでいると言う事だ。
何が起きるか、考えたくなくて参考書とノートを広げた机に向き直る。
アリーシャは学校には通っていない、名目上は家庭学習を選んでいる事になっている。
とは言えそこら辺の大人など太刀打ち出来ない程の知識量と思考力を既に持ち合わせているアリーシャの勉強を見れる相手などそうそう居る筈も無く、専らレオンかフィオナが空いた時間に教えるのが常だ。
「そもそもアリーシャもう勉強する必要ないじゃん」
今度はレオンが拗ねたような口を利く。彼としては貴重な二人きりの時間をもっと別の事に使いたいようだ。
「こう言うのって習慣化しないとでしょ?」
おおよそ13歳らしくない答えが返ってくる。しっかりし過ぎな位アリーシャは大人びている。流石はあのフィオナに育てられたと言った所だろうか。
(違う)
アリーシャはもっと甘えん坊で自分を頼っていた筈だ。
差し込む日差しのように記憶が現実に顔を覗かせる。幸せな記憶も苦い思いでも一緒くたになって不規則な音色を奏で始める。
「それに、まだレオンみたいに頭の中で計算出来ないし」
「確実で良いと思うけどね」
愛しい声が現実に引き戻してくれてレオンは慌ててフォローを入れる。けれどアリーシャは納得出来ないのかしょんぼりしてしまう。
「フィオナにも同じこと言われた」
(そこで他の男の名前出すかな)
仮、とは言え恋人同士なのだ。出来ればもっと自分に構って欲しい。
「どうしたの?」
不思議そうにアリーシャが顔を覗き込む。くりんとした瞳は昔と何一つ変わらない。
けれどもう昔のように自分だけを写す事は無い。そう考えると胸がジリジリと焼けるような感覚に襲われる。
「アリーシャが良い子過ぎるからこうするの!」
そんな感覚を振り払うように口を尖らせるとノートに赤いペンで大きな花丸を書く。その下にはご丁寧に可愛いネコのマークまで走らせた。
「あーーー!!」
悲鳴を上げた後アリーシャはレオンを睨み付けて飛びかかる。何度も言うが子供扱いされるのが嫌いなアリーシャはかなりご立腹のようだ。
けれどそんな行動もレオンにとってはお見通しの様で飛び掛かったアリーシャを自分の腕に閉じ込めてしまう。
「じゃあ次は体の仕組みについて勉強しよっか?」
「そんなのしないっっ!!」
レオンの腕の中でアリーシャがぺちぺちと胸を叩く。
こうやってアリーシャとじゃれあうのは楽しい。恥ずかしがったり抵抗したり、むくれたり。ころころ表情を変えてレオンに反発するのが可愛らしくてますますからからいたくなってしまう。
それでも。
晴天の空に不意に雲が陰るように心に一抹の感情が沸き上がる。
あんな事がなければもっと違う未来が待っていたのではないか。
心に陰った雲はスコールの様にどんどんと広がっていきあの日を思い出させる。
それはレオンにとってもアリーシャにとっても身体中を切り刻まれるような記憶だ。
それでも振り払うことが出来ずに頭と心の中に広がって行く。
そう、残酷な記憶の始まりは悲しい程優しい思い出から始まる。
天井に備え付けられた窓から冬の眩しい明かりが注ぐ。そのお陰で室内は暖房が無くてもぽかぽかと暖かいし明かりも十分に取れている。
ここは孤児院の図書室だ。外で遊ぶのが好きな孤児院の子達はこの部屋が冬場意外と快適に過ごせることを知らない。
この部屋にいるのは専らレオン位だ。彼としてもこの静けさと居心地の良さを一人占め出来て満足している。
とは言えここ2年程は一人でいる事が極端に少なくなった。
図書室のドアが小さく開くとこれまた小さな頭が顔を除かせる。
ふわふわのブロンドと紫苑色の瞳がこちらを見つめる。
「アリーシャ」
レオンが名前を呼ぶとアリーシャは嬉しそうに笑う。
小さな足で駆け寄るとぴょんとレオンの隣にアリーシャが座った。
「皆と遊んでたんじゃないの?」
普段レオンと一緒にいることが多いアリーシャだが今日は他の子達が遊びたがっていたのだ。だから遠慮してレオンは一人図書室で本を読んでいたのだが。
レオンの問いにアリーシャは小さく首を降る。
「ご本読んで欲しいの」
他の子と遊ぶ事よりも自分と一緒にいることを選んでくれた事にレオンは一縷の嬉しさと誇りを覚える。
本当は優越感さえ沸きそうになったが何とか押さえる。
「いいよ。持っておいで」
優しく笑うとアリーシャは嬉しそうに本棚に走る。
よく本を読むレオンと一緒にいるせいかアリーシャは年の割に文字も言葉も沢山知っている。
それでもレオンに本を読んで貰うのが好きなようでそれがまたレオンを嬉しくさせる。
「これっ!」
アリーシャが高く掲げた本を見てレオンは思わず吹き出しそうになる。
その本は純文学ではあるが哲学思想や心理描写が複雑で大人でもかなり苦労する本だ。
以前アリーシャにねだられて読んだ時も分からなくて泣きそうになっていた。
「もう少し大きくなったら分かるようになるよ」
そう言って慰めたがそれ以来その本を時折持ってきては今日こそは読めると期待して読んでいるのだ。
勿論今日も理解できるとは思っていないがアリーシャを膝の上に乗せると本を開いて読み始める。
アリーシャの事を家族ではなく恋人として好きになってから一年以上になるだろうか。最初は驚いたしそんな感情を持った自分を諌めた時もあった。それでも与えてばかりだったレオンの世界にアリーシャは沢山の幸せをくれた。
だからこの想いは必然だったのだろう。
いつか大人になったらアリーシャと二人だけで暮らす。そんな幸せな未来を夢見ていた。
「アリーシャ?」
幸福な考えから現実に戻ると案の定アリーシャは小さな鼻を本にくっつけて必死に文字をおっているが到底理解しているようには見えなかった。
矢張「もう少し大きく」ならないと無理なようだ。
レオンはその姿が可愛くて苦笑いしてしまう。
「秘密基地に行こっか?」
突如出されたレオンの提案にアリーシャは花が綻んだように笑う。
「うんっ!」
小高い山の山頂付近に建てられた孤児院は元は駆け込み寺の様な場所だったらしい。
だから孤児院までの道は険しく危険な場所も多くある。
特に孤児院の裏手は崖が近いから子供達が行くのを禁止されていた。それでもレオンは一人になりたいときこっそりとその場所を訪れていた。
アリーシャが来てからは一緒に行くようになり野苺を積んだり花を育てたり木陰で本を読んだりと色々な遊びをした。
その場所は本当に二人にだけにらなれる秘密の場所だった。
だから二人で秘密基地と呼んで長い時間一緒に過ごした特別な場所だった。
アリーシャは嬉しそうに跳ね回ったり高山植物を眺めたりとはしゃいでいた。
「アリーシャ」
不意にレオンがアリーシャを呼ぶ。不思議そうに駆け寄るアリーシャに一度だけ目を反らすと意を決したようにレオンが口を開く。
「お誕生日おめでとう」
今日は12月26日、アリーシャの5歳の誕生日だ。
貧しい孤児院では誰かの誕生日の日は皆でおめでとうを言い合ってそれでおしまいになってしまう。
それでも2回もおめでとうを言われたアリーシャは嬉しそうにくるくる回ってお礼を言った。
「ちょっとだけじっとしててね」
レオンはアリーシャの方を優しく掴むと自分に向き合わせる。
訳が分からずに小首を傾げたアリーシャの首にレオンがネックレスをかける。
益々不思議そうに自分の胸元にあるペンダントヘッドをアリーシャはみつめる。
クリスタル型のガラスは紫のグラデーションをしており中に小さなバラが一輪納められている。
冬の日差しを反射して中のラメがキラキラと輝いている。アリーシャはその光に見惚れて何度も光に透かして覗いている。ふっくらとしたほっぺが赤く染まって喜んでいる事をレオンにつたえた。。
「お誕生日プレゼント」
はにかみながらレオンが笑う。その言葉を聞いてアリーシャは目を丸くする。孤児院に来てからプレゼントらしいプレゼントなど貰った事がなかったからだ。
「お兄ちゃん、ありがとう」
屈託のない笑顔でアリーシャがお礼を言う。その姿は嘘偽り無く喜んでいた。
そんなアリーシャを見てレオンは抱き締める。
家族としてではなく好きな人として抱き締めたのは始めてだ。
勿論アリーシャにはそんな違い分からないだろう。それでも愛しさが溢れて止まらなかった。
クリスマスが過ぎてきっとアリーシャは迷子になって天国に帰れなくなった天使なんだろう。
レオンは本気でそう思う時があった。でもそれならばアリーシャはいつか天に帰ってしまうのかもしれない。
それは嫌だ。レオンは更に強くアリーシャを抱き締めた。
「ずっと…………ずっと一緒だよ」
ずっとこの場所で、大きくなったら二人きりで。
「うん。いっしょー」
アリーシャも嬉しそうに答える。
言葉の意味も重さも知らないまま二人は楽しそうに約束をした。
それから一年、穏やかな日が続いた。
アリーシャが転んで泣いた時も怖い夢を見て怯えた時も「いつも一緒にいるよ」そう言い聞かせて慰めたが。
その言葉は降り積もる淡雪の様に二人の心を満たしていった。
そしてクリスマスを目前に控えたある日。
「寄宿舎?ボクが?」
レオンが言葉を繰り返す。その声は僅かに掠れていた。
きっかけは院長である先生が出した提案だ。
レオンは今年で学校を卒業する。彼としてはそのまま孤児院を手伝ってアリーシャと一緒にいる積もりだった。
けれど先生は学校に進学する事を勧めてきたのだ。
少し遠い寄宿学校だがレオンの頭なら奨学金も使えるし向こうも歓迎していると言う。
「いや、です」
震える声でレオンは答えた。これには先生も驚いた顔をした。今までレオンが反発したり顔色をここまで変えた事がなかったからだ。
「でもとても良い学校なのよ。貴方なら学力も問題ないわ。一度行ってみるだけでも……」
それでもレオンは首を強く降った。
話に出た学校は直ぐに行けるような場所ではない。ましてや寄宿舎ともなれば帰ってこれるのは一年に一度程だろう。
なにより今から見に行けばアリーシャの誕生日に間に合わない。
何もかも最悪が重なって良いことなど一つも無いように思えた。
そんなレオンに先生は優しく肩に手を置いた。
「聞いて。貴方がここを好きなのは知ってるわ。でもその学校に入れれば皆の為にもなるの。このままここで居るよりももっと力になれるの」
レオンは目が熱くなるのを感じた。それでも涙は流さなかった。
「学校に行ったら皆を幸せにできる?」
本当はアリーシャを、と言いたかった。でも秘めた想いを打ち明ける気持ちにはなれなかった。
先生は静かに頷いた。
「貴方ならね」
レオンは頭をグルグルと回転させた。
貧しい孤児院の生活ではアリーシャは本当に幸せとは言えないだろう。もし本当に学校に行って満足の行く暮らしが出来るようになってアリーシャを連れ出す方法がわかるなら。
感情と理性をごちゃ混ぜにして導き出した答えはしぶしぶながらも、とりあえず学校に見学に行ってみる事だった。
出かける前日アリーシャに誕生日を祝えない事を何度も詫びて優しく抱き締めた。
「大丈夫。ずっと一緒にいるから」
何度も何度も繰り返した言葉をもう一度言った。
学校までは汽車と徒歩で片道3日程掛かる場所にあった。
普段レオンが通っている麓の学校とは比べものにならないほど大きく敷地内に沢山の建物が並んでいた。
敷地内を軽く案内され簡単な学力テストを受けさせられた。
テスト結果に教員達は目を丸くしたがレオンとしては何がそこまで難しいのかさえ分からなかった。
学校方針や校則などの話を受けた後、職員達は是非来て欲しいとお世辞抜きで語った。
「あの…」
何か質問は無いかと言われたのでレオンは素直に頭に浮かんだ言葉を述べた。
「この学校に入ったらお金を沢山稼げる職業につけますか?」
恥ずかしとも浅ましいとも思わなかった。アリーシャと幸せな生活を送る。それが何より一番でそうで無ければ学校などどうでも良かった。
教員達は苦笑いをして顔を見合わせた。
「君は若い。無限の可能性がある。そう言う未来もあるだろう」
「はっきり言って貰えませんか?」
レオンは少しだけ苛立った。その気配に教員達は困惑する。
「君はどうしてそこまで拘るんだい?」
「孤児院の皆を幸せにさせたいからです」
恐ろしく模範的な答えが口から溢れる。本当は幸せにしたいのはただ一人、でもそんな事言う積もりも価値も無いように思えた。
けれど教員達は感心したように頷く。
一人の初老の教員が静かに口を開いた。
「いいかね。この世には沢山の知識がある。素晴らしい考えもずる賢い知識もだ。君がどんな知識を身に付けるかは君次第だが覚えておいてくれ。知は力だ」
初老の教員は遠くをみつめる。
「君は賢い。だがまだまだ知らない事も沢山あるだろう。現に皆を幸せにする方法が分からない。だからここで学んでその方法を見つけるのも一つの未来だ」
「本当にそれで幸せになれますか?」
レオンは眉を寄せる。幼いながらに時間は有限だと知っていた、もし学校に入ってもアリーシャと過ごせないなら何の意味も無い。
「全ては君次第だろう。だが一人でくすぶって学ぶより多くの知識が得られる事は保証しよう」
レオンは少しドキリとした。本当は学校になんか行かないで孤児院を手伝いながら過ごしたいと思っていたからだ。
気持ちを見透かされてしまったようで居心地が悪い。それと同時に自分もまだまだ幼い子供なのだと思い知らされた様で歯がゆかった。
「分かりました。沢山の事を教えて頂けるなら入学します」
アリーシャを幸せにする方法が見つからない自分が腹立たしかったが僅かに見えた光明にすがってみたい気持ちもあった。尤もその気持さえも本当は悔しかったが。
「君が正しい力を身に付けることを祈っているよ」
帰り際そう投げ掛けられた言葉をレオンはよく理解できなかった。
帰り汽車の中でレオンは景色を眺めながらレオンは考えに耽っていた。
あの学校に入って沢山の知識を得る。
そうすればお金も沢山稼げる職につけるだろう。自分で企業したって構わない。
そうしてアリーシャを迎えに行くのだ。その頃にはまだ幼いアリーシャも自分の秘めた想いを理解してくれる年頃になっているだろう。
その間にアリーシャが養子に出される心配もない。何時だったかアリーシャの親が必ず迎えに来ると先生に渡した覚え書きをこっそり見た事がある。でももう3年も迎えに来ていないのだ。
これからも来る事は無いだろう。
学校を卒業して地位もお金も築いて何不自由無い暮らしを用意してアリーシャを迎えにいく。
それから二人で暮らすのだ、今度は恋人同士として。
ずっとずっと一緒に。以前から憧れていた世界が手を伸ばすとそこにある気がした。
レオンは孤児院を出て初めて笑顔を浮かべた。
孤児院まで山道をレオンは駆け足で急ぐ。
空は鉛を溶かしたように雲で覆われていたが暖かったので雪になる心配は無いだろう。
早く帰ってアリーシャに伝えたい。これからの事を、二人で幸せになれる未来の話を。
孤児院のドアを勢いよく開けると皆が駆け寄って来る。誰もがレオンの話を聞きたくてキラキラさせた目をしている。
でもアリーシャの姿は見当たらない。聞けば一人で外に出て遊んでいるらしい。
恐らく秘密の場所にいるのだろう。
「ごめんね。夕食の後にゆっくり話すから」
レオンは一人一人の頭を撫でてアリーシャを探しに行った。
建物の裏手に回ると直ぐに小さな頭が見えた。
「アリーシャ」
名前を呼ぶと小さな頭がぴくんと跳ねて大きな瞳がレオンを捉える。
「お帰りなさい」
本当に嬉しそうにアリーシャはトコトコと駆け寄ってくるとレオンの裾をぎゅっと握った。
「あのね!お花咲いたよ!」
レオンが口を開く前にアリーシャは嬉しそうにそう言うと手を引いて駆けて行く。
崖付近まで来ると小さな白い高山植物がいくつも咲いていた。
「本当だ。綺麗に咲いたね」
「うん」
アリーシャが話すにはレオンが帰って来る前に花が枯れてしまわないか心配で毎日こっそり見に来ていたらしい。
いじましくて頭を優しく撫でると嬉しそうに目をアリーシャは細める。
「あのね、アリーシャ…」
心臓が高まる。これからの事を打ち明けたアリーシャの反応が楽しみで仕方がない。
レオンはアリーシャにきちんと向き直るとゆっくりと言い聞かせる。
遠くの学校に行くこと、そこで学んで大成すること。卒業したらアリーシャを迎えに行って二人で幸せに暮らす事。
喜んでくれると思った。いつもみたいにニコニコ笑って「待ってる」と言ってくれると思った。
「やーっ!」
けれどアリーシャの口から出たのは射るような拒絶の言葉だった。
「アリーシャ……?」
虚を突かれたようにレオンが目を大きく開く。
「ずっと一緒にいるって言った!!」
アリーシャが叫ぶ。普段おっとりした優しい子だからこんなに怒っているのを見た事が無かった。
混乱で頭が回転しない、レオンはいままでそんな経験をしたことなど無かった。けれど今は何の言葉も浮かばない。
「お休みの時は帰ってくるから」
どうにか言葉を口に出して宥めるがアリーシャは首を大きく横に降るばかりだ。
レオンが出掛けて数日。今まで1日も離れた事など無かったのだ。幼い心には永遠にも感じた日々がこれからも続く、それに耐えられる程アリーシャは強く無かった。
ずっと一緒にいる。そう約束したのだから。
「ねぇ。学校に行けばアリーシャを幸せにできるよ。ご飯だっていっぱい食べられるし欲しい物だって手に入れてあげられる」
「やだ!やだやだ!」
何度もアリーシャは首を降って仕舞いには大きな瞳から涙が止めどなく溢れて出てくる。
「あ………………」
分からない。
転んで泣いた時も怖い夢を見て怯えていた時も叱られて落ち込んでいた時もいつも慰めていた。
でも今はどうすれば泣きやむのか、笑顔になってくれるのか全然分からない。
「お兄ちゃんなんか嫌いだ!」
ぎゅっと目を瞑ってアリーシャが叫ぶ。
その言葉はレオンの心を粉々に打ち砕くのに十分だった。
1個嫌な事があれば全部嫌いになってしまう。子供とはそう言うものだと知っていた。
でも自分にそんな感情が向けられるとは思ってもいなかった。
一緒に遊んで一緒に寝て秘密を共有して、約束を重ねて。
それが全部全部崩れて行く感覚に襲われた。
「どうしてお誕生日いてくれなかったの?」
砕かれた筈の心がまたばきりと折れたような気がした。
最初会った時アリーシャは何も言わなかった。それはこの子なりに我慢していたのかもしれない。でも今はアリーシャの中で何かが崩れてしまったのだ、責めるような目でレオンを見ている。
その視線は到底耐えられるものでは無かった。
それでも叱られた子供のように必死で言い訳のような言葉を探す。
本当はレオンも誕生日に一緒に居たかったことプレゼントも用意したこと、この場所で二人だけでお祝いしたかったこと。
大丈夫、ちゃんと話せば分かってくれる筈。
「アリーシャ……」
何時ものように慰めようと手を伸ばす。
「やっ!」
けれども帰って来たのは明確な拒絶だった。アリーシャがレオンの手を振り払ったのだ。
けれどその事にレオンがショックを受ける時間は無かった。
レオンの手を振り払った瞬間バランスが崩れたのだろう。アリーシャの足元がひび割れ亀裂が走った。いつの間にか二人とも崖の直ぐ側まで来ていたのだ。
アリーシャの体がぐらりと揺れる。
「アリーシャ!!」
考えている暇は無かった。アリーシャの腕を掴むと体重を乗せて体を反転させる。
アリーシャの体が白い花の上に投げ出された。
「お兄ちゃん!」
アリーシャの叫ぶ声が聞こえる。
既に足元の感覚は無かった。
これは罰なのだろうか。
ずっと一緒にいる。何度も何度も呪いのように降り積もらせてアリーシャを縛り付けて最後には自分から踏みにじってしまった約束。
それでも。本当に一緒に居たかった。
薄暗い空からポツリポツリと雫が落ちて来る。
雨は直ぐに足音を速めサァサァと音がする程降りだした。
アリーシャは暗い谷底を見つめていた。雨粒がいくつも吸い込まれて行く。
泣いていた瞳は雨ですっかり洗い流されていた。
小さな手が震える。
「あ………」
突然の出来事に感覚の全てが麻痺してしまった様だ。
大好きだったお兄ちゃん。でも大嫌いになってしまった。寂しくて小さい心では受け止め切れない現実を突き付けられて、どんなに足掻いても変えられない現実があることを知らなかった。だから感情の全てを怒りに変えてぶつけてしまった。
でもそんなアリーシャをレオンは庇った。そして消えてしまった。
崖から落ちたらどうなるか、幼くてもそれは理解出来ていた。
「……っ!」
突然雷に打たれたように体が跳ねるとアリーシャは踵を返して走りだす。
「助けて」
何度もそう繰り返して孤児院の方へ歩みを進める。雨が呼吸を邪魔して上手く走れないがそれでも止まる事は無かった。
大人ならレオンを助けられる方法を知っているかもしれないと思ったからだ。
行ってはいけない場所に居たことを怒られるだろう、アリーシャのした事を知って皆に嫌われるかも知れない。それでも孤児院を目指した。自分はこれから先どうなっても構わない、ただレオンを助けたい。
あれだけ憎んで怒っていた感情が嘘のように暖かい記憶が何度も頭を過る。
お兄ちゃんに死んで欲しくない、死を認めたくない。
その一心で走り続けた。
大嫌いな時間より大好きな時間が沢山あったからだ。
ぬかるみに足を取られて泥だらけになりながら孤児院のドアを開ける。
「助けて!」
そう叫んで勢いよく飛び込むが帰って来たのは沈黙と冷たい空気だった。
薄暗い室内は外と同じように床が濡れて水溜まりが出来ている。走って飛び込んだから水溜まりが跳ねて水滴がアリーシャの服に飛び散る。
刹那アリーシャの服に赤色の染みが出来る。
嗅いだ事の無い生臭さが鼻につく。暗闇に目が慣れてくると全貌が見えた。
室内はどこも赤い水溜まりが出来ていて壁や天井にも飛沫が飛び散っている。その水溜まりの上に孤児院の皆が倒れている。
壁によりかかるように、折り重なるように場所や姿は様々だが誰もアリーシャを見ようとはしない。答えもしない。動こうともしない。
それが何であるか。明確な死を目の当たりにしてもアリーシャは理解できなかった。
朝一緒にお祈りをしてご飯を食べてレオンの帰りを待っていた皆がまるで物のようにあちこちに打ち捨てられていた。
それでも動くモノはアリーシャだけでは無かった。
部屋の奥に二人の大人が立っていた。迷彩柄の服を着て顔を防塵マスクのような物で隠している。
孤児院に先生以外の大人が来る事は時々あった。それでも今目の前にいる二人が他の大人とは違う異質でありアリーシャを助けてくれないことは瞬時に理解できた。
二人の大人が反応して振り返る。その足元には先生が蹲るようにして倒れていた。何かを庇おうとしていたのだろうか矢張彼女も身動ぎ一つすることは無かった。
何もかも理解できない、思考は完全に停止していた。それでも二人の大人の手に握られた銃を見た瞬間本能が逃げろと攻め立てる。
その声に従うように走り出したが直ぐに追い付かれて担ぎ上げられてしまう。
「この子か?」
「間違い無さそうだ」
二人の大人は顔を合わせて話をする。アリーシャはその腕から逃げ出そうと必死で暴れるが拘束が解かれる事は無かった。
「離してっ!やだっ」
どうにか皆の方へ手を伸ばす事だけ出来た。もう助からない、それでも駆け寄りたかった。
「鎮静剤の許可は」
「出ている」
一瞬鋭い痛みが首元に走る。すると視界がぐらぐらと歪み始める。
「処理班の出動を打診しろ。此所も『存在しなかった』事にする」
耳元で話されているのに声は酷く遠くに聞こえた。
何が起きているのか、これからどうなるのか幼いアリーシャには到底理解など出来る筈も無い。
ぐるぐると回るのは視界では無く静かに暮らしていたアリーシャの運命なのだと知るのはもっとずっと後の事だ。
大人達が走り出す。何処へ向かうのか、それでも抗うように小さなてが空を切る。
(お兄ちゃん)
千切れる意識の最後に呼んだのは今はいない大好きな人だった。
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