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侑紀4
車窓の向こうを流れていく見慣れたほど見慣れた風景を今さら眺める気力もなく、ぐったりとシートに身体を預けている。
「侑紀?」
「……起きてる」
マネージャーの呼びかけに、運転席を見ることもなく答える。侑紀の疲労と不機嫌の理由をじゅうぶん知っている彼女は、それ以上何も言わず、門扉の前に車を停めた。電気自動車の、フェイクのエンジン音が止んだ。
「明日も早いんだから、大人しく早く寝るのよ」
「……子供かよ」
「子供でしょ」
「子供じゃねーし」
「そういうとこよ。ほら降りて、とっとと寝る。あ、それ、抜きなさいよ」
疲労のあまり勃起しかけた股ぐらを見たほうも見られたほうも、今さら狼狽えるような関係ではない。返事をするのも面倒で、ひらひらと手を振って車を降りる。深夜の住宅街に短いクラクションを響かせると、車はすぐに走り出した。
門をくぐり、玄関の鍵を開ける。
玄関にあるのは宵のローファーだけで、睦月の革靴はまだない。靴を脱いで上がると、階段から軽い足音が下りてきて、パジャマ姿の宵が現れた。
「ゆーちゃん、おかえり」
「ただいま。睦月は?」
「遅くなるって」
「ふうん……」
「お風呂、追い炊きしてこよっか?」
「いいよ、自分でやる。早く寝な」
「まだ早いよ。子供じゃないんだから」
こういう時、兄弟でまるで同じ反応をするのだとおかしくなる。宵のさらさらの髪の毛をわざと乱暴にかき回し、侑紀は疲れた口角を引き上げた。
「バーカ、子供だろ」
自室に入り、重いコートを投げ捨てる。
ベッドに倒れ込んで、せり上がる苛々を何度も飲み込みながら、尻ポケットのスマートフォンを掴み出し、履歴をたどって探すのは彼の名前だ。彼はお悩み相談窓口でもなければセラピストでもないが、決して侑紀を冷たくあしらえないことを知っている。
コール音はたったの二回だった。
「もしもし?」
スピーカーから、葉の穏やかな声が聞こえる。
「……俺」
「はは、わかってるよ。今どこ?」
「家。今帰ってきた」
「そっか、おかえり」
「ん」
上等なテノールが血管を通って体じゅうに巡るようで、知らずため息が出た。
「どうしたの?」
「……何かなきゃ、かけちゃだめなわけ」
「違うよ。声、元気ないなって思って」
実際に自分は不機嫌な声を出しているのだろうし、珍しく電話なんか寄越した理由を彼が正確に察するのは難しくなかったのだろうけど。再び喉元までせり上がってきた苛々を、飲み込まずに吐き捨てる。
「苛つくことがあった」
「うん」
「俺なんてどうせただの二世タレントだし? 親のコネで取った仕事だし? 親父はともかく、お袋はもう死んでるんですけど? だいたい、コネだけで生き残れたら今頃二世三世タレントだらけだろ、考えろよ。そういうお前は枕で取った仕事だろっての」
嫌な現場だった。その一言に尽きる。浴びせられた幼稚な嫌味を黙殺したせいで、裏ではさらに嫌味を言われていることだろう。偉そうに、自分は特別だって顔しやがって、顔だけアイドルが……エトセトラ、エトセトラ。聞かなくたってわかる。
くすん、と、遠くで軽く鼻を啜るような息遣いがする。
「……聞くことしかできなくて、ごめん」
「なんで謝んの」
「ごめんね」
たぶん、いつものように、ひどく気弱そうに、困ったように笑っているのだろう。
「いいよ。愚痴ったらすっきりした。王様の耳はロバの耳」
「そう? よかった」
笑い含みの返事に、つられるように笑っているのに気づく。今日初めて、芝居でなく笑った気がする。
「ねー、葉さん」
ごろん、と、ベッドの上で寝返りを打つ。なに? とやはり穏やかな相づちに促されて、侑紀はうっとりと言った。
「エッチしたい……」
ずっと疼いていた場所が、彼の声を聞いてしまったせいでもう下着を持ち上げている。シーツに少し擦りつけただけで、快感に、浅いため息が漏れた。
「葉さん、しよ……」
「しよ、って」
「パンツん中、手ぇ入れろよ。で、握って」
戸惑う彼に、傲慢に命令するだけでよかった。ふっ、と、従順な男のため息が雑音となって届く。
「……侑紀くんも」
「ん」
下着のゴムをくぐって、勃起したペニスを掴み出す。既に先端からしっとり滴っていて、ぞくぞくと頬が震えた。
「はは、やべ、も、ガマン汁出てる」
ゴソ、身じろぎの音がする。
「侑紀くん……」
切なげに呼ぶから、きゅん、と腹の奥が疼いた。
「扱けよ」
「あ、ね、一緒に」
「んっ……」
濡れたペニスを擦り上げながら、目蓋の裏の葉の顔を追いかける。優しい眉根をこの時ばかりはきつく顰めて、瞳を潤ませて、薄く開いた唇から浅く、速く、息をする彼を。
「……ね、俺のこと犯すつもりで、四つん這いになって」
「え、あ、うん」
声を上ずらせた葉が、しかし、やはり従順に体勢を変えたのだろうことが、音でわかる。枕をぎゅうっと抱きしめながら、幻影の彼の身体に腕を回し、侑紀は囁いた。
「俺のこと、欲しいデショ? 腰、振りなよ」
「ん……あ……ね、侑紀くんも。脚開いてよ」
同じようにひそめた声が吹き込まれる。
「ふ、なに、仕返し?」
「欲しくないの?」
「……欲しぃ」
きゅん、と、また奥が疼き、侑紀は大きく脚を開いた。
「侑紀くん」
葉のペニスを招き入れる錯覚に、とろり、先端から溢れる。
「ぁー……」
「ゆーちゃん?」
突然、幼い声がした。はっと身体を起こし、布団をかき寄せてくるまる。
ノックもそこそこに開いたドアの隙間から、宵の鼻先が見えた。
「――悪い、電話中」
「あっ、ごめん」
「どうした?」
「えっと、追い炊きボタン、押しちゃったから」
「サンキュ。終わったら入る」
うん、と返事を残してドアは閉まり、侑紀は昂奮のせいだけでなく速まった鼓動を宥めながら、膝を抱える。
「ごめん」
「弟くん?」
「……ん。まだ起きてんだった」
「声、聞かれちゃうね」
くすり、葉の軽い失笑が、真夜中の痴戯の後ろめたさに火を付けるようで。葉がよくするように、陰毛をてのひらで撫でて、また、ペニスを指でたどる。
「ね……萎えた?」
「いや……昂奮したかも」
「ん……」
またてのひらで包み、ゆっくりと扱き始めた時だ。コンコン、再び、今度ははっきりとしたノックの音が響き、
「侑紀? 寝てる?」
ドアの向こうから侑紀を呼ぶのは、睦月だった。
やはりびくりと身体が強ばり、ドアの向こうへ声を張る。
「起きてる。おかえり」
「ただいま。風呂は?」
「電話中」
「あー、悪い。俺、先に入っていい?」
「いーよ」
ドア越しに睦月の足音が遠のくのを待って、はー、ため息をつく。立て続けの中断に、さすがに笑うしかなかった。
「ごめん……兄貴も帰ってきた」
「なんか、侑紀くん、俺の知らない喋り方で」
「なに」
「かわいい」
「……バカじゃないの」
葉の含み笑いに、頬が熱くなる。侑紀はごろんと寝転がると、けしかけるように猫撫で声で囁いた。
「ねー、葉さん……勝負しよ」
「何の?」
「声。今から、先に感じた声出したほうが負け。で、負けたほうは罰ゲーム。勝ったほうの言うこと、何でも聞く」
「いいよ」
くすり、また軽い失笑が弾けた。
「服、全部脱いで。裸んなって」
「うん」
真っ裸になって、布団を頭まで被って、少し柔らかくなった自分を握り直す。
「ちゃんと触ってる? ズルすんなよ」
「触ってる。侑紀くんも」
ふっ、淡く感じた息がスピーカーに乗ってくる。
「先っぽ擦って」
「やば、も、ぬるぬる」
すぐにまた張り詰めて、涙を流し始める。こうなってしまえば、夢中で擦り上げるだけだった。ごそごそという衣擦れの音と、少し湿った手淫の音が、布団の中にこもる。
「……侑紀くん、胸、触って」
葉のかすれた声にそそのかされて、乳首を摘まむ。彼がそうするように、指の腹で押しつぶして、きゅっと摘まんで。堪らず鼻から抜けそうになった嬌声を堪えると、んんーっ、と裏返った息が漏れた。ふ、ふ、ふ、リズミカルな葉の息遣いが、次第に、ぼそぼそと雑音に変わる。んくっ、と強く咳き込むような息が特に色っぽくて、頭の奥で甘く弾けた。
「……入れたい、ゆーきくん、なか」
「いーよ、入れて」
電波に乗って、自分たちはセックスをしている。
「後ろ、触ってよ」
「……俺、風呂まだなんだけど」
「嫌?」
吐息混じりの懇願には応えず、侑紀はヘッドボードの引き出しに手を伸ばした。ジェルを指ですくい、尻の谷間に押し込む。にゅるりと冷たい感触をまとった中指を迎えた尻穴が、喜びですぼんだ。
「……んっ」
「入った?」
「先っぽだけ……待って……あ、あ、はい、る…………入った」
「動かして」
「んっ……んっ、うご、かしてる」
付け根まで押し込んで、乱暴に引き抜いて、また押し込む。それから中をかき回して、襞を引っかく。ぐちゅぐちゅとジェルの粘ついた音に駆り立てられるように、指が動くのが止められない。
「あ……きもちい……」
「俺も」
「葉さん、今、どんな?」
「ん……けっこう、やばい」
「いきそ?」
「まだ、わか、んない……けど、先、いっちゃうかも」
「おっきい葉さん、指、二本じゃ足んねー……三本、うぁ、あ、はいっ……さんぼん、はいったぁ……」
性急に人差し指と薬指を突っ込み、きゅうきゅうとすぼもうとする中を拡げる。血管が浮くほど昂奮した葉のペニスなら、もっと、ここはきつくなるのに。ごくり、彼が喉を鳴らす音が聞こえる。
「ゆーきくんの奥、つっつきたい……」
侑紀は夢中で、一番感じる奥を指で叩いた。
「んーっ……つっついて、もっと、いっぱい」
「……あ、そこ、ゆーきくんの、いいとこ?」
「あ、ん、すご、きもちぃ」
「……ゆーきくん、聞こえちゃう」
しーっ、と、葉の吐息が吹き込まれると、また、甘く頭の奥で弾ける。侑紀は必死に枕に顔を押しつけて、うーっ、泣き声を上げた。
「あっちぃ……」
汗だくの身体を起こし、布団をばたつかせて扇ぐ。
「どっち先、声出した?」
「侑紀くんでしょ」
快楽にすぐに蕩ける自分のことは、よくわかっている。反論のしようがなかった。自分で言い出したことだが、勝敗なんて最初からついていたのだ。
「……何させたいわけ」
「うーん、べつに、ないけど」
さて、勝者の言はずいぶん無欲で、むしろ腹立たしいくらいである。
「はぁ?」
思わず強く問い返すと、はは、と、彼は気弱そうに笑うのだった。
「ごめん。じゃあ、顔見たいな」
「何言ってんだよ」
「だから。写真、送ってよ」
「……バーカ」
射精のあとの汚れたペニスもそのまま、セルフィーを撮って彼に送った。右手でピースサインまで作って。
何年か前に写真が流出した先輩アイドルのことを思い出す。事務所は火消しでてんてこ舞いだったし、本人も一年くらい活動自粛になってたっけ。あの時はただバカだなあと思っていたけれど、今は気持ちがわかる。いつかの未来、彼にひどく憎まれるようなことになったら、彼にとって自分がひどく邪魔な存在になったら、同じことが起こるかもしれないと思うのに。
わかっていても、自制が効かない。彼を好きになって、それくらい、自分はバカになっているのだ。
快い倦怠感と、無理に拡げた腹の奥の違和感を持て余しながら、スウェットのズボンだけ履いて階下に降りると、キッチンから芳香が漂ってくる。深夜に似つかわしくない、焼き魚のにおいだ。菜箸を持った睦月と、彼にべったりと抱きついた宵が、ほとんど同時にこちらを振り返る。
「あー、ゆーちゃん裸だ」
「電話終わった?」
「ん。てか、なに、この時間に」
「塩鮭だよ」
「そういうことじゃねーよ」
へらりと笑う宵に呆れて言うと、弟の頭を撫でながら睦月が笑う。
「いや。軽く食べようと思ったら、宵がお茶漬けがいいって言い出して」
「ご飯と塩鮭にあっついお出汁かけて、ネギとごま散らすんだ」
「明日の朝の分も焼いとくから、レンジで温めて食べな」
どうやら兄と弟が、自分を抜きにして夜食を楽しもうとしているらしい。侑紀はむっと唇を尖らせ、二人に言い放った。
「俺も今食う」
「風呂のお湯抜きたいから、先入れ」
「あー、入る。入ってくるから、待ってて」
「はいはい」
「絶対、先食うなよ」
「わかったよ」
睦月の苦笑に見送られながら、侑紀は慌てて風呂場へ駆け込んだ。
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