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第1話

 手を伸ばして甘えたかった。  たくさん頭を撫でて、たくさん、抱きしめてほしかった。    ** 1 **   リツは、薄暗い檻の中で膝を抱え、店内を眺めていた。今日も客は多い。皆が皆、口々に「可愛い」と言い、次々と購入を決意していく。決して安くはない値段のはずだ。けれど、その支払い額を忘れさせてしまうほど、『彼ら』は魅力的なのだろう。  大きな耳に、長い尾。人間の腰ぐらいまであるかないかの小柄な体格をしていて、人なつこい。それが、リツ達――ナゴ族の特徴だ。  まだ幼い者ほどよく売れる。そんな中、リツはもう19を越えていた。  額を膝にくっつける。  売れるはずがない。そうわかっているのに、毎日毎日、期待をしてしまう自分が嫌だった。こんな部屋の隅に置かれた檻に誰が目を向けるというのか。万が一にも、そういう事態が起こったとして、誰が自分を買おうなどと思ってくれるのだろう。   「ほら、あの子とか可愛いぞ! あ、あの子の柄、珍しいな。あ、あそこの子なんてどうだ?」  また1人、騒がしい客が、木箱と木箱の間――リツのいる場所を素通りしていく。わずかに顔を上げてみる。身なりがよく体格の立派な30代前後の男だった。店の主が手もみをしながら後ろからついていく。その様子からして、相当な金持ちなのだろうと見当がついた。更にその後ろを重い足取りで追う青年の姿があった。 「ゲルニア、ナゴ族は、ものすごく飼い主想いなんだ。よく懐いてくれるんだよ。俺も何匹か飼っているが、可愛くて可愛くて、毎晩、抱いて眠っているよ」 「はは、それは、想像がつきませんね」  ゲルニア、というらしい青年は、振り返った男のはしゃいだ声に、薄く笑んで応えた。 (きれいなひと)  頬が熱くなる。もっと間近で見たくて、そうっと這いながら、柵に近寄った。掌を床に付き、身を乗り出す。  白銀の髪は、やや長め、顎のあたりで整えられていた。つい先ほどまで、密度の濃い金剛石を思わせていた、冷たく、けれど美しい表情が和らぐと、途端に光を通したようにキラキラと柔らかい光を放つ。年齢はリツより少し上だろうか。細身ではあるが、その所作には無駄がなく、弱々しい印象は受けない。  腰に剣を帯びていることからして、軍人なのかもしれない。髪の色よりやや濃い目の銀の軍服がよく似合っていた。 (どうしたんだろう、僕)  リツは、これまでに覚えのない自分の状態に戸惑いを覚えながら、呆然とゲルニアの姿を目で追った。 「けれど、ギース様、このような遊びは私にはまだ分不相応で。独り身ですし、とても面倒を見きれるとは思えません」 「どの口がそのようなことを言うのか、ええ? 由緒正しいエルディア家の長男で、此度の戦でも、王より賞讃を受けておきながら」 「運が良かっただけです」 「面倒など、使用人に任せておけばよいだろう。それより、もっと喜べ! ナゴ族を飼うことは、皆から羨望の目を向けられることに繋がる。簡単に手が出せる額ではないからな。それを俺が買ってやろうというのだから」 「はあ」  ゲルニアの頷く様子に満足したギースは、店主を引き連れ更に奥へと行ってしまう。  リツは思わず、柵にしがみついた。少しでもその姿を見ていたかった。もう二度と会えないに違いないが、彼のことが気になって仕方がなかった。   (もう一度、こっちを向かないかな。もう一度、笑ってくれないかな)  そんな願いが届くわけもなく、客の姿は視界から消えてしまった。リツは柵から手を離した。じんじんと指先に血の気が戻ってくる。錆の部分を掴んでしまったのか、何本かの指の腹に血が滲んでいた。  そこまで必死になっていた自分が可笑しかった。  例え、彼らが戻ってきたとして、例え、こちらに気がついたとして、けれど、自分を買い上げるなんてことはあり得ない。 (あり得ないんだ)  同じことを何度も自分に言い聞かせる。  また膝を抱え込み、そこに顔を埋める。何も聞きたくない。見たくない。けれど、大きな三角耳は、周囲の物音をよく拾う。  足音が近づいてくる。間違いない。こちらへ――。  リツは驚き、顔を上げた。   「この子は?」  そこにいたのは、去っていったとばかり思っていたゲルニアだった。身を屈め、たいして広くもない檻の中を覗き込んでいる。  ゲルニアの、左右に分けられた前髪が、パラリと耳から落ちて頬を掠めた。長い睫も、髪を同じ白銀だと気がつく。瞳は澄んだ青色をしていた。 (きれい)  あまりの出来事に反応できず、リツはゲルニアとまともに目を合わせてしまっていた。心臓が跳ね上がりっぱなしだ。痛いくらいに、強く早く打っている。  名前を呼んでほしい。名前を呼びたい。触れたい。触れてほしい。そんな衝動が次々と身体の内に巻き起こり、自分をうまく制御できない。今、自分がどういう顔をしているのかもわからない。  ガシャン!  そんなリツを我に返らせたのは、柵の大きく揺れる音だった。小さく悲鳴を上げ、檻の隅へと逃げる。店主であるブズがこちらを睨んでいた。途端に、身体が震え出す。昨日腹に受けたばかりの傷が鈍く痛み始める。   「こいつは、本当にナゴ族なのか? 我々より小さいのは小さいが、それでも女性と同じくらいはありそうだ」  訝しげなギースの声に、リツはますます青ざめる。 「身丈はどれくらいある? それに随分と、成長しているように見えるが」 「はぁ、まぁ、こいつは、少々特殊でして。身丈は、ナゴ族の平均よりも、25は大きいです。それに中古品でして、お二方にお勧めする品ではありません。もう年齢も20になろうかという段階で」 「安いのは安いが、これでは買い手はつかないだろう」  ブズの自分を紹介する声に、耳をふさぎたくなる。どれもが事実で、どれもが聞きたくない言葉だった。  他より大きく育ち、主にも捨てられた中古品、全部が全部、その通りだ。  背を向けることが恐ろしく、前を向いたまま、小さく縮こまる。もう背側に隙間もないというのに、リツの足は滑稽なまでに床を蹴り続けた。   「毛色が、私と同じですね」 「おいおい、ゲルニア。まさか気に入ったか言うんじゃないだろうな。そんなものを買い与えたと知れたら、俺の面子にも関わる」 「この色が気に入ったのであれば、他にも似たような色の子がいますので、そちらへご案内しますよ」  ブズの手が柵から離れた。ゲルニアが立ち上がる。青色の瞳が消える。本当は最後まで姿を追いたかったが、折檻が怖くて、もはやこの隅から動こうとも思えなかった。  瞬きをすると同時に、涙が落ちる。  ブズにばれてはまた叱られるので、手の甲で慌ててそれを拭った。けれど拭っても拭っても、涙腺が壊れたかのように涙が溢れてくる。   (ゲルニア、様)  覚えたての名前を心の中で呟くだけで、まるで暖かいスープを飲んだかのように身体の芯がぬくもる。  リツは、何度も名前を唱えながら、目蓋を降ろした。  *** 「起きろ、穀潰し!」  激しく柵を揺らされる音に、リツは文字通り跳ね起きた。ブズがこちらを見ている。頬に冷たい風がぶつかり、ここが外なのだと気がついた。暗い。寒い。  檻のまま外に連れ出されたのだ。  ブズの他に、男がいた。黒い布を頭から被っていて、人相はわからない。  事態が飲み込めず混乱するリツに構うことなく、ブズは檻の鍵を開け、骨張った身体を引っ張り出した。ずっと同じ体勢でいたせいで、重心が取れず、転んでしまう。久しぶりに触れる砂の感触に、風の強さに、ますますリツは落ち着かなくなる。   「ギース様が、お前の主を紹介して下さったのだ。ほら、立て、歩け!」 「ひっ」  ブズの手が伸びてきて、リツの腕を引く。このままでは、肩が抜けてしまうのではと恐怖を感じ、慌てて、膝を立てた。首に、重たい金属の輪がつけられる。首輪だ。前側には鎖が付いており、その先は、ブズから見知らぬ男の手に渡された。   「この度はお買い上げありがとうございます」  男は何も言わない。無言のまま、ブズに背を向けた。リツは引かれるがままに、男に倣い、馬車に乗った。   (買われた? 誰に? どうしてこんな夜に、どうして顔も見せずに)  真っ白な頭の中で、点滅するように疑問符ばかりが浮かんでは消える。隣に座った男の顔は、依然としてわからない。  ブズが小走りで馬車に近づいてきた。  小声で、だけれどもしっかりと輪郭を持った声で言う。 「そろそろこいつ、発情期を迎えるので、可愛がってやって下さい」  その言葉に、かすかに男の肩が揺れた気がした。笑っているのか。  やがて、馬車は動き出す。  リツは、自分の身体が、制御が効かないまでに震え出すのを感じた。 (怖い)

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