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第2話
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どれくらい経っただろうか。リツにとっては、長い時間だった。馬車が着いたのは、大きな屋敷だった。鎖を引かれるがままに、リツはその中の一室に引き入れられた。そこで、裸になるよう命じられた。聞き覚えのある声だった。
(ふ、ふく、ふく、を、ぬ、脱がない、と)
恐怖で麻痺した頭は、男からの命令をなんとか忠実にこなそうと、鈍いながらも必死に働き始める。のろい動作で、履いていたものと、上衣を脱ぐ。下着もだと指示され、従った。
室内は、暖炉でよく暖められており、寒さを感じることはなかった。それでも、身体の震えは止まらない。リツは酷い羞恥に襲われていた。とはいえ、男の許可無く、手を前に回すことも躊躇われ、だらりと腕を垂らしたまま、貧相な身体を晒すことしかできないでいた。
男は被っていた暗幕をとった。
それは、リツも覚えのある顔だった。
「発情期、か」
店の中で、ゲルニアの前を歩いていた人物だった。
ギース様と、呼ばれていた。
何故、どうして。ギースは自分のことを貶していたはずだ。こんなものを買っては自分の面子に関わると、そう言っていたはずだ。
ギースは、リツの立ちすくむ姿を鼻で笑うと、部屋の中央に置かれた大きな寝台に腰を下ろした。
「ナゴ族があの値段とはいい買い物をした。まぁ、大きくて可愛げはないが、そこは目をつむるか。――それにしても、酷い身体だな」
手招かれ、肩を跳ね上がる。ギースの強い目線に逆らえず、恐る恐る歩み寄る。分厚い掌が、リツを抱き込むようにし、肌を撫でる。
あばらの目立つ痩せた身体には、青染みや古い傷が多く残っていた。負ったばかりの腹の痣に触れられ、思わずのけぞるも、すぐに背中にもう片方の手が触れ、動けなくなる。
目をつむり、拳を握り、ともすれば上がりそうになる悲鳴を、必死で押しとどめた。
「これから、よぉく可愛がってやるからな」
よく肥えた頬が、リツの胸へ擦りつけられる。
(買われたんだ。この人が新しいご主人様なんだ。僕を、可愛がってくれるって言ってる)
鎖が、男の手から落ち、床に音を立ててとぐろを巻く。ぐんと、首輪が重くなったように感じた。
夢にまで見た『ご主人様』だ。それなのに、一向に緊張が解けない。恐怖が去らない。喜べない。
寝台の上に押し倒される。ギースは、リツの首筋を、鎖骨を、胸を、臍を、足の付け根を、丹念に舐めていく。
(可愛いと、思ってくれている?)
やがては、手がリツの中心を掴んだ。萎えたそこを、まるで、モノでも扱うように上下に振られ、ますます、顔が赤くなる。
「はは、これはこれは。子どものようだな。発情期はもう何度目だ? 初めてではないだろうに。なんだこの色は」
ギースの言葉を、リツはよく理解できないでいた。ただ、その扱い方は、まるで珍妙な玩具をからかうようで、軽んじられていることだけはわかった。
「ご、ご主人様」
甘えたい。抱きしてほしい。たくさん、頭を撫でてほしい。全部、もし自分を買うような新しい主が現れたら、してほしいと望んでいたことだ。
ギースは、眉間に皺を寄せた。
「誰の許可を得て、声を出した?」
血の気が引いた。身構える前に、頬を殴られ、息が詰まる。「やはり、もう声がわりはしているか」、そう不満そうに呟くのが聞こえた。
(ご主人様、ご主人様、ご主人様)
漏れそうになる嗚咽を、歯を食いしばり堪える。
例え、新しい主が出来たところで、もう誰も、自分を愛してなどくれないんだ。いよいよ、リツの全身を恐怖が巡った。
(怖い)
ギースの手が、また動き始める。尾の付け根に触れられ、「ひうぅぅ」と堪えきれない声が漏れた。また、今度は逆の頬を殴られ、小さく身体を丸める。
太い指が、リツの後ろの穴の入り口をつついた。
(怖い、怖い)
ツプと、窄まりが無理矢理こじ開けられる。リツは自分の手で口を押さえ、声を抑えた。
そのときだった。
「ギース様、夜分に申し訳ありません」
扉の外側が騒がしい。
「お待ち下さい!」
「もう主は休んでおられます!」
「ゲルニア様!」
リツは、大きく目を見開いた。
覆い被さっていた身体が、慌てた動作で離れる、それと同時に、勢いよく扉が開いた。涙で歪んだ視界の中、彼がいた。
昼間とは異なり、黒の外套を羽織っている。
銀の髪は、わずかに乱れていた。
「ゲ、ゲルニア」
「……どうも、こんばんは、ギース様。お楽しみの最中、お邪魔してしまい申し訳ありません」
悠然と腕を組み、ゲルニアは扉の枠に背を預けた。
「そちらは、店で見たナゴ族ではありませんか」
「こ、これは」
「傷を負っていますね。ナゴ族への暴力は禁じられていたはずですが、はて」
「ゲルニア、話を」
「ギース様がそのような、法を犯すような真似するわけがありませんし、私の記憶違いでしょうね」
にこりと、青の瞳が細められた。
笑っている。笑っているはずなのに、こちらへ寄越される視線は刺すように鋭い。リツの背筋を冷たいものが流れ落ちていった。
ゲルニアは、まるで台本でも読み上げるが如く、なおもスラスラと言葉を続ける。
「いえね、こんな夜更けに、わざわざ尋ねる程の用事ではなかったのですが、少し書類で確認したい部分がありまして。たまたま、昼間の店の主に会ったら、ギース様がまだ起きていらっしゃるとのことだったので。その場の勢いで来てしまいました」
「ゲルニア!」
ギースの荒げた声に、場の空気が凍り付く。ゲルニアはゆっくり、口を閉じた。それに伴い、笑みが消える。
ギースは、寝台から身体を起こし、ゲルニアと向かい合った。
「何が、目的だ」
「彼は私が買い受けます」
「彼……?」
しばらくの沈黙の後、ギースの目がリツの方へ向けられた。
「このナゴ族のことか!」
「はい」
ゲルニアは姿勢を正すと、ゆっくりとした足取りで寝台の方へと近づいてきた。途中、腰を屈め、リツの首もとからギースの横を通り、床へと垂れていた鎖を持ち上げる。その揺れに、リツはびくりと身体を起こした。
「おいで」
ゲルニアの言葉に、鼓動が早まる。決して無理に鎖を引かれてはいない。言葉尻も強くはない。けれど。
リツは、衝動のままに、寝台から降り、ギースの元へと駆けていた。傍に寄ると同時に、ゲルニアの羽織っていた外套が、リツの身体を包み込んでくれる。
丈の長い外套は、リツには裾を引きずるほどだった。高い襟が頬を掠める。
(暖かい)
意識する間もなく、涙が落ちていた。
「鍵を」
ひっくと揺れる肩を、ゲルニアに抱き寄せられ、更に嗚咽が酷くなる。自分でもこの状態が制御できず、目線だけはきょろきょろと戸惑いに彷徨った。
ギースは、舌打ちと共に、己の衣服の内側から小さな鍵を取り出し、ゲルニアに投げ寄越した。
「顔を上げて」
ゲルニアに促され、首を晒す。間近に飛び込んできた整った顔に、目を見張った。だが、それも一瞬。カチリという小気味よい音とともに、鉄の輪が床に落ちた。ゲルニアの息づかいが離れていく。
「では、これで。おやすみなさい」
ゲルニアの掌が、外套越しにリツの背中に触れる。
そっと押され、前のめりになりながら歩き出した。部屋を出た途端、ひやりとした空気が、リツの足から奥へと入り込んできた。
「ごめんね」
危うくまた悲鳴を上げるところだった。ひょいと膝裏に手を回されたかと思うと、横抱きにされた。「首のところに手を回して」、そう言われ、従う。
階段を降り、玄関を出る。
待っていた馬車に、そのままの状態で乗り込んだ。
バクバクと心臓が、壊れたように高鳴っている。どうしてだか、頭がぼんやりしてくる。いや、リツにはこの状態変化の理由がわかっていた。
こんなときに、と思う。
(発情期)
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