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ふれて〈1〉

「おまえ、そういう顔するとつけ込まれるよ」  あなたにならつけ込まれてもいい……とは、言えなかった。  手の甲の上を辿る骨ばってごつごつとした男の手。その大きさや粗野な感じからは全く思わせぬ繊細さで、指は柔らかに皮膚の表面を行っては戻る。  産毛の流れを整えるほどにしか圧を感じさせないソフトなタッチが、必要以上に受容器官を敏感にさせる。何度も、まるで愛しむかのように、時に節を過ぎて指を撫で、時に手首を過ぎて袖口から侵入する。  人の厭らしさを感じさせない単なる嗜好を示すその動きは、それでも性的なものを匂わせる。触れられたところから熱が伝わり、体の芯を震わせる。さわさわと肌が粟立ち、ぐずぐずと沸き立つ欲に胸が騒ぐ。  もっと、もっと触れて欲しい。  肌にばかり熱っぽい視線を注いでいた男は、一瞬(わたる)の顔を見て、先の言葉を発した。自分がどんな顔をしていたのかわかる。恍惚を必死に隠しながら溢れさせ、誤魔化せる程度に先をねだるあからさまな顔だ。  男の誘い方など知らない。あなたになら付け込まれたい。少し。もう少しだけでいいから先へ連れて行って欲しい。 「その首筋」  ドキリ、と胸が大きく鳴る。 「そこも皮膚が薄くて手触りが良さそうだ」  今はもう、顔ではなく襟元にまっすぐ視線が当てられている。射すくめるような視線に、思わずごくりと喉が鳴る。  指の感触をなくした手は途端に物足りなくなるけれど、ゆっくりと首筋に近づく男の手を見ながら、その手が与えてくれる溶けるような刺激を期待している。血管がひどく大きく脈打ち、さざめく肌は指が触れる瞬間を待っている。  + + +  古いアパートの一室にあるアンティーク雑貨店に大槻渉(おおつきわたる)は三ヶ月程前から足繁く通っている。大学に通うために見知らぬ街で一人暮らしを始め、熱心に勉強するでもなくサークル活動やバイトに明け暮れるでもなく、暇を持て余して通うのが小さな骨董屋とは自分でも少し変わっていると思う。  他に面白いことでも見つかれば別にこの扉を押すこともない。ただ毎日が退屈なのだ。そう思うのはなんだが言い訳がましく感じた。 「渉、今日の夜って空いてない?飲み会あるんだけど、女子が渉も誘えって。たまにはつきあえよ」 「ちょっと今日は…次は行くから早めに誘ってよ」  大学でも飲み会に誘われるくらいには、適度に友人関係を保っているつもりだ。授業の移動や昼もいつもひとりというわけではない。  ただ今日は、三日も意図的に間を開けてショップに行くつもりだったから、予定を変えたくはなかった。  たかが三日。意図的?何を目的に?細かいことを考えるのはよそう、それが最近渉が出した結論だ。居心地がいいのとも違う、ただ惹かれている。あの魅力的な場所に。    大学に入学してすぐの頃、メイン通りから外れ少し入り組んだ所に、錆びた螺旋の外階段が目立つ古い二階建てアパートを見つけた。知らない街を必要な生活雑貨や本を買い揃えるために歩き回っていた時だ。住人はいないらしく、どの部屋も小さなショップになっていて看板やら花やらで個性的に彩られている。  ひとつずつ看板を見ながらドアの前を歩いた。服屋、雑貨屋、ネイル、フラワーアレンジメント、いろんな店があるものだ。今まで考えたこともなかったけれど、ショップという形も表現のひとつなんだなと思いながら螺旋階段を登り、二階の一番奥までたどり着いた。扉には『アンティークtoucherトゥシェ』と、他のどの店よりもシンプル限りないプレートが貼り付けられているだけ。  アンティークなど全く興味がなく、どんなものが売っているのかも想像がつかない。でもせっかくここまで来たのだからひとつくらい店に入ってみようと思った。  鉄の扉は入るのを拒否するように手にやたら冷たく、重く感じられる。ショップなのにこれでいいのだろうかと思いながら、ドアの隙間からこぼれ出る馴染みのない外国のような空気に、気持ちは既に引き寄せられている。  中に入り扉を閉めると、突然訪れた暗さに目が慣れなくて不思議な感覚を味わう。窓を潰すように棚が置いてあり、日中にも関わらずオレンジ色の間接照明だけでやっと明るさが保たれている。棚やテーブルには所狭しと小いさな物がごちゃごちゃと並べられていて、どこから見始めていいのすらわからない。  ぼんやりとした光に照らされ、幾つものオブジェが浮かび上がる。繊細な彫りが施されたブロンズのフォトフレーム、シルバーのクロスと緑の石がついたネックレス、装飾文字が並ぶ色あせた紙切れ、花や鳥の絵が散りばめられたプレート…それらの全ては、単に綺麗だとは思えない魅力があり、なんとも怪しげに目に映る。どれも古びていて、どこか欠けているか汚れているか。  触れると壊してしまいそうで、何にも手を伸ばせずにいた。 「いらっしゃい」  奥から響いた静かな男の声に、びくんと肩が跳ねる。  他にアンティークショップなど知らないが、店主が男であることが渉には意外に思えた。  歓迎するでもなく、無感情でもない、低いトーンの声。童話の中ならきっと、誘われたって覗きに行ったりなどしてはいけないシチュエーションだ、物珍しい雰囲気にすっかりのまれてそんなことを思いながら、店主の顔を見なくてはという妙な使命感に駆られる。  突然降って湧いた小さな非日常に、必要以上に好奇心が搔き立てられていた。  棚やテーブルの間は狭く、陳列している物に触れたりしたら落としてしまいそうなので、注意深くゆっくりとしか奥に進むことができない。ガラスや陶器製のものが乱雑に重ねられているのが崩れてきそうで怖い。服の裾やバッグに気をつけながらジリジリと足を踏み出し、小さな店なのに時間をかけてやっと目的の声の主を見ることができた。  レジカウンターの向こう側に座っている男は、何か作業をしているらしく手元に視線を落としている。スタンドライトに照らされ、オレンジ色の光の中に浮かぶ横顔は、彫りが深く綺麗に陰影がつけられている。  数々のオブジェと同じように仄暗い中に佇んでいながら、男がいる場所だけがほわっと熱を持っているように見えた。それは店の中で一際明るく照らすライトのせいだとわかってはいても、静寂の中で僅かに心を波立たせた。  渉が見ているのに気づいたのか、手元から顔を上げこちらを見る。  店の雰囲気も相まって、おそらく『色気』というものを妙に漂わせる映画俳優のような男だった。主役ではなく脇役。ウエーブの掛かった長めの髪が顔にかかりアンニュイに見せているのに、黒目部分が色濃く大きい目やしっかりした顎から気が強そうにも窺える。  おそらくとてもお洒落で文化系の店を営んでいながら、それにはそぐわない体育会系の男らしい体格。広い肩に纏われた、よれっとしたシャツが適当な性格を匂わせる。いろんな意味でアンバランスで、のんびりとしたこの街ではどこか浮いてしまいそうな気がした。  大学にも立ち寄る他のショップにもこんな雰囲気を漂わせる人はいない。 「どうぞ、ごゆっくり」  一言投げかけ、すぐにまた手元に目線を落とす。それだけでどきりとした。 「聞きたいことがあったら何でも聞いて」 「はい」  こちらも見ずに発せられた言葉に短く答え、男から視線を逸らして雑貨が並ぶラックに目を向ける。しんと眠るように収まった雑貨を見ても、ずっと奥に佇む店主の存在が気になっていた。

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