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窮地

「現時点での死者は二九三名、負傷者は四〇七名、本隊に救援要請の伝令を送りましたが返答はありません」 「……そうか」    部下からの報告を耳にしながら、フリードは怒気のこもった深い嘆息を漏らした。卓に肘をつき組んだ両手に額を乗せ、反応を見せない兄たちへの呪いを深めた。   「五日前に到着する筈だった補給物資は?」 「まだ届いておりません」 「今ある分だけであと何日持ちそうだ」 「切り詰めても三日でしょう」 「三日……ここが攻め落とされるのと俺たちが飢え死ぬのと、どっちが先だろうな」    悲観的な皮肉を口にすると部下の男は所在なさげに口を開閉させた。舌打ちでもしたら怯えてしまうだろうか。  兵糧を送り届ける。兄が送って寄こした伝令兵の口からそう聞いたのは随分と前のことのように感じた。日々死亡者は増え、兵糧を消費する兵士の数は減っているといえども、飯が十分になければ敵とは戦えない。実際、兵士たちの士気は徐々に低下してきている。  椅子から立ち上がり幕営の幕から外を見やると、本陣に控える兵たちには悲観的な雰囲気が漂っている。山頂に陣取って十六日が経過した。隔日で防衛戦が突破されたという知らせが飛んでくる。明日には敵がやってきて自分たちは死ぬかもしれない。鬱々とした空気が気力を削いでゆく。   「退くべきだな」    それすらも遅すぎる判断だが。ぽつりと呟くと部下は「撤退……ですか?」と戸惑ったように聞き返した。   「飯もねえ、増援もねえ、こんなジリ貧の状況で戦えと? これ以上山頂に留まって死者は出せねえ。本隊の指示がなかろうが関係ない」  つり上がった金色の目で部下を睨めつけるとフリードは再び外の様子に目をやった。深い谷底に囲まれた山頂は夕日に照らされ血色に輝いている。  敵地を攻略するこの戦で、山頂に布陣しろと命じたのはフリードの兄たちだった。確かに山頂は敵の布陣が一望でき優位に立つことができる。戦いが始まった当初は投擲で敵の小隊をいくつか殲滅した。谷底を行く部隊に奇襲をかけた。その状況も、士気と兵糧が満ち足りていたからこそだった。   「日が落ちたら荷物をまとめろ。夜間に後方の橋から退却する」 「承知しました。各部隊に伝えます」    簡潔に命令を出し、幕営を出て行く部下の後ろ姿を見送る。   「クソ兄が……」    フリードには母親の異なるふたりの兄がいる。彼らは人狼族のコールマン家当主である父と、同じく人狼の正妻の間に生まれた。フリードは彼らと同じ父親と、人間の母から生まれた。混血を忌み嫌う兄たちはフリードのことが疎ましいようで、戦のたびに足を引っ張ろうとするのはもはや恒例だった。フリードを嫌う理由はそれだけではないだろうが。  人狼族特有の褐色の肌と金色の瞳。人狼族としてはフリードは半端者だが、その特徴は受け継いだ。自分の肌の色を見ると時々忌々しい気分になる。あの兄たちと同じ色なのだ。   「伝令!」    声高にひとりの兵士が駆け込んできた。先程部下を見送ったばかりだというのに、今度は何の報告か。慌てた様子の男を見ると良い報告ではないことは確かだ。   「どうした。物資でも届いたか」    絶対にあり得ないことを口にして、自分で鼻で笑う。天地が逆さまになってもあり得ないだろう。   「あ、いえ……そうだったら良いのですが……その」 「何だ。悪い報告は早く言え」 「橋が破壊されています」 「……は?」    自分でも間抜けな声が出た。橋が破壊されている? そんな馬鹿な。   「それは悪い冗談か? 退路を破壊された?」    苛ついた様子を隠さずに伝令兵の言葉を反芻すると、男は臆しながらも頷いた。  唯一の退路である橋は、フリードが今いる本陣の後方にある。それが破壊されたということは敵は背後にいるということだ。しかしそれは地形上確実に不可能なことだった。   「あいつらか……」    捻り出した声は自分で思うよりもずっと低い。地を這うような声を聞いた伝令兵は狼狽した様子でフリードの指示を待っている。  本陣の後方には次兄の一部隊が退路を警備していた筈だった。認めたくないが可能性は彼らにある。  顎に指を置いて思案していると、またひとりの兵士が飛び込んできた。今度の悪い知らせは何か、辟易して視線だけで問うと兵は息せき切りながら叫んだ。   「ほ、本隊が……撤退を始めたようです!」    大慌ての伝令兵の様子を窺い知った本陣の兵たちが、徐々に騒然とし始める。味方の撤退。その絶望的な言葉がにわかに広がる。  危惧はしていたが、最悪だ。 「単純に逃げたのか、それとも最初から俺を置き去りにする策だったのか……」    山頂の南側麓に陣を置く長兄の軍、東に出た次兄の軍。彼らの動向は山頂のフリードの部隊からは簡単に窺い知れる。そのどれもが撤退を始めたのならば。山の上に布陣しているフリードの軍は完全に孤立したことになる。   「我々コールマンの軍が撤退を始めたのは敵も知るところだろう。山頂の俺たちが退こうが退くまいが、敵は布陣を一望できるこの場所を奪取しに来ることに変わりはねえ。そして俺たちは退路を失った。おそらく橋を壊したのは味方だろう。……どういうことかわかるな」    目の前の兵に鋭い眼光で問うと、男は乾いた唾を嚥下してから口を開いた。   「う、裏切られた……ということでしょうか」 「連中……兄たちは俺の軍を見殺しにしたいらしい。……だから山頂に陣取るのは嫌だったんだ」    山頂には確かに利点があるが、不利もある。ひとつは、補給物資の調達が分断される可能性が高いということ。もうひとつは、退路を塞がれた場合に味方から孤立してしまうということ。兄たちとの共闘でこれらが保証される確信がなかったフリードは、山頂に布陣せよという命令に疑念を抱いていた。  そして不安は現実となった。   「どうしますかフリード様」 「どうするも何も、他に行くところなんてない。戦うしかねえだろ――」    その時、甲高い馬の嘶きと兵たちの悲鳴が、地鳴りのように響き渡った。いくつもの馬蹄が地面を蹴る低い音が、足の裏を通して伝わってくる。   「一気に山道を突破してきたか。味方の撤退に動揺している兵たちを蹴散らすのはたやすかっただろうな」    誰かによって描かれたような、完璧な敗北。失望を通り越してもはや愉快に思えてきたフリードの口角は不自然につり上がる。   「フリード様、お逃げください!」 「どこに逃げろって言うんだよ」    笑みを浮かべたまま歩き出し、幕営の外に出た。山肌を赤く染めていた日はほとんど姿を消して、辺りは薄暗く陰っていた。兵士たちがどよめく中、山道から駆け上がる軍馬の群れの影が見えた。  嶮しい山道をひといきに駆けてきた最初の馬は、一声嘶いてその場でくるりと回ると、その逞しい首をフリードの方へ向けた。   「貴様がフリード・コールマンか!」    真っ白な毛色の馬に跨がったその人物は、軍勢の中ひとりゆったりと構えるフリードの姿を見つけ、声高に叫んだ。黄昏の中よく見えないが、その張りのある声音は若い男のものだ。  彼はフリードの姿を捉えるや否や、鈍く存在を放つ剣を横に構えこちらに駆け出した。   「――死ね!」 「いきなり殺すつもりかよ」    激情も露わに、兵たちを撥ねのけながら突撃してくる青年が剣を振りかぶる。ろくな死に方をしないだろうと自分でも思っていた。兄たちの思惑通りになるの非常に腹立たしい、それだけが唯一で最大の後悔だ。  フリードの首筋を狙った太刀筋が一瞬煌めく。   「早まるな、ツチラト!」    別の男の諫める声で、刃の動きがぴたりと止まった。    

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