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仇敵

 フリードの頭の上で止まった剣先が僅かに震える。馬上の青年は耐えいるように顔を歪ませ目を伏せると、掲げたままの剣をゆっくり下ろした。制止の声を発した男が芦毛の馬で近づいてくる。山道からは敵の歩兵部隊が続々と押し寄せ、味方の兵士たちは抵抗する術もなくただただ放心し立ち尽くしていた。   「ツチラト、主君の命を忘れるな」 「……わかってる」    男の諫めに対して青年はふて腐れたような語調だった。耳にかかるほどの長さの金髪の青年は、少年から抜け出たばかりという若さで、戦慣れしていない様子が窺えた。二九になるフリードよりも十ほどは下だろう。フリードがその年の頃には既に前線でいくつもの武功を挙げていた。   「どうした、俺を殺さないのか。そんな悔しそうな顔をしているくせに。殺すなとでも言われたか」  唇の端をつり上げて露骨に挑発してやると、青年は少し目尻の垂れた目を尖らせてフリードを睨めつけた。  彼の目には憎悪の塊が見えた。殺したくてたまらない。仄暗い憎しみの炎が燃え上がっている。   「黙れ、王を殺した卑しい一族が。死よりも苦しい目に遭わせてやる」    息も荒く吐き捨てた青年は馬の首を向きを変え、フリードに背を向け手綱を引いた。もうひとりの左目に大きな裂傷が走った男は、残された右目でフリードに侮蔑の視線を投げた後、部下の兵士に捕縛を命じた。  敵の本陣に連れて行かれるのだろう。フリード及び兵の処遇はそこで決まる。いつでも死ぬ覚悟はできている、訳ではないが、いつ殺されてもおかしくないということだけは心得ておかねばならなかった。フリードは彼らが悪とする一族のひとりで、その一族の総大将の息子だ。  縄で腕と身体を拘束され馬に乗せられた。青年を諫めていた隻眼の男が並走し、フリードの様子を見張っていた。警戒しなくても逃げ出すことなど不可能なのに。同じく捕縛された兵たちも縄をつけられ、敵陣まで延々と歩かされた。フリードが敵本陣の軍営に連行されたのは、闇も深まった真夜中だった。  幕営の最奥の椅子に腰掛けた男の姿が、松明の炎によって照らされている。白髪交じりの栗毛の髪を束ね、皺の刻まれた厳格な顔つきの男こそ、フリードが敵対するガーランド家の当主、カーター・ガーランド公だった。   「お前がコールマン家の三子、フリード・コールマンか」    外見に等しく老成された渋い声が、その眼前に跪かされたフリードにかけられる。カーターの左右にはフリードよりも年上らしい男女がひとりずつ控え、裁きの様子を窺っている。拘束された身体の背後には、相も変わらず穴が空くほどの苛烈な視線を向ける青年の目と、彼の目付役らしい隻眼の男の存在を感じる。   「違う……と言ったら逃がしてくれるのか?」 「貴様は先の戦でも此度の戦でも、我が軍に大きな損害を与えてくれた。ここで貴様の処遇を決めねばならん」    軽口を無視したカーターは不意に視線をフリードの背後にずらしたが、言葉だけはフリードにかけ続けた。   「我がコールマン軍に投降するならばその武力と戦力、受け入れよう。しかし投降しないというならば、貴様の命は散ることになる」 「その男を生かしておく必要などありません!」    若く張りのある、歪な感情の入り交じった声がカーターの言葉を遮る勢いでフリードの背後から発せられた。フリードの首を落とすことしか考えられない、わかりやすいほどの激情だった。   「先の戦で北征将軍を殺し我が軍を半壊させ、北の要塞を奪い取った男。そのような忌むべき仇敵を迎え入れる選択肢などありません。すぐに殺すべきです」 「落ち着きなさい、ツチラト」    カーターの左隣に控える黒髪の男が、窘めるよう静かに口を開いた。   「その男を殺したい気持ちはわかるが、もし利用できれば我々はコールマンに対し優位に立つことができる。それを踏まえ本人に選択を問うと決定しただろう」 「全会一致でない決議には従えません」    頑なな青年――ツチラトの言い分に、黒髪の男は聞き分けのない子どもを見るように嘆息した。おそらく何度も行っている問答なのだろう。   「恐れながら、私もツチラトと同じ意見です」    隻眼の男が口を開いた。   「そいつに利用価値があったとしても、です。生かしておくことに納得できない者が多い。これでは示しがつきません」 「その中にはお前も含まれる訳だな、グナイアス」 「当然です。生かしておけば一部の兵の不満は高まり、内に膿を溜めることになるでしょう。個人的に報復を行おうとする者も現れる筈です」    それは可能性というよりも、これから行う行為の宣言のように聞こえた。ツチラトの憎悪に隠れていたが、この男自身もフリードの首が落とされることを願っている。彼らの感情はコールマン軍の兵士に向けるものではなく、フリード個人に向けるものらしかった。   「それに、この者は我々と同じく由緒ある貴族家の子息。敵対する我々ガーランド勢へ簡単に下るほど落ちぶれてはいないでしょう。家を裏切るような愚か者が我が軍に必要ですか?」 「お前の言うことはもっともだ、グナイアス。しかしこの男を捕らえることができたのは、長い間劣勢だった我々ガーランドにとってまたとない好機。みすみす逃す訳にはいかぬ。その上、捕縛・降伏した敵の無条件の殺害は私自らが禁じたことだ」    グナイアスと呼ばれた男があくまで冷静に朗々と申し立てるのを、カーターは柔らかな声音で諫める。随分とお優しいことだ、とフリードは胸中で呟いた。 「お前たちふたりの事情も、気持ちもよく理解できる。しかし捕らえた敵を無慈悲に殺したところで、対立と憎しみを深めるだけだ。我々は将来を、大局を見て決断しなければならない」 「俺たちの事情がわかるのならどうして、俺の父を、あなたの友人を殺した男を生かしておけるのですか!」    ガチャリと甲冑が揺れる硬い金属の音。激情に駆られた声を上げてカーターの前に進み出たのはツチラトだった。堪えきれない感情で震える背中が視界に映り、フリードはツチラトとは対照的に自身の感情が急激に冷めていくのを自覚していた。   「慈悲をかける必要などあるのですか」    青年が自分に憎悪を向ける理由がわかった途端、鼻で笑いたくなるような白けた気持ちになる。それは当然、フリードのことが憎いだろう。身体を八つ裂きにして首を刎ねたいだろう。だが内乱が十年続く戦争に塗れたこの国で、誰かが誰かの父を、兄弟を、伴侶を、大事な人を絶えず殺している。  フリードは喉でかすかに笑い、閉ざしていた口を開いた。   「お前だって戦場で人を殺すだろう。お前は敵兵と対峙した時にその者の家族を思うか?」    地面に吐き捨てるように言うと、一瞬で場の空気はピンと固く張り詰め緊張を孕んだ。  カーターに向き合っていたツチラトがぎこちなく振り返る。壊れた機械が動くようだった。   「そんなことを考えていたら自分が死ぬ。自分が殺されないために敵を殺すんだ。そして殺す敵は自分では選べねえ。投降した敵兵の罪をいちいち問い詰めていたらきりがない」 「殺したくて殺した訳じゃないとでも言うつもりか!?」    ツチラトが声を張り上げて絶叫した。その深い水底の色をした目は血走り、端整な顔立ちは怒りに歪んでいる。鼻梁に寄せられた深い皺が顔面の凄みを増していた。松明の揺らめく炎は、日が落ちた山頂で見た時とは異なりはっきりと、彼の顔立ちが美しいことを表している。顔が美しい者の憤怒の表情は迫力がある。   「もちろん殺すつもりで殺したさ。おたくの北征将軍の首を取るのが俺の役割だったからな。それがたまたま誰かの父親だろうが、俺には関係ない。自分じゃ選べないってのはそういうことだ――」    冷たい土についていた膝が僅かに持ち上がる。ツチラトに襟首を毟るように鷲掴まれたフリードは、仇を憎む青年を金色の目で下から睨め上げた。   「俺はお前の父親を殺したのではなく、ノート要塞を守備していた北征将軍を殺しただけだ」    フリード自身、戦場で味方が死ぬ度に傷つくような柔な感情はとうの昔に捨てた。身内が殺されようと、親しい友人が殺されようと、優秀な部下が殺されようと。   「武人ならば自分が殺される覚悟も、親しい者が殺される覚悟もしていなければならない。戦ってのはそういうもんだろう、クソガキ」 「ッ……!」    フリードを見下ろすツチラトの顔が赤く染まっているのは怒りのためなのか、爆ぜる松明の炎のせいなのか。目だけで殺すことができるのならばフリードはとっくに殺されているだろう、それほどの苛烈さを孕んだ視線がフリードの皮膚を抉る。彼の青さを嘲笑うように唇から息を漏らすと、固く湿った地面に身体を叩きつけられた。  砂を躙る音とともに、ツチラトの足が遠ざかってゆく。出入口の幕が捲り上げられる衣擦れの音がした。     

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