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第35話 失恋なのか?
ベッドの上で膝を抱えていると、いつの間にか窓から見える空の青が澄み渡っている。
強風が分厚い雲を蹴散らして行ったのか、窓を開けて見る気にはなれないが、そんな気がした。
ふと、サイドテーブルに置いた携帯を手に取ると、正臣からのメールがきていないか確かめる。
が、すぐにそれが虚しい事だと気づく。
正臣は初めの予定通りに戻って行ったんだろう。
一週間。俺がアイツに一週間置いてやると云ったんだ。それを守っただけの事。
立ち上がってキッチンへ行くと珈琲の用意をする。
いつもの様に、ひとり、珈琲豆を挽くといい香りが部屋中にたち込めて、出来上がるまでの間、目を閉じていた。
鼻孔を抜ける香ばしい香りに癒される。そんな朝を迎えていた筈なのに、頭の片隅にはベッドからのっそりと起き上がってくる正臣の幻影が見えている。幻影と知りつつも、フッと口元が緩んでしまうと、コーヒーカップを持つ手が震えた。
---失敗した。
あの日と同じ気持ちになって口から出た言葉。でも、違った。同じ気持ちじゃない。それ以上に悔やんでいるんだ。
俺の身体と心に落された物の大きさを自分でも分かっていなかった。
この気持ちはもう、何処へも届けようがない。ずっと俺が大事に持っているしかない。
そんな事を思ったら、頬を伝う暖かい滴がとめどなくテーブルに落ちる。
肩を震わせて、嗚咽を漏らしても誰にも咎められない。ひとりの部屋で思い切り声をあげて泣いてしまっても、誰も気づかないんだ。
――――
夕方までぼんやりとやり過ごし、せめて何か口に入れなければと、冷蔵庫を開けてみるが何もない。
仕方なく洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分の顔を見るが、瞼は少しだけ腫れていた。
どのみち俺の顔を見る奴なんていないし、と思って出かける事にする。この部屋に居ると余計に惨めな気持ちになってしまいそうで。
この前大原さんが連れて行ってくれたバーへ行こうと、美容室の近くを横切って歩いて行く。
繁華街は、平日なので人も疎ら。それに週の初めの日だし、サラリーマンは大人しく帰宅するんだろうな。
見かけるのは俺の様なサービス業の人ぐらい。それと、暇な大学生か...............。
ビルの地下に降りて行くと、赤い扉の店を目指した。
ほんと、この扉の色だけ見たらなんだか入り辛いよな。ちょっと中が伺いしれないというか.............。妖しい客とか居そうな雰囲気だ。
少し重いドアを押しやって中に入ると、その先に例の髭のマスターが居た。
「あ、この前の。........ハルミ君、いらっしゃい。」
ニコリと微笑むと、俺の名を覚えてくれていて、でも、ちょっと違うんだけどな。
「こんばんは。」
ちょこんと首だけ下げて挨拶すると、カウンター席に座った。
周りには数人の男性客。それぞれに連れがいるみたいで、特に俺に目をやる人もいない。
ホッとしてメニューに目をやる。
「今日は店休みか、火曜日だもんな。.......お腹空いてる?」
そう訊かれ、はい、と笑みを浮べて返事をした。
なんとなくこの前も感じたが、妖しい感じの中にも優しさが滲み出している様な人。ちょっと綺麗で怖そうで、でも何処か悲し気な瞳をして笑う。
「良かったらさ、ビーフシチュー食べなよ。フランスパンをくり抜いて中にシチューを入れて焼いたものなんだけど。ワインと合うよ。」
「...........シチュー、なんてあるんですね?!是非いただきます。朝から何も食べてなくて。」
俺はちょっと驚いて、目を丸くしながら注文する。バーでシチューが出てくるとは思っていなかったから.....。
「オッケー、ちょっと待ってて。」
そう云うとワインをグラスに注ぎ、すぐにしゃがみ込んで何やら用意をし始めた。
「.........何?食欲がなくなるぐらい嫌な事でもあったか?」
姿はカウンターに隠れて見えないが、声だけは俺に話しかけてくれてて。
なんだか変な気持ちになった。
顔を見ないで人と話すのは、変な話、ひとりごとを言っているようで、素直な気持ちで言葉が出てくる気がした。
「告る前に失恋。みたいな感じですかね。」
自分で言って笑ってしまう。なに報告しているんだよ、って。
「......失恋かぁ、......。ハルミ君でも失恋しちゃうんだ?!可愛くて放っておけない感じなのに、ね。」
「それは、.......有難うございます。でも、自分が好きだから相手も好きになってくれるとは限らないですからね。」
マスターの言葉に真面目に答えてしまうと、ワインに口を付けた。
酸味が一気に咥内へ広がる。と同時に、何やらいい香りがカウンターの向こうから漂ってくる。ビーフシチューの香りだ。
「はい、お待たせ。」
カウンターから顔が出て来て、何やら白い皿に盛られているモノに目が行くと、おもわず「うわー、美味そう!」と声が出てしまう。
まあるいフランスパンを皿の様にくり抜いて、その中に入っているビーフシチュー。
本当に簡単な感じなんだけど、少しだけ口に入れるには丁度いい量だった。
「いただきます。」
早速スプーンで掬うと、アツアツなシチューを口に入れる。
ほんの一口、それがこの世の幸せの様に感じたのは何故だったんだろう.......。
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