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 男は、日がな一日邸宅に居た。  襖一枚隔てた隣で男がいつも書を読んでいたことに、今まで気がつかなかった。  僕は昼間そっと、男がまた吐いてやしないかと伺う。  襖に背を向けた男はじつと動かず、時々、書のめくれる音が微かにする。  「ヨウ」  男が背中越しに僕を呼んだ。  確かに僕には名前が無くては不都合だった。  僕は黙って男の背中に寄り添った。  呼ビマシタカ。  僕は彼の背中に指先で文字を書く。  「貴様はヨウという名なのか」  アナタガソウ呼ブナラ。  僕の指先がそう言うと、彼の手が後ろ手に伸び、その手を捕らえた。  着物から突き出た手首が軋んだ。  強く引かれて彼の胸に落ちた。  鼓動の音だけ、耳に響いた。  まるで、想い合い、何年も連れ添った恋人同士のようだった。  僕は彼の逞しく、薄い胸に寄り添う。  彼の目が欄間を見た。  二葉の遺影が此方を見ていた。  気恥かしさが、胸中に漂う。  将校殿は相変わらず凛とした顔で、正面を睨んでいた。   少年兵の遺影の目が、険しい、厳しい。  まるで、僕を咎めている様だった。  僕は薄ら恐ろしくなって、彼の着物の合わせを握った。木綿の着物は僕の掌でくしゃくしゃになる。  彼はそれに気がついたらしく、僕の視線の後を追う。  彼は、じつと、写真の中を眺めていた。  「俺は死んだのだ」  意味深げに零れた言葉は、僕に疑問だけ投げかけた。

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