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1.鬼課長、部下に弱みを握られる。

 気分が悪い。  気分が悪いのはこの満員電車のせいだけではない。  俺の名前は『難波 蓮(なんば れん)』。都内大手デザイン会社で課長を務める、学歴からエリートな淡い色の髪に眼鏡をかけた二十八才だ。朝活というか朝から人以上の仕事をこなすため、八時三十分までに出社するべくして俺は、八時の満員電車に毎日乗って出勤している。その八時の便に、変質者がいるのだ。 (まただ、また……)  その整髪剤のにおいはいつも、俺が電車に乗った二駅先から近づいてくる。俺の自宅マンションから会社までは六駅。四駅分、俺はいつもその変質者の『行為』に耐えている。俺の茶髪に隠れた耳元に、整髪剤の匂いは近づいてきて低く囁く。 「蓮くん、今日も来てくれたんだ」  いつか俺の鞄から勝手に名刺を抜き取って、俺の名前を知っているそいつは俺のことを下の名前で呼ぶ。嫌悪感にぶるっと震えると『もう期待してるの?』と見当違いな台詞が聞こえて眩暈がする。 「ひっ……」  上ずった、情けない声を上げる。スーツ下の尻が、ごつごつした手に揉まれ始めたのだ。そう、変質者とはゲイの痴漢である。俺だって別に性的マイノリティーに偏見があるわけではないが、痴漢は、これは立派な犯罪だ。俺なんかスーツを着ているしそれなりに背もあるし、顔は美人といわれるけれど女と間違えられるはずもない。それにこいつは……俺の胸元、スーツの襟元から手を突っ込んで、俺の乳首をスリスリと擦ってつねることもするのだ。ぺったんこなそこは女性とはかけ離れていて、少しの胸筋はあるがそれもいいように揉みこまれて、俺は、そう俺は、忌々しいことに股間を反応させてしまう。 (どうして、どうして! 気持ち悪いっていうのに、)  男の体は正直だ。数年間恋人もいなくてご無沙汰で、欲求不満というのもあるのかもしれない。スーツの中、下着の中の股間がぐぐ、と持ち上がって、俺は『はあ』と甘い息を吐く。シャツの上からとがった乳頭をコリコリコリ、と指先で遊ばれて、ぴくぴくと身体を反応させる。痴漢はいつもそれに気をよくして、俺にまた囁きかける。 「おっぱいが気持ち良いの? 蓮くんは変態だね、」  返事はしない。ただ俺は四駅分、ねちっこいことに股間をじかに触ることは決してしないこの、顔も見えない背後の痴漢の『行為』に耐えるのだ。だって、俺はエリートサラリーマン。完璧主義者で部下にも厳しく、仕事熱心で有名な鬼課長だ。女性専用車両と分かれて男ばかりのこの車両で、そんな俺がどうして『痴漢です』なんて他人に訴えられようものか。だから、耐える。いつかこの変質者も、俺に飽きて別の被害者を探すだろう。そう思ってもう一か月になる。こいつは全く俺に飽きる様子もなく、俺の身体を弄び続ける。スーツの上から尻をもんでいた手が、腰が細くて締めきれていないベルトの隙間から中に入ってくる。『きた!』と俺の内心。痴漢は俺の、尻の穴まで良いように撫ぜてくるのである。さんざん撫ぜて、浅く入り口をツプツプと出入りさせて、俺の身体を男の指に慣らしてくる。いつか、いつか俺はこの男に抱かれてしまうのではないか。そういう恐怖にまた震えると、やっぱり『お尻で感じてるんだ』と見当違いな声。誰かにばれてはいけないと思いつつ、やっぱり誰かに助けてほしくてパッと皆に美人と言わしめる涙顔を上げて隣を見やると、すでに俺が痴漢の魔の手にかかっていることに気づいていたらしい中年が、俺と合った目をすぐに逸らす。 (気が付いてやがる、)  そりゃあそうだ。スーツの前に手をまわして、胸だって弄っているんだから。狭い満員電車でごそごそ活動する男のことを疎ましく思うことだってあるだろう。逆となりも見やる。やっぱり顔をそらされる。というか、こいつら、見てやがる。俺が痴漢に良いようにされている所を、俺がうつむいている間は見学しているのだ。信じられない! 黙ってでも小さい声ででも、注意するとか止めに入るとか、選択はいくらでもあるだろう! わかっていて見学するだけ見学して、こいつらは痴漢と一緒の下衆野郎だ。思うと眼鏡の奥、涙がこぼれそうになる。でもけっして、本当に零すことはしない。俺にだってプライドがある。 「ひくっ」  ズプッv と、痴漢の指が深く突き刺さったその瞬間、俺が変な声を上げた次の瞬間であった。『いっっ!?』と背後の痴漢が痛ましい声を上げて、同時にズボンの中から手が抜き取られる。思わず初めて、恐ろしくて振り返ることのできなかった痴漢を振り返ってみると、そこには清潔感のある長身オールバックの中年男がいた……が、それ以上に。 「課長、なんで黙ってるんですか?」 「っ来栖」  その隣に、その中年男の腕をひねり上げている俺の部下、体格の良いムキムキ黒髪短髪の『来栖 久人(くるす ひさと)』が立っていたのだった。来栖は確か今年二十四の若者で、入社した当時はデザインの仕事に根っからの素人だった新人だ。来栖がますます腕を捻ると、痴漢が『いっただだだ!? おいお前!!』と声を上げるから車内はこっちを注視して、もう胸を弄られていた手も引っ込められている俺は少し乱れたスーツで暫し呆然と立っていて、来栖がへらっと笑っては周りに『あ、こいつ痴漢っス』と弁明している。だから俺は、やっとのことで、 「来栖! 目立つような真似は止せ!!」 「えーでも課長……次の駅で一旦降りましょう? こいつ駅員に突き出さないと」 「良いから黙れ! そいつには退場して頂け!!」 「ふーん、まあ良いですけど」  来栖が捻り上げていた腕を離すと、名残惜し気にオールバックは俺のことをねっとり見やって人波に紛れてどこかへ去っていった。『蓮くん、またね』との不穏な言葉を残した痴漢に来栖は豆鉄砲を食らったような表情をして『あれ?』と俺に疑問を呈してくる。 「課長、もしかして今の知り合い? プレイ中だったんすか?」 「そんなわけあるか。他人だ他人。いつか名刺を抜き取られて、名前を知られただけだ」 「それってやっぱり玄人の手口じゃん。やっぱり駅員に……」 「お前は俺の顔に泥を塗る気か」 「……男に痴漢されて勃起させてる変態ですって?」 「!!」  にやぁと来栖はいやな感じに笑う。前々からいけ好かない野郎だとは思っていたけれど、そのいけ好かない来栖はドア付近にいた俺を、ドアガラスにドンっと押し付けて近づいて、ちらっと俺のスーツの前を見下ろして笑う。 「課長、勃ってる。あいつも言ってましたよね、『おっぱい』と『お尻』で課長は感じちゃうんだぁ」 「お前……聞いてっ」 「この時間の電車に乗るのは今日が初めてですよ。ちょっと用事を言いつけられて、いつもより十分早く家を出たんです」 「……」 「そうしたら雑踏の中に、あまーい息遣いと中年男の低い声が聞こえてですね? 見てみたら息遣いの主が、なんとあの鬼課長だったじゃないですか」 「甘いっ……!?」 「しかも、ケツ弄られて胸揉まれて、小うさぎちゃんみたいに震えてるんですもん。吃驚しましたよ」 「震えてなんか、」 「嘘つき」  ドアガラスについていた片手を外して、俺よりずっと体格のいい来栖は俺の、細顎をくいっと上げて不敵に笑う。触れられるとばれてしまう、そう俺は今も、 「ほら、今だって震えてる」 「っ!!」  そう、会社でこのことを、来栖に暴露されるのではないかと震えているのだ。俺は長年かけて築き上げてきた俺の立場を、この新人に一瞬にして葬られるのではと、恐怖している。その様は来栖の言う通り、哀れなウサギのようで。だから来栖はその切れ長な目を細めて笑う。何度でも俺を笑う。だから、 「……今日のこと、会社の人間には、」 「会社の人間には、なんです?」 「頼む、来栖」 「だから、何を頼んでいるんですか、課長」  俺の白い頬を撫ぜながら、愛撫するように撫ぜながら来栖はにやにや笑いをやめない。眼鏡の奥の俺の瞳が、恐怖に震えているのを楽しんでいるようだった。みじめだ、俺はこんなにもみじめ。こんなことならもっと早く、電車の時間を変えるとか、痴漢を自ら駅員に突き出すとかをすればよかったのだ。これは致命的な判断ミスである。目をつむる。部下に懇願する。 「俺が、痴漢されていたこと。誰にも言わないでくれ、頼む」 「あれ? なんか違うなぁ」 「ひっ!?」  驚いて声を上げる。来栖に股間を握られたのだ。そこはもう恐怖に委縮してしまっていたが、来栖ににぎにぎと揉みこまれるとまた熱を持ち始める。さっきのことを思い出して、ずっとずっと直には触ってもらえなかったことを思い出して、俺の腰はがくがくと震える。来栖の低い、痴漢とは違うよく知った声。 「課長、どこをどう弄られて感じてたんでしたっけ」 「ぁっ……、あ! 来栖っ、や、やめっ」 「俺は課長が、どこをどう弄られて痴漢されてたことを黙っていればいいんですか?」 「ひぐっv あっ、はぁっ、やめろっ来栖……」  こもっていた熱が一気に発散されるようだった。来栖はダイレクトに俺の快楽を追ってくる。下着の中の先端から先走りが湧き出てきて、そこ、尿道口をスーツ越し、人差し指でぐりぐり弄られる。来栖は俺の制止を聞かないで、ごしゅごしゅ竿をこすり上げて先端を弄って止めない。その様子を、やはり先ほどから俺たちを注視している雑踏が眺めている。冗談じゃない! どうして俺は、いつも命令する立場の部下にこんなこと、周知のうちにされているんだ!? 恥ずかしい! 思うとなぜか、余計に性器が固くなった。 「ほら課長、早く言わないと課長、イっちゃうでしょう? いうまで止めませんよ」 「あっ、イっ!? はぁっ……v」 「ねえあなたは、どこをどう弄られて、どういう風に感じてたんですか?」 「はっv もっ……やめっ、やめろぉっ!? 俺、もっ、げんかっ……v」 「そっか、言えないならイっちゃいますか。ほらっみんなに見られて課長、イけっ!!」 「ひぐぅっv!!?」  ごしゅごしゅごしゅっv どぷっvv 「はっ……ぁ、」  瞳の奥にハートマークを浮かばせて、みんなに視線に犯されながら俺は、部下の年下の来栖青年に手コキをされて電車内で射精をしてしまう。ずっとだ、ずっとあいつ、痴漢の男は俺をイかせることはしなかった。性器を直接触ることをせず、焦らすように乳首を、慣れないケツ穴をこりこりと弄って俺を、こんな身体にしたのだ。そこにやってきた来栖が急に、自慰の際に触ることで慣れている性器を触って擦って俺を快楽に堕としたから。だからこれは俺のせいではない、あの痴漢の中年の、この部下の来栖のせいで。来栖が『あはっ』と明るく笑う。いつも部下たちの中心にいる、みんなの人気者のムードメーカーの来栖。 「課長、本当にイっちゃったんだ? 本当はあの痴漢にこうされたかったんじゃないの」 「ぁ、う……そんな、わけ、」  と、言い訳しようとしたところで会社の最寄り駅につく。後ろの扉が開きそうになるから来栖に車内側にいったん抱き寄せられて、扉が開いたら肩を抱かれて支えられ、車外に連れ出される。 「責任もって課長、今日は俺が会社まで連れて行ってあげますよ」 「っ、この……下衆野郎」 「あれっ、良いんですかそんな言い方。あの鬼課長が電車で痴漢待ちしてましたって言いふらされたいの?」  さぁっと血の気が引く。こいつ、人気者の来栖はそうとうな腹黒だ。それとも普段、俺にこき使われていたことへの腹いせなのか。いいやでも、俺だって部下に理不尽を働くことはない、なかったはず。鬼課長とは呼ばれているけれど、決してそれは理不尽さを揶揄されるものではなかったはずで。ぱぱっと肩を抱いた来栖の手を払って、気持ちの悪い下着の中を気にしながら俺は、立ちなおして来栖の隣を毅然と歩きだす。しかしその様子も、来栖からしたら面白さの種でしかないらしい。クク、とそのご立派な咽喉ぼとけを鳴らしては、にやにや顔で俺の毅然を眺めながら来栖は人波を歩く。 「そのなりで、中はぐちょぐちょなんだもんなぁ」 「……来栖、いい加減にしろ」 「みんな課長のことが大好きだから、特に女子なんかは喜びますよぉ?」 「はあ?」 「課長が男に弄られて感じちゃう、それどころかみんなに見られて射精しちゃうような変態だって知ったら皆」 「来栖!!」 「ハハッ、冗談っすよ。誰にも言いませんって」 「!!」 「でもその代わりに今日の昼休み、三階の会議室まで来てください」 「……会議室に何かあるのか」  会社のビル下までやってきて、中に入る前に俺は首をかしげて来栖を見上げる。それもこれも、後に聞くに来栖には『可愛い』仕草だったらしいのだがそれはいいとして、来栖は今度はからかうようにではない、セクシーな男臭い笑みを浮かべては、俺に耳元にキスして言った。 「さっきの続き、してあげますから、ね? 課長」 「っっ!!?」 「本当に誰にも言われたくなかったら大人しく、会議室、来てくださいね」  青くなって赤くなって、やっぱりどこか欲求不満な俺はそのデカブツ部下、来栖の要求にひとつ、ぷるっと震えて青空の下に立ちつくしたのであった。

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