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9.入学式
入学式兼始業式の日、大学の講堂にスーツで向かった。
親父は『新しいスーツを買ってやる』とか言ったけど断った。
じいさんの遺品の中で一番細身の、濃いグレイのスーツ。若い頃、ドイツ留学時代に作ったとかで、ばあさんと婚約したときの写真で着てるやつ。
七星に合格した後、お袋が
「そういえば」
じいさんが俺に着せるとか言ってたスーツがある、なんつって教えてくれたんだ。
さすが図書館勤務なお袋は、なんでもかんでもファイリングする。写真とか書類とか、そんなモンだけじゃなく、二度と作らない料理やお菓子のレシピとか、ガキのころ作った手提げ袋の型紙とか、マジで何でもかんでも正確な注釈もつけてファイリングしまくるのだ。そんなお袋だから、じいさんが亡くなった後の遺品整理にも、いつも通りの力を発揮したわけで、情報もきちんと記録してた。
『傷みはあるが、型崩れはしていない。生地もいいんだ』
なんてじいさんが言ってたとか、五十年以上前に作ったオーダーだとか、生地はドイツのなんとか言うメーカーだとか、そんな風に色々自慢してから、『拓海が七星に入ったとき、着せてやるか』なんて呟いていた、とお袋は言った。
『今より成長するだろうから、その時に修繕してやればいいな』
お袋が記録した文字が、じいさんの声で頭に響く。
「やっぱり型が古いねえ。今の流行 とだいぶ違うよ。あら袖が短いじゃない。傷みもあるし、おじいちゃんが言ってた修繕ってどこでできるのか、あんた知ってる?」
なんてとぼけたこと言ってたけど、知るわけねえじゃん?
それに流行なんて知らねえし、袖が少し短くてもどうせ一回しか着ねえし、生地のほころびなんかていねいに直した痕なんかあって、じいさんが大切に着たんだなあ、とか実感したし、じいさんと一緒に七星へ行きたい、なんて思ったし、サイズもだいたい合ってたから、全然OKだと思った。
袖とズボンの丈が少し短いのに胸囲とか腹回りはちょい余ってて、じいさんが自分より逞しかったんだな、なんてしみじみして
「俺、コレ着る。決めた」
修繕とかいらねえから、と言ったら、お袋はズボンの裾だけ伸ばしてくれた。
丹生田もスーツ着てたけど、ネクタイ結ぶのに四苦八苦していたんで手伝ってやった。
「高校、学ランだったんだ」
とか言い訳するのも可愛いつってにやけてたら「笑うな」とかって睨まれたけど。
いかにも『紳士服のなんちゃら』で買ったらしい新品スーツに包装したままのネクタイ、ワイシャツも袋に入ったままだったたけど、着慣れて無くてもガタイと姿勢がいいからめちゃくちゃ似合ってる。
新入生総代は標 つう賢風寮生だった。いかにも頭良さそうな切れ者、ではなく、ほわんとした人の良さそうな感じの奴だが、スピーチは面白かった。
「本日より正式にこの大学の学生となった誉れ、は特に感じていません。しかし私はこの大学の歴史に自分の名前を刻みたいという野望は持っています。口だけで終わりたくないので、日本国内はおろか世界に通用する仕事をして先輩達や後輩達が自慢できるような将来を送ることを目標とします。ですから先輩、先生達、ご父兄の皆様。私たちに期待していいですよ」
気負いのない口ぶりで、妙に偉そうなスピーチを終えると、ぺこりと頭を下げて飄々と段を下りる。一拍遅れて拍手が湧いたが、戸惑うようなざわめきも流れていた。
先輩達が歌ったり踊ったりコスプレしたりして、面白かった入学式が終わり、割り当てられた講義室で説明とか書籍を渡されたりとか、そういうのが全部終わって寮に戻る。
スーツから着がえながら、橋田と二人で「けっこう汗かいたね」「風呂に入ろうぜ」って話になった。もちろん丹生田もさすがにバイト休みだったんだけど、こういうときは黙ってついてくる感じで会話に入ってこないんだよね。
三十分くらい間があったから、用意だけして風呂の手前にある娯楽室に入った。
教室を二つ合わせたくらいの広い部屋で、TVやオーディオ、各種ボードゲームとソファ、なぜかピアノと卓球台まである。寮の部屋でテレビ置けるのは一人部屋だけで、執行部役員か四年生でないと一人部屋は当たらないから、湯上がりにここで寛いでいる奴だけでなく、テレビ見に来る奴も多い。
そんで、だらしなくソファに座ってネクタイ緩め、チョコバーをボリボリ囓る標が、真剣にテレビ見てるのを見つけたわけ。
めちゃガン見してるから、そんな面白いことやってんの? つって見たけど、番組はローカルニュースだった。花見客が集まる川辺の様子を報じてるだけで、特に面白い話題でもなさそうなのに、標は夢中な様子で視線をテレビから離さない。囓り続けるチョコバーにも意識は向いていないようで、ボロボロ欠片がこぼれてスーツの膝辺りに散らばり、床にも落ちていた。
丹生田が思わず、という感じで床にこぼれたものを拾って始末し始めたので、立ち止まって「総代お疲れ」と話しかけると「疲れた。緊張した」と言いながらテレビから目を離してだるそうに見上げてきた。
「全然緊張してるようには見えなかったけど」
「そう?」
一言だけ返すと標はまたテレビに目を戻した。丹生田はゴミを集めて捨てに行ってる。
「学部どこ?」
「医学部」
淡々とした口調はスポーチの時と全然変わらない。
「うわ、頭良さそ。こっちは経済」
藤枝です、と自己紹介していると、いつのまにか横に来てた姉崎が「僕は英米文学」と話に入ってきた。
「スピーチ良かったー。かっこよかったよー。僕、姉崎って言うんだ、よろしくね」
にこやかに言いながら握手を求める。標はちらりとその手を見てから面倒そうに握り返し、すぐに離してテレビへ目を戻した。
「健朗は? 学部」
馴れ馴れしく名前呼びする姉崎に、拾ったゴミを捨てて手を払いながら「理学部だ」と丹生田が答える。
「へえー、なんか意外。工業系?」
「数学をやりたいんだ」
「数学? え、もしかして高等数学?」
うっそりと頷いた丹生田へ「うっわー」とか大げさに驚いた声を上げて腕を伸ばし、肩を組もうとしたが、さりげなくその手を掴み、橋田の肩に乗せる。抗議するかと思ったけど、本を読んでた橋田はただ目を上げて姉崎を見ただけだった。
「橋田は? 学部どこ?」
姉崎が問うと、小さく息を吐いて「ついでに聞かなくても良いよ」と呟き本に目を戻す。
「やだなあ、そんなことないって! 教えてよ~」
あくまで馴れ馴れしい姉崎の声が聞こえていないかのようにさっくり無視する橋田。けどそういや聞いてない。
「俺も聞きたい。橋田ってあんま話さないし、そういえば知らなかった」
「国文だよ」
本から目を上げずに短く答える様子はそれ以上の会話を拒否しているようで、そのクセここから立ち去る様子もなく、淡々と本を読んでいる。橋田は一人でいるのが好きそうに見えるのに、なぜだかいつも俺とか丹生田とかと行動を共にしてるっぽいんだよね。つっても会話に参加するわけでもなく、視線すら合わせないで本読んでたりしてるんで、ちょい分かんない。
「その本、面白い?」
聞くと、ハッと驚いたように目を開いて顔上げ「………まあ。面白い、…かな」なぜか途切れがちに答えるから、俄然興味を引かれちまう
「なんて本? そんな面白いなら俺も読むかな」
タイトル見ようと手を伸ばしたら、橋田はさっと本を閉じ、胸許に抱くようにした。カバーが掛かっていて書名は分からない。
「なんだよ、見るくらいいいだろ」
「やめとけば」
標がいつのまにかテレビから目を離し、チョコバー片手に橋田のそばに立っていた。
「人に言えない本かも」
「えっ! そうなの?」
そんな事は思いつきもしなかったから焦った声出したら、橋田はチラッと標を見てからこっちに目を合わせ、ニッと笑った。
「そうだよ。藤枝君には内緒」
「なんだよそれ!」
なんつって騒いでるの、丹生田は黙って見てるんだけど。てか興味引かれているらしいの、なんとなく分かる。そんで姉崎がクスクス肩を揺らして笑ってる。
標は残りのチョコバーを口に押し込むと、元のソファに戻ってまたテレビを見始めた。番組はローカルニュースから奥様バラエティーぽいのに変わってるのに、食い入るような視線はそれまでと同じだ。橋田も背を向けるようにしてまた本を開いた。
なんだか不思議な空気で、だがそれで会話は終わってしまった。少し納得いかない感じもしたけど、そこまで橋田の本に興味があったわけでもない。室内を見回して時計を確認する。
「あ。もう風呂始まるんじゃ」
そう言ったら丹生田が頷き、橋田は本をパタンと閉じて立ち上がる。
娯楽室を出る時、チラリと見遣ると、橋田が標を見ていた。標もちらっと橋田を見て、またTVに目を戻しながら片手を振った。その後の二人の様子が気になったが、「ねえねえ、健朗と藤枝ってさ」姉崎がニコニコ話しかけてきたんで、慌てて丹生田の背中を押す。
「おまえ付いてくんなよっ」
おもわず叫びながら廊下を走り浴室に向かって急いだのだった。
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