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二部 丹生田 12.自覚って

 それより少し前、四月の中頃。  丹生田は剣道部とバイトと掃除当番、加えてもちろん講義もあるから、かなり忙しくなってた。  一年生のうちは教養の単位が多く、丹生田と一緒の講義も少なくないけど、掃除当番は部屋割りと別の組でやるから丹生田と一緒じゃなくて、部活とバイトも当然別々。 (足りね~よそれじゃ! いや寝起きの丹生田は可愛いけど他の丹生田ももっと見てーし)  まったく無自覚にそんなことを考えていて、やはりまったく無自覚に欲求不満気味になっていた。  なので食堂で朝飯を食いながら、「そうだ、言っておくのを忘れていた」と言いだした丹生田が 「今日は夜いないぞ。朝まで帰らない」  と続けた言葉を聞いてぶっと味噌汁を吹いた。 「どうした。むせたか」  低く言いながら、ほれ、と丹生田に渡された台ふきんでふきふきしつつ、手で口周りをぬぐい、「な、なに…」動揺露わに言うのが精一杯だ。頭の中でうずまく疑問を必死で打ち消していると、横にいた姉崎が「え、なになに!」目をキラキラさせた。 「健朗、彼女できた? 初エッチで朝帰りってこと?」  聞きたいのに聞けずにいたことをあっさりくちに出され、また吹き出しそうになった味噌汁を必死で耐えて呑み込んでたら、向かいで丹生田はきつく眉をしかめて言った。 「違う。深夜シフトだ」 「なーんだ」  つまらなそうに言ってメシをかっ込む姉崎を横目に、ホッとしながら食事に戻ると、丹生田は同室の二人に低い声で報告を続ける。 「夜十時半から朝六時半までのシフトだから、帰るのはその後になる」 「でもバイト始めて、まだ一週間だよね?」  なのに声を出したのはやはり姉崎だった。俺は色々考えて口をきけずにいたし、橋田はいつも通り淡々と頷くのみだからだ。 「そうだ」 「深夜って人少ないんじゃないの?」 「先輩と二人だ」 「へえ? すごいじゃな~い。すぐにそんなの任せられるなんて、健朗って優秀なんだねえ~?」  ニヤニヤしながらの言い方は、かなり分かりやすいからかい口調で、さすがの丹生田も気に触ったのか、眉を寄せて首を小さく横に振る。 「そういうわけではないと思う。とにかく、帰るのは朝になるからよろしく頼む」  橋田と一緒に頷いて了解を示すと、姉崎は何か含んだような笑みを浮かべて、意味ありげな視線を向けつつ食事に戻り、あっというまに食い終えて「おさき~」と去っていく。  この男はとにかく食うのが早い。風呂も着替えも驚くべき早さでこなす。上品そうな見かけとそれがそぐわなくて、なにをそんなに急いでるんだ、とつっこみたいが言わない。 『つっこみは愛情だよ~ホラ、ボケだと思ったらつっこんでつっこんで! ああ~ダメダメもっとスキル磨いてよ~、愛情が足りな~い』  などとほざいていた姉崎の希望に応えてやるつもりはないからだ。 「まあとにかく、初深夜勤、頑張れよな」  余計なことを考えて、なんとか平静を取り戻して、そんでなんとか笑顔で声をかけると、丹生田は少し笑って頷いた。  それから大学へ行き、同じ講義を二つ受けた後、三人はそれぞれ別れて講義を受ける。  のだが、ひとりになってしみじみショック受けてる自分を自覚する羽目になった。講義なんてまったく耳に入らない。  頑張れとは言った。もちろん本心から言ったけど、夜、聞こえる丹生田の寝息とか、時々「ううん」と唸るような声を出すのも、今日は聞けない、寝起きの丹生田すら見られないかも知れないのだ。 (うあ~、どうすんだよ~。丹生田不足が加速していくよ~)  剣道部が新入部員勧誘の道場公開したときに行ったのは、もちろん丹生田の剣道姿を堪能するためだ。デモ試合してる先輩たちのかたわらで、丹生田が面を装着せずに素振りしてるのを見て、めっちゃカッコ良くて惚れ惚れしてしまった。なぜかついてきた橋田に「藤枝君、くち閉じれば? バカに見えるよ」などと言われたのを思い出す。 (またアレやってくんないかな。つか毎日見に行けないかな。したら丹生田不足しないですむかも)  基本、道場は部外者立ち入り禁止だが、丹生田は朝練を欠かさないし、それ以外でも講義の空き時間や昼休みなど、ちょっと道場へ顔を出したりしているらしいのだ。もういっそ剣道部の道場で張り込みするかとか思う。 (いやそこまでやったらそうとうイタイだろ)  すでにかなりイタイ状態になっている自覚もなく、自分もサークルや勉強に意識を向けようと努力する。 (そうだよ、そもそも将来につなぐ為に七星へ来たんじゃないか。ココで頑張るんだろ? 本来の目的を見失ってる場合じゃないって)  しっかりと自分に言い聞かせ、雑念を払って、自主学習することにした。  マーケティングには以前から興味があった。だからあのサークルに決めたのだが、さすがドSの評判が立つだけあって、先輩たちの話は高度で、分からない単語なんかも飛び交うし、まず基本を理解しないと研究なんてできないって感じだ。分からないことを聞いたのだが、逆に「これくらいは理解しないとな」なんて言われ、調べてくるよう課題を出されてしまった。  自分がなにも知らないことを痛感したし、こんなんでジタバタしてる場合じゃない。せめて先輩が言ってた課題を考えないと。  そのとき言われた本を借りたのは、蔵書が自慢の大学図書館だ。それ読み込んだり、ちょっとした疑問はネットで検索したりし始めたら、やっぱり興味のあることだから面白い。橋田も静かだから、こういう時は集中できる。いつの間にかすっかり没頭して時間を忘れた。 (コレまとめて、明日サークルで見せちゃる、なんて思ったけど……くっそー、ココ分かんねえ。なんとかカッコつけたいなあ)  見た目軽そうに見えるらしいが、藤枝拓海十八才、やるときはやるのだ。  喉の渇きを覚えてふと我に返り、無意識に時計を見た。夜十一時を過ぎている。  無意識にふわっと(丹生田はもう牛丼屋にいる)と、浮かんでしまった。 (いやいやいや)  頭を振って浮かびかけた丹生田の顔を振り払う。 (喉渇いたなあ、冷蔵庫にまだ俺のペプシあったよな)  意識して他のことを考えるが、止まってしまったマウスを無意味に動かしながら(会いたいなあ)と思ってしまい、また(いやいやいや)と打ち消して、机に向かったままじたばたと地団駄を踏んでいたら「藤枝君、うるさいよ」橋田から冷静なつっこみが入った。 「ご、ごめん」 「そんなに気になるなら行けば良いんじゃないの」  PCに向かって何やら軽快に打ち込み続ける橋田が、キーパンチのリズムを崩すことなくため息混じりの声を出す。脈絡なさ過ぎの一言に思わず「どこに?」と問い返すと「牛丼屋だよ」とそっけない声が返った。 「なっ………!?」  いきなり今朝からの懊悩の核心を突く単語を聞き、心臓がひっくり返りそうになる。 「だって気になるんでしょう?」  あくまで淡々と言葉を継がれたが、口がぱくぱくするだけで声は出せない。 (なんで? な、なんで橋田、んなコト言い出すかな? なに言ってんのかな?)  頭の中で言葉が回るのみ、声なんて出ないまま、うろたえも露わに目を向けてると、橋田はため息混じりに手を止め、椅子を回してコッチに向き直った。 「違った? ならごめん」  淡々と謝られると、なんか悪いような気がしてくる。だって橋田の言うことは違ってないんだ。 「いやまあ……」 (確かに気になるけど、けどそんなことしちゃっていいのかな? 職場に押しかけるなんて迷惑じゃないかな?) 「あのさ、客として牛丼を食べに行くのに何か問題ある?」  頭の中を読んだような言葉にまたも心臓が止まりそうになる。 「ていうか橋田! な、なんでそんなこと…」  やっと脳内の言葉が口から出たのに、言葉はばっさりとぶった切られた。 「だって好きなんでしょ?」  無自覚に息が止まる。  今コイツなんて言った? (いや確かに丹生田見てたいけど、スゲエ良い奴だし可愛いし、ガタイ良いから見飽きないってだけで、すっ、すっ、すっ、いや別にそんなんじゃ) 「まさか自覚無し?」  あくまで淡々としてた橋田の声が、呆れたような調子になった瞬間、喉から「ぐぅっ」と変な音が漏れ、息ができなくなる。  呼吸困難気味な状態に危険を感じてるのに、橋田は平静そのものだった。眼鏡を中指で押し上げながら、ものっそ冷静にこっち見てる。いつも通り淡々としてて、ヘンなことできねーしと思いつつ、なんとか呼吸しねーと、なんて妙に冷静な考えも浮かぶけどうまくいかない。手足ジタバタしたいのを必死で抑えたが、さらに汗は噴き出し止められない。  やばいやばいと思いながら、なんとか息を吸い、平静に聞こえるように言ってみる。 「なに、な、なんのこと、かな…?」  けど我ながら上擦った声は、とてもじゃないが平静には聞こえない。橋田は小さく溜息をつくと軽く睨んできた。 「あのさあ、あんまりあなどらないでくれるかな」 「あっ、あなど……?」 「あれだけあからさまに好きですな感じ出しまくっておいて、同じ部屋にいるぼくが全く気がつかないとかありえないでしょ、丹生田君じゃあるまいし」 (すきですな感じって……!?)  パニック気味に思考が散乱する。 (すきですなっ? すきです、すっ、すっ、て、好き……? って俺……? いやいやいやそんなんじゃ、てか、……あ、じゃあそんなんバレバレってことかよ? なんだよそれマズイじゃんヤバいじゃん)  それまでとまったく違う方向でパニックが加速した。

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