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15.バイト見学
深夜勤シフトより三十分早く入った健朗は、厨房の奥、備品置き場であり、ロッカーや仮眠用のベッドのある場所ですぐに着がえて待機した。仕事についての説明などが当然あるだろうと思ったからだ。
一緒に深夜勤をやるのは、バイト三年目になる畑田 という専門学校生だと聞いていたが、なかなか来ない。遅番の人たちは忙しそうに働いていて、なにか聞けるような状態ではなく、健朗はひたすら待った。
それまでの勤務中に、高野さんというパートのおばちゃんに話しかけられ「深夜勤をやる予定なんです」と言うと、「あら、あたし早番もやるのよ」などといいつつ細々と親切に教えてくれていた。
「朝来たときにこうなってると嬉しいのよね」
なるほどと思いながら頭にしっかりメモしていたので、基本的なことは分かっていると思うが、やはり不安はある。
結局、畑田は十分前に来て「厨房で待ってて」と奥から健朗を追い出し、五分で着がえて出てきた。ようやく挨拶できると思い、気をつけの姿勢からきっちりと四十五度の礼をする。
「丹生田と言います。深夜は初めてですので、よろしくお願いします」
「おう、よろしくな」
軽く返され、ざっと仕事の説明を受けた。
「深夜勤の仕事っても、たいしたことないから。気楽にいこ」
気を軽くしてくれると言うことだろうか、と健朗は思ったが、初めての仕事を気楽にこなせるほど器用ではない。
「いえ、教えて下さい」
じっと見下ろす形になりながら言うと、畑田は少し眉を寄せながら「お……おう」と言って、ぼそぼそと説明し始めた。
「まず接客だけど、一人の時は作って出して、食べ終えたら下げて、レジまで全部やる。もちろん下げた食器も洗う。日中みたいに混まないから食洗機使わないで手洗い。もう一つは店の清掃。そして朝番が仕込みしやすいように準備しとく。この三つを朝までにやるってことなんだけど」
なるほど、といちいち思いつつ、健朗は脳内にメモした。
幼いころから剣道をやっていた健朗は、少々のことならメモを取らない。竹刀を持ちながらメモはできないし、稽古中に竹刀を離すなど許されなかったからだ。稽古中に受けた注意や指導を忘れたら、祖父は集中が足りないと怒鳴ったし、父も稽古中は厳しかった。おかげでいまだにメモを取る習慣が無い。それで忘れることも、今のところ無い。
畑田は、チラッと健朗を見て、「……あんた大学どこ」ぼそぼそと声をかけてきた。
「七星です」
きっちりと目を見て答える。
「へえ。……なんの勉強してんの」
「数学です」
「へ……へえ」
そこで二十二時半になり、遅番が帰るのを送り出した。
二人きりになると、畑田は話しかけてこないだけでなく、健朗の方を一度も見なくなった。
だが健朗は、自分からひとに話しかけるのが得意ではない。さらに客は切れ目無く入り、仕事に集中するしかなく、それを問題と感じる暇も無かった。
つまり一言も私的な会話することなく、二人で店を回す状態になっていた。
やがて客がいなくなり、二人きりになったので、深夜の仕事について詳しく聞きたいと思い、健朗は近寄って「あの」と声をかけたが、畑田は目も向けず黙ったまま奥へ入ってしまった。
なにか用事があるのだろうと思いつつも、客が入ってきたので、慌てて「いらっしゃいませ」と声を上げ、畑田が奥から出てくるだろうと思ったのに出てこないため、客の応対に追われた。
ひとりで全部やるのは初めてで、遺漏があってはいけないと緊張し、考える余裕など無くなる。
ようやく客が途切れたので、健朗は自分のできることを探してやっていったが、分からないことも出てくる。質問をしようと奥へ行くと畑田は携帯ゲームをしていて、質問には答えるが顔も上げなかった。携帯に目を落としたまま出てくる気配がないので、店を無人にするわけにはいかないと戻る。
カウンターの中や客のいない客席の掃除や整理などして、一時間ほど経っただろうか。
「おい」
ずっと奥にいた畑田が、ひょいっと出てきて声をかけたので、丹生田健朗は「はい」と顔を向けた。
「休憩行ってくるから」
店の上っ張りも帽子も無く、コートを羽織って手には財布を握っている。
「はい。あの、お客さんが来たら」
「だいじょぶ、誰も来やしねえって」
軽い声が言葉を遮り、畑田は説明無く出て行ってしまった。
健朗は黙したまま見送ったが、これでいいのだろうか、と思ってはいた。だが自分はできることをやるしかないのだ。それ以上を考えても無益だ。
なので有益なことに考えを向けた。
さっきまでもひとりでやっていたのだが、本当にひとりだけとなるとなぜか緊張する。
だがそれは無益だ。なのでいまここで客が来たら、と想定し、どんぶりの位置や重さを計測するはかりや、具の入っている鍋なんかを確認した。店先に出てレジを開くと、素早く済ませることができるようレジの打ち方を復習し、おしぼりや卵や、紅ショウガが足りなくなっていないかなど、一つ一つチェックする。卵や味噌汁を注文されたとき、さっと出せるよう、動きをシミュレートしてみた。
大丈夫だ、さっきだってひとりでやってた。
自分に言い聞かせてみたが、どうにも落ち着かない。店にはひとりでも、いざとなったら助けを求められると、無意識に頼っていた自分を自覚し、眉を寄せる。
頼むから客なんて来てくれるな、と願う気持ちと、それでは自分がバイトしている意味が無い、と断ずる冷静な思考がせめぎ合う。
無表情の下で悶々としていると、賑やかな声と騒々しい足音が聞こえてきた。ハッと顔を上げると、ドアが開き、怖れていた客がきたと知る。生唾をゴクンと呑み込み「いっ、いら……」声を上げたが、ずっと黙っていたので、喉がおかしくて、声は途中で途切れた。
いらっしゃいませ、もまともに言えなかった、と唇を噛む。
「おっ、いた!」
「丹生田だ~」
「おっすー」
けれど、どやどやと入ってきた五人の顔を見て、無意識に入っていた身体の力が抜ける。
「さっそく一人かよ!」
「ラッキー」
どれも知った顔、同じ寮の一年だ。緊張してこわばった顔のままではあったが、胸の内でホッとした。
「健朗、来たよ~」
少し遅れて入ってきたのは、メガネの姉崎、そして
「丹生田……」
申し訳なさそうに少し眉尻の下がった同室の藤枝だった。
愛嬌のある垂れ気味の茶色っぽい瞳と明るい色の髪。きれいに通った鼻筋の下、厚めの唇が愛情深さを思わせる。かっこいいのに驕らない、気持ちのいい男。
「……いらっしゃいませ」
その顔と声になんだかホッとして、普通に接客の言葉を出せた。
「ゴメン、うるさくして」
「お客さんなんだから、構わない」
自然に出た笑顔で答えていると、他の連中が「つうか、なんか違和感!」などと言いながら健朗を指さして笑う。
黄色と茶色が配色された、派手な牛丼屋のうわっぱりを着て同色の帽子を頭に乗せた、無骨な大男がにやけている図は妙な感じがするのだろう。我ながら似合わないと思うから、やってきた連中が指さして笑うのも当然だ。だから好きに笑わせておく。
「ていうか健朗、今一人なんだよね? 激大盛りを並盛りのプライスで、とか友情価格のサービス無い?」
カウンターに座った姉崎がニコニコ言うので、健朗は精一杯の接客スマイルを返す。その顔の下でなにを言うべきか考えていると、藤枝が「ばっか!」と怒鳴りながら姉崎の肩を乱暴に掴んだ。
「そんなんできるわけないだろっ! 丹生田に無理言うなよっ」
「だって誰もいないし、大丈夫だよねえ、健朗」
上機嫌なニコニコ顔で言う姉崎に、5人も乗っかった。
「激! 激! 激!」
いきなりわき起こる激大盛りコールと「おまえらやめろって!」「黙れ! いいから黙れ!」「迷惑だろっ! だーまーれー!」阻止しようする藤枝の声で、狭い店内は一気に賑やかになった。さっきまでひとり緊張していた身体の力が抜けていると気づき、ふっと口元が緩む。
「激、は……無理だ」
「じゃあ特大盛り!」
間髪入れない姉崎の声に、「無茶を言うな」健朗も笑みで返す。
すると今度は『特大盛り』コールが店内に響く。そこに「迷惑かけんなっ!」「いいかげんにっ!」「おまえらっ!」「やめろって!」藤枝が髪振り乱し、合いの手のようになってしまっている罵倒を叫び続ける。
健朗は、おもわず、くくく、と笑ってしまった。それを見て「おっ!」「イケる?」みんながどよめく中、姉崎は頬杖ついたままニッと笑んでいた。
「つまりOKってこと?」
「特……も無理だが少しなら」
一拍置いて、うおおおおおっ、と雄叫びが湧いた。孤軍奮闘して破れた形の藤枝は、最後に
「もうおまえらうるさい!」
一つ叫んで、はぁぁ、とため息をつき「つうか、いいのかよ丹生田」と心配そうに聞いてきた。髪も乱れて、なんだか疲れている。健朗は「いいんだ」と低く言って手を伸ばし、藤枝の髪を撫でた。乱れた髪を直してやりたくなったのだ。
手が髪に触れると、藤枝は大きい目をさらに見開いて黙った。
自分の為に、迷惑だろうと叫び続けてくれた藤枝。ありがたい、という気持ちが口を滑らせた。
「藤枝は特々盛りにする」
「え」
藤枝はきょとん、とした。
姉崎が爆発したように、腹を抱えて笑い出したが、なにがおかしいのか分からない。周りの連中も、ほけっと姉崎を見る中、藤枝だけが眉尻を下げ、「いやでも……」と声を詰まらせた。
健朗は、いい奴だな、と思い、揺れる茶色い瞳を、きれいだな、と思った。
「なんっ、だよそれ!」
「俺らも特々盛りにしろっ!」
脇から抗議の声が上がったが、これくらい当然だと健朗は思い、スッキリと無視した。
「まあまあ」
一気にヒートアップした面々を、笑いを治めた姉崎が手を振っていなす。
「どう考えても藤枝のが闘ってたもんね。当然の報酬だよ」
ね、と笑いながら健朗を見て首を傾げたので、意外と分かっているなと思い、健朗も笑みのまま一つ頷く。
それでも脇からは「でもさあ」などと不満げにぼやく声が聞こえたが、納得の声も聞こえてくる。
「つうか仲いいからな」
「同室だし」
「まあなあ」
「しょーがねーか」
「そうそう、そういうことだよ。健朗、六つと一つね!」
酷く楽しげな姉崎の声に「並盛り六つと特盛り一つですね」と復唱すると歓声が上がり、おもわず少し笑ってしまいつつ、黙々と七つの牛丼を作り始めた。
少しだけ盛りの良い牛丼を出すと「おお~」と声が上がり、みな旨そうに牛丼をがっついている。藤枝の前に置いた特々盛りのボリュームに、また歓声が上がり、「食い切れるのか~?」「余したら食っちゃるぜ~」などと言われた藤枝は「誰がやるかっ!」と叫んで猛然とかっ込み始める。
それを見て、なんだか自分の働きでみんなが喜んでいるように思い、少し嬉しくなる。くちぐちに好き勝手なことを言い合う連中のおかげで緊張は解けた。
やがて六つのちょい盛りと一つの特々盛りが空になり、妙に盛り上がっている会話を聞きながら、黙々と食器を下げたり水を足したりしていると、畑田が休憩から戻って来た。
七名の客がいるのを見て、畑田は一瞬気まずそうな顔をしたが、健朗よりよほど明るい声で「いらっしゃいませーえ」と言い、ちらっと健朗を見て、なにも言わずに奥へ入ってしまった。
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