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50.寮の歴史

「俺、タイおっちと一晩話してきた!」  笑顔だが、どこか必死さが滲み出る表情で藤枝が言い放ち、みな呆然と見守る中、津久井がニコニコと言った。 「これ、たっくん。落ち着きなさい」 「だって!」  バッと振り返って声を上げた藤枝に、老人の片手が上がった。笑みのまま首を振るのと、くちをへの字に閉じる。  それに頷いた老人は「つ、津久井さん」島津が声を出すと、そちらへ顔を向けた。 「どうして……」  声が先細ったのは、視線に気圧されたからだ。そのとき皺の勝る顔に笑みは無く、鋭い眼光を浴びた島津は、思わずつばを飲み込む。 「ふむ」  低く漏れた声に、さっと緊張感が走る。 「ちなみに俺が『タイおっち』だ」  (いか)めしい顔と言葉の内容がそぐわなくて、プッと吹き出した仙波は、先輩たちから一斉に咎める目を突き刺され、慌ててくちを両手で押さえた。その横でいつもの笑顔の姉崎が、面白そうに目をキラキラさせている。  目を細めた老人が「話は聞いたがな」低く呟いてから口の端を僅かに上げると、凄みが増した。さっきまでの好々爺(こうこうや)然とした笑みはなんだったのか、と皆が思っていると、唐突に大音声が響いた。 「情けない!」  一喝されて、全員ビクッとしてから直立不動になり、一年にも緊張が走った。丹生田も奥歯を噛みしめ気をつけの姿勢だ。だが姉崎はまだニヤニヤしてる。 (タイおっちが凄むと、たいていの奴はビビるってのに、心臓つえーな)  なんて思ってる藤枝が横にずれ、足を踏み出した津久井は、全員の視線を浴びながら両手を後ろで組み、ゆっくりと室内を歩く。ひとりひとりに向けていく視線は、まるで心胆まで見通そうかというほど鋭い。こういう時のタイおっちは、なぜかデカく見えるのだ。 「まあいい。島津!」 「はいっ」  既に伸びてた背筋を、ぴんっとさらに伸ばして返事する。 「整理した話を聞こうか。たっくんの話は、少しばかり要領を得ないのでな」  島津は絶対的な上司から命令された部下、といった風情で礼を返し、くちを開いた。  一年生が次々と起こした反乱行動について。その行動はイジメを発端としていたこと。その根本的な解決の為に、寮則の改正を求めていること。自分たちが昨年それを諦めたと伝えたこと。  緊迫感に満ちた空気の中、今回起きた状況について淡々と説明する島津の声だけが流れる。 「ふむ」  聞き終えて呟いた津久井に「ねえ、おじさん」緊張感の無い声がかかり、一斉に目が向いた先にはヒラヒラと手を振る姉崎がいた。 「おい、津久井さんに向かって」  責めるような声を向けた島津に「知らないよ」姉崎は肩をすくめる。 「自己紹介も無かったしねえ。それとも『タイおっち』とか呼ばれたいのかなあ」  津久井は僅かに目を細め「おお、構わんぞ」と言ったが「やだよ」姉崎はピシャリと絶ち切る。 「そんな馴れ合い、気持ち悪い」  肩をすくめて言うと「それよりさあ、聞きたいんだけど」妙に爽やかな笑顔で津久井をまっすぐ見ていた。全員があっけにとられたように見つめる中、姉崎は笑みのまま低い声を出した。 「一体あなたたちの望みはなんなの? この寮が旧態依然のまま朽ちていくのが望み?」  ピリッと空気が引き締まる。  津久井は目を細めたまま僅かに口角を上げるのみで、なにも言わず動かない。 「ねえ、考えてもみてよ。ここは大学の寮で、当然だけど入寮するのは十八歳とかで、卒業するまでいるとしたって、せいぜい三十歳くらいまで。つまりここに住む奴は全員若いわけじゃない?」  津久井は厳しい表情のまま、くちを開かずに姉崎をまっすぐ見つめている。 「そんな集団に、五十年前の規則が合うわけ無いよね。いったいなに考えてんの? 時代は進んでる。あなたたちの考えた古くさい規範なんて全然役に立たないってくらい、分かってるんでしょ? だってあなた、タダの頑固親父には見えないもの」 「ふむ」  声を漏らした津久井が、淡々と言った。 「お褒めいただいたようだ。礼を言っとくか」  ニッコリと笑いかけながら「ありがとうさん」と声を向けられて、姉崎はチッと舌打ちした。ちょっと黒い笑顔になってるが、老人は好々爺に戻ってた。 「……あ~、なんかヤな感じ」 「お気に召さないか。そりゃあ困ったな」  津久井はハッハッハと笑ったが、周囲はピリッピリに緊張を持続している。姉崎に「やめとけ」の一言も言えない状態だ。 「まあ落ち着け。若い奴は堪え性が無いもんだが」 「若いからしょうがない的な言い方、やめてくれないかな」 「威勢が良いな。だが、そういうもんだよ。おまえさんは、少し堪えることを覚えた方が良さそうだ」 「むかつくなあ。なにその上から目線」  あくまで笑顔なのだが、姉崎の声は刺々しさを増している。 「上とか下とか言う話じゃない。年の功ってもんがあるってことだ。まあ少し黙って話を聞かんか。おい、たっくん、ちょいとコイツを押さえててくれ」 「無理だよ。そいつ俺の言うことなんて、ぜってー聞かねえし」  返った声は低めの押さえたもので、津久井は目をまたたいて振り返った。全員が同じように目を向けると、藤枝は睨むような表情になっていた。  射るような眼差しで見つめられ、津久井は苦笑しながら「やれやれ」と片手を上げ頭をかく。 「津久井さん」  会長の津田が、意を決したような表情でくちを開いた。 「なにか事情があるのかも知れない。でも、この生意気な一年の言う通りだと俺も思います。現状のままでは、いずれ立ちゆかなくなる。それは分かっていただきたいと、俺たちも本気で思ってます」 「そうです。なにが問題なのか、せめてそれだけでも教えてくれませんか」  乃村が続けると、庄山も言った。 「これからもこの寮を存続させようと考えるなら、現状のままでは見過ごせない問題が多々あります。去年、それについてもお話はしましたが、もう一度考えていただけないものでしょうか」 「……ふむ」  津久井が鼻を鳴らすような音を漏らすと、姉崎がハハッと軽く笑った。 「生意気とか色々言われてるけど、結局僕の意見に賛同ってことだよね」  ニカッと笑った藤枝も姉崎を指さし言った。 「コイツいけすかない奴だけどさ、今回は俺も同じ気分だよ。だから答えてくれよ」 「遠回しとか誤魔化しナシでヨロシク!」  爽やか笑顔の姉崎に、必死な目をした藤枝が続く。 「頼むよタイおっち! じゃねーと秘密しゃべるぞ!」 「ほう」  そう呟いた津久井は、ひどく嬉しげに笑みを深め、クククと肩を揺らして笑った。 「そうか! その意気や良し!」  ハッハッハと高笑いをしながら、津久井は藤枝の背中をバンバンと叩いた。 「そうか、たっくん! ……いや、藤枝!」  その表情はひどく愉快そうで、一気に上機嫌になった老人を、みなあっけにとられて見つめ、声を失った。   * 「自主独立、それが賢風寮本来の寮風よ」  誰かが持ち込んだ日本酒をコップでクイクイ飲みながら津久井が語ったのは、五十年ほど前の賢風寮を取り巻いていた情勢だった。  当時は学生運動が盛んで、政府と主義主張を違える者達が闘争を繰り返していた。  大学内にも警察が突入し怪我人が出たり、逮捕者が出たりするような時代だったのだ、と続ける話の中には、全共闘だの安保闘争だの左翼セクトだの、現代史で学ぶレベルの単語が織り交ざる。 「そもそもだな、俺たちが寮則を決めた当時、尋常では無い圧力があってなあ」  そんな中、賢風寮は大学とは別個の組織で、運営主体が学生であるという理由で警察に目をつけられていた。そのままでは自治の体制を維持出来ない情勢だったのだ。  そこで運営主体をOB会である風聯会に移すことにして、OB会が厳しく管理すると明言したが、大学側からそれ以前の緩い寮則の改編を求められ、そうで無ければ自治は認められないと言い渡される。  官憲に、権力に、屈するのか、という主張も当然あったし、寮内で様々な意見も出て紛糾したが、当時の風聯会幹部は求められる通りにするべきだと言うばかりで学生の力にはなってくれず、結局風聯会は厳しい寮則を定めた。  そうせざるを得なかったのだ。  寮則は警察によって精査されると決まっており、施行する前に提出を求められていた。ゆえに風聯会が涙を呑んでひねり出したものは、外部からの圧力に対抗しうる内容になり、それを害しない範囲でしか執行部の要望を組み入れられなかった。そうでなければ自治を奪われる。それだけは避けるべきだった。  当時の風聯会メンバーにも、大蔵省など官庁に所属する者や警察官も多くいた。しかし発言力はまだ弱かった。ゆえに大勢に逆らう力を持っていなかった。  そうして結果的に、なんとか自治の継続は容認されたのだった。 「だがまあ悔しかった。どう言葉を繕おうと、あのとき俺たちは官憲の圧力に負けたんだ。権力に屈したんだ。そりゃあもう、忸怩たるものがあった」  いつしか床に車座になり酒を酌み交わしながら、津久井は好々爺の顔で語っていた。学生たちも緊張を解き、興味深げに聞き入っている。 「そこで俺たちは、風聯会の力を強めることが必要だと考えたんだな。負けたのは力が無いからだ。なら力を持てば良いって寸法だ。おりしも高度経済成長まっただ中の時代よ。俺たちは馬車馬のごとく働いた。国のため、家族のため、男ってのは、みーんな働く理由てのがあるわな。俺たちには人様より一つ多く、この寮の自治を守るっつう、強い理由があったというわけだ。俺が外務省に入ったのも、それが理由みたいなものよ。定年退職後のOBが専従になって運営するようになったのもこの頃からだ。奨学金の基金なんぞもやって、社団法人としての実績も作った」  賢風寮の他にもいくつかの不動産を所有し、そこからの収入を運営に充てるようになった。OBたちはそれぞれ各界で力を持ち、発言力を強めていく。そうして風聯会が地歩を固めていったのだが、それはやがて寮の運営に弊害をもたらし始めた。  主体は風聯会であり、各界で力を持つ団体だ。結局言うこと聞いとけば良いのだろうという、主体性の無い執行部が何年も続いたのだ。  風聯会に気に入られれば社会に出てから有利だと、そんな打算で執行部に上がる者が増えたゆえの弊害である。そこで風聯会は入寮者を精査するようになった。真摯に学ぶ学生を選ぼうとする動きは、しかし風聯会に所属する者が身内を入れようとする動きに繋がった。それを見越した者は、縁故を使って将来の有利を得ようとする。  下手に動いても望む結果は得られないと、津久井たちは諦めた。 「時代が変わったのだ、今の若者には気概が無いのだと、俺たちには諦めがあった。だが十年くらい前だったかなあ、寮則を変えるべきだとぶち上げてきた奴らがいてな。コレは骨がある奴が出てきたと思ったんだが、一喝してやると、すごすご引き下がりやがった」  津久井が忌々しげにくちを閉じると、島津がすかさずコップに酒を注ぐ。 「俺たちは話し合った。運営は風聯会が受け持つ。カネはあるしな。だが賢風寮は自主独歩が寮風だ。俺たちの時代はそうだったし、そこは曲げられん。それが無くなった賢風寮を存続させる意味があるのかってな」  懐かしむような表情と口調。老人は満足そうに笑みを深め、コップの酒をぐいっと飲み干した。 「で、俺たちは決めた。三回、しつこく言ってきたら認めてやろうじゃないか、とな」  酒のコップを片手に、目を剥く者、くちをあんぐり開ける者、それぞれあっけにとられて見る中、津久井はひどく楽しげに笑い声を上げた。 「おまえたちは去年、二回来ただろう。これはイケるかと思っておったのよ。なのにそれきり来やがらねえじゃねえか。がっかりしたぜ、まったく。だがまあ、同じ顔ぶれだ。間はあいたが三回目に勘定してやる」 「…………?」 「え?」  半ば呆然と声が漏れ、ざわっと空気が変わった。 「え~と、それじゃ……」  互いに視線を交わしたり、ゴクリとつばを飲み込んだりする連中を笑みで見回した津久井は、ハッハッハと高らかに笑った。 「おう、おまえたちは合格だ!」

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