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幕間 じゅんや君とたけろう君

 三月半ば、姉崎淳哉は、呼び出しに応じるため外出した。珍しい人物から呼び出しを受けたのだ。  上機嫌に足取りも軽く歩き、カランとカウベル鳴らし踏み入ったのは、橋田が通っていた喫茶店である。素性がばれてからも橋田はここに来ていたようだが、同学年のたまり場と化しつつあるため足が遠のいていると聞いた。だが今日は見知った顔がいないようだ。というか客は目当ての人物ひとりしかいない。  絶対赤字経営だよなと思いつつ、姉崎は朗らかな顔と声を白髪のマスターに向けた。 「コーヒーとホットケーキね!」  そのまま向かったのは、橋田が良く座っていた一番奥の席である。 「やっほ~」  コーヒーを飲んでいる男へニッと笑いかける。 「珍しいじゃない。しかもこんなトコで」  最高潮に機嫌良く言いつつ、向かいに腰を下ろす。 「こんなトコとは失礼な」  水を運んできたついでに文句を言うマスターに「あっはっは」と笑って、話を聞きたそうな素振りを隠さない白髪頭に寄るなと手を振り、ニッと笑みを向ける。 「で、なに? 電話じゃずいぶん切羽詰まってる感じだったけど」  興味を隠さない眼差しを向けられた男は、意を決したようにくちを開いた。 「……相談がある」 「そうなんだろうねえ」  笑みを深める姉崎を見返した男は少し眉を寄せた。  ここに藤枝拓海がいたなら「ナニ困った顔してんだよ」と言っただろう。  そう、丹生田健朗は困惑していた。  自らの心の動きをどう捉えて良いものか、分からなくなっていたのだ。   *  昨年春、慣れぬバイトで少しばかり辛いことがあった。  そのときは寮の仲間や先輩たちの助力もあり、立ち直ることができた。  実は父から話が通っていたとかで、それ以降は保守部屋に週五日詰めることで寮費免除となり、さらに少しではあるが給料も支給してもらえることになった。そんな特別待遇を他の保守部員に知られると要らぬ問題が起きそうなので、あくまで内密な処遇ではあるが、健朗は助かったと感じていた。  しかし拭いきれない劣等感は残った。  笑えない、話せない、自分は人と同じ事が出来ない。 (俺は愚鈍だ)  そんな風に思ってしまう気持ちは、周りに恵まれているという実感と共に薄れたが、無くなりはしない。  だが、藤枝の言葉は残った。 『だって俺、丹生田のこと大好きだよ?』  嬉しい言葉だった。 『みんな丹生田のこと好きじゃん! 誰が嫌ったってんだよ!?』  自分を嫌う人はいるのだ、という事実を藤枝には告げなかったが、自分自身では分かっていた。  けれど 『(いいたくないこと)言わなくて良いからな!』  心底気にかけてくれる。それは分かった。あの視線でそれが伝わった。ありがたい、と思った。  その後さらに状況が変わり、剣道に打ち込める形になった。  勝ちたいと、それだけを念じ、出来ることは全部やろうと思いきわめて努力を重ねた。しかし結果は望んだものとはならなかった。力不足を痛感し、さらに努力を重ねなければと心に誓った。  そしていつも藤枝が傍にいて、それ以前もそれ以降も、さりげなく気を回してくれていた。本当にありがたいと、何度も思った。  だが、ホッとしたのはコイツの言葉だ。 『なめられるの嫌いなんだよねえ。健朗もそうなんじゃない?』  ────そうだ。  自分は負けるのが嫌いなのだ。  小手が、ほんの少し右に寄る。  そこから面を狙いに来る一瞬、安藤昌也は左胴が空く。  ほんの僅かな隙でしかない。だが、子供の頃からあったその癖が直っていないことに、健朗は気づいていた。それを逃さなければ勝てた。  むろん簡単に胴で決めさせてくれる安藤ではない。だがそこからたたみ込めば三本に一本は取れた。そこにつけいる隙は確かにあり、だから健朗は、あの強い安藤に中学までは勝てたのだ。  しかし勝てなくなった。  つまり安藤は努力をしたのだ。生じた隙を打たせないようにするための努力を。おそらく安藤は気づいていないのだろう。その癖は昨年対戦したときにも、やはりあった。  だが勝てなかった。しかしそこをもっとうまくついていけば、今度こそ、次は、そう思ってしまう自分がいる。  もし、藤枝だったら。 「おまえその癖直した方がいんじゃね?」  そんな風に言ってしまうのではないか、と健朗は思う。  藤枝はそんな風に公正な人間だという気がする。  そう、藤枝はキレイなのだ。容姿のことではない。  あの笑顔、まっすぐな行動、心のままの言葉の数々、言葉より雄弁な眼差し。なにより気持ちの持ちようがキレイなのだ。  だから藤枝の周囲に人は集まる。みんな藤枝と対すると素直になる。────笑顔になる。  藤枝は、自分の持ち得ないものを山ほど持っている。  だからこそ、どうにも心惹かれてしまうのだと、────そう気づいてしまった。  そしてこの感情が一体どういうことなのか、健朗には分からなかった。深く静かに、健朗は混乱していたのである。  とはいえ誰かに相談するにも微妙すぎる話で、誰にも言えないと思っていた矢先、保守の新部長、小谷から聞いた事実から、健朗は知った。  どうやらこれに気づいている奴がいるようだと言うことを  それがこの男であるのは、ある意味微妙なのだが致し方ない。  (さかのぼ)ること数日。  小谷は言った。  姉崎が会長に、上から目線でこう言ったのだと。 『執行部、どうしてもっていうならやってあげても良いよ~。でもさあ、夏場、あの熱量の中、エアコン無しで過ごすとか僕、無理だから、そこは考えて欲しいな~』 『まあ熱中症も心配だし、エアコン設置は施設部で考えて欲しいところではあるね』 『じゃあ、テストケースを僕の部屋にして、まずは検証とか、そういうことでOK?』  苦笑と共に、まあいいだろうと頷いた執行部を前にして、この男は図々しくもさらに条件を提示した。  インターネット関連の設備専門部の設置、そして、ごく個人的な要望をもうひとつ。この三つが履行されることを条件に、執行部の勧誘を受ける。  小谷先輩は三つ目の条件を聞きとがめ、偉そうに笑んでいる姉崎にそれはなんだと聞いた。 『ちょっとした友情の発露だよ』  軽く笑って答えた姉崎の条件を執行部が呑んだのは、三つのうち二つは、いずれにしろ手をつけるつもりの部分であったことに起因する。残る一つくらいなら聞いてやっても良いだろう、ということだったのだが。  だが、それを聞いて健朗は知られていると認識した。  姉崎の三つ目の条件は『藤枝と丹生田を同室にする』だったのだ。 「なるほどねえ」  ひどく楽しそうに健朗の話を聞いていた姉崎が、ホットケーキを口に押し込むのを、健朗は黙然と見つめていた。  自分は勝つために卑怯であることを厭わない人間だ。結果、勝利を得るためならなんでもする。つまり藤枝より姉崎の方が自分に近い。だから姉崎と話していると安心するところがある。 「じゃあ原島は? のろけまくったりしてたじゃない」 「……正直、告白されて嬉しかった」 「それで浮かれちゃったんだ?」  確かに浮かれていたのだろうと、そういう自覚は今、健朗の中にある。  だからうっそり頷いて、自分に確認するようにくちを開く。 「女に好かれている自分が、嬉しかった」  ────のだろう。それで浮かれたのだ。まったく自分て奴は。 「ああ~、『俺ってモテてる』的な感じね~」  笑うような顔と声をじっと見つめながら、また頷く。  非常に腹立たしいが、その通りだ。付き合うようになって、毎日顔を合わせ、その間原島の唇とか胸ばかり見ていた。これに触れて良いのだろうかと、そんなことばかり思い、確かに心が躍っていた。 「それだけ?」 「……女と付き合ってみたかったんだ」 「またまた~、エッチしたかったんでしょ?」 「…………無いとは言わないが」  それどころじゃない。そんなことばっかり考えていた。 「バリバリだったみたいじゃん。初エッチで浮かれてたって聞いたよ?」  バレていたようだ。非常に気まずい。 「………………」  クスクス笑いながらコーヒーを飲み干し、姉崎は首を傾げた。 「で~?」  眉を寄せる健朗を見つつ「マスター、コーヒーおかわり!」朗らかに言って、笑み細めた流し目を送って寄越した。 「藤枝をどうにかしたい的なことなわけ?」 「……分からない」  そうだ。それが分からない。確かに藤枝が傍にいると安心するような感情と、なにか分からない暖かいものが胸の奥に湧き上がってくるのではあるが。 「じゃあさ」  笑みを深めた姉崎は、身を寄せて声を低めた。 「触ってみたら?」 「………………」  なにを言い出す。  そんな思いは、客観的には少し目を見開いただけにしか見えなかった。健朗的には目一杯驚いて見返していたのだが。 「なんなら教えてあげるよ~? 男同士のエッチ」 「そんなことが」 「できるよ。まったく知らないわけじゃないでしょ?」  低く囁くような声と笑みで細まった目は、ひどく楽しそうだった。  さすがに鼻白んだが、ひとつ息を吐いて、健朗は低く呟く。 「……そういうのが、あるということくらいは」 「なにげに僕って得意なんだよね、そういう分野。突っ込ませてくれるんなら、手取り足取り教えてあげるよ~? 健朗も体感してみる?」 「遠慮する」  速攻で返った声に。姉崎はクスクス笑った。ひどく楽しそうだ。 「OK、じゃあ、それは諦めるよ」  残念な表情で言った、つもりだろうが、笑みを消せていない。わざとらしく腕を組み、首を振って考え込んだフリをしている。色々やっているようだが、演技力は努力の必要があるな、と健朗は思った。 「う~ん、じゃあマッサージしてみるとか。それなら自然に触れるじゃない」 「………………」  考え込むように少し俯く健朗に、笑いを堪えきれてない低い囁きが続く。 「ホラ、総括ちょうど忙しくなるしさ、唐沢さんに手を出すなって言っといてあげるよ。めっちゃ多忙で疲れてるところに、マッサージしてあげるとか、うまいこと言ってさあ」 「……おまえも忙しいんじゃないのか」 「あれ、知ってた?」 「小谷さんからな」  姉崎が執行部に入る。その時に出した条件を聞いて、つまり姉崎は健朗の考えを見抜いていた、ということなのだと健朗は判断した。 「だから、こうして話している」 「なるほどね~。まあ感謝してくれて良いよ」 「…………」  少し眉を寄せた健朗にハハッと軽い笑いを向け、少し肩をすくめた姉崎的には、実のところ藤枝の方しか分かっていなかったので、面白すぎる展開だと思っていたのだが。 「まあ僕のことは心配しなくて良いよ」 「していない」 「ああ、やっぱり有能だから、心配する必要ないってコトかな?」 「そうではない」  むろん姉崎の心配などしていない。  負けるのが嫌いな男が、人に弱みを見せるわけがないのだ。文句を言わせない程度の仕事はするのだろう。  だから健朗が思っていたのは、ただ藤枝のことだった。  下心がバレないように触らなければ、と心に決めていたのだ。

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