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67.好きになること

 昨年夏頃。 「あの」  背後から何度か声が聞こえてはいた。 「あの」  だが、その声が自分に向けられたものだなど、思いつきもしない。 「あのっ」  ゆえに、声を数度無視した形になっていた。 「あのっ、藤枝くんっ」 「えっ」  名を呼ばれ、慌てて振り向いた藤枝拓海は、そこにいる女子を見て、ああ、と頬を緩めた。同じマーケティング研の女子だったからだ。 「水無月(みなづき)じゃん。なに?」  人の顔と名前はすぐ覚えるし忘れない。それが彼の特技であった。  だが名を呼ばれれば『覚えてくれてたんだ』という理解をする者も少なくない。 「いえ。あ、いえ、はい」  そして彼女もそんな理解をした。心拍が高まって震える声を誤魔化すように、口ごもる様子を見て、心配そうに眉を寄せた。 「なんだよ。なんかあった?」  これは彼の口癖と言ってイイくらい、日常的に垂れ流しているセリフである。オカン気質の表れであり、寮であれば「ほっとけ」などと邪険にされる。しかし彼女は『気にかけてくれる』と受け取った。  そしてさらに彼女の手が震えているのに気づいて、心配そうに言った。 「どした? 具合悪いのか? ああ、じゃちょい休めば」  なんて言いながら近くのベンチへ彼女を誘った。おぼつかない足取りで歩くので分かりやすく心配し、ベンチに座らせて「飲み物買ってくるな。ちょい待ってて」と自販機へ走る。彼女は頬に昇る熱を意識しつつ見送った。すぐに戻って差し出したのはペプシで、なぜそれを選んだのかと問われれば、単なる習性だった。慌てれば慌てるほど、自販機で押すボタンはペプシ一択。それが藤枝拓海なのである。 「ほい、これでも飲んで休んでな。わりいけど俺急ぐから」  気にかけて何度も振り向きつつ、慌てて走り去った彼を、彼女は呆然と見送った。  熱くなっている頬を冷たいペプシで冷やしながら。  驚くべきコミュ力はあらゆる場面で発揮され、学部で、ゼミで、サークルでと、寮外でも彼と親しく話すものは多い。当然その半数は女子で、実はこんな風に無自覚にファンを増やしていたのだが、この頃ひたすら丹生田しか見ていなかったため全く気づかずにいた。  もともと着るものや髪型など、まったく興味無く、むしろむさ苦しい格好を好んでいた。しかし大学が決まって妹に連れて行かれた初美容院や、妹指導のコーディネートで客観的にイケメン状態になり、そのまま大学デビューしたわけで、とりあえずルックスで目立ったので、一方的に彼を知っている者はかなりいる。  大学に入って1年以上経過した今は茶髪でも長髪でもないが、散髪代倹約のカットモデルで美容院に通い慣れてきていたし、服装も身近にチェックを入れる姉崎という存在がいるので、それなりに見栄えがする状態をキープしているのだった。  無自覚になっている理由は、もうひとつある。  男女問わず、好意を寄せられることに、まったく意識が向いていないのだ。  丹生田に絶賛片想い中なのだから当然とも言えるのだが、姉崎が「ホント自覚しなよ」などと言ってもなにを自覚しろと言われてるのかピンと来てない。つまり自分の容姿に無頓着なのだ。  ドイツ人である祖母の血を引いて、父と叔父はハーフ、母も凜としたタイプで、妹もかなりの美少女である藤枝家。彼も子供の頃から「人形のよう」「カワイイ」などとよく言われていた。  しかし風聯会の男たちに囲まれていたゆえか、幼い頃から「カワイイ」などと言われるのが嫌いで、からかうようなことを言われた日には、すぐに殴りかかるような子供だった。中学くらいまでは良く殴り合いのケンカもしていて、彼がけんかっ早いのはこの頃の名残である。  さらに高校時代、彼に近づくために友人を利用した女子が複数いて、そこそこ嫌な思いをした。そこら辺でもけっこう暴れたし、受験で必死になってるときはかなり迷惑したのだが、基本ヤなコトはすぐ忘れ、楽しいことに意識が向きがちであるため、あくまで『ヤな奴がいた』というぼんやりした記憶があるのみだったりする。  大学生ともなれば男女とも、それまでよりさらに、恋愛へ関心を持つ。好意の端緒として、ルックスがものをいうのは当然で、客観的に背の高いイケメンで人当たり良い彼に視線が集まるのも当然だ。そういう目で見られれば、普通ならモテると自覚する方が自然だし、口や態度に表さずとも、そういう意識は透けて見えるものだが、彼の場合、それは一切無かった。  意識することを、無意識に拒否ってるんじゃない? なんて姉崎あたりなら言いそうではあるが、本人は微塵も意識しないまま、伸びやかな肢体と整った顔を無防備にさらしているような状態ではあった。   *  マーケティング研の先輩たちに飲みに行こうと誘われ、いつもは断るんだけど、その日は付き合った。  なんかモヤモヤしてたからだ。  寮に戻ったころは、すっかり暗くなっていて、ちょい酔ってもいて、「う~」なんて唸りながら靴を脱いでたら 「ふじえだぁぁぁぁっ!」  怒鳴り声が聞こえ、ビックリして靴片っぽで固まった。 「そこになおれっ!」 「は?」  口半開きで突っ立ってたら、階段を駆け下りてきた瀬戸が飛びかかってきて、 「てめえ~~~っ!」  いきなりシャツの襟元をつかんで、ユッサユサやられた。 「な、なに……?」  好青年で賢くて、ちょいチャラいけど、わりと冷静でなにげに正義漢。  そんな瀬戸が、ものすごい怒りの形相で叫び、平手でバチンバチンとぶってくる。意味分かんねえし! と一瞬キレたが、保守部屋から飛び出してきた先輩とか、騒ぎで集まってきた皆に押さえられ、はぁはぁ肩で息をしながら瀬戸が再び怒鳴った。 「なんで振った!? なんでアキちゃん振ったんだよっ」 「えっ? え、だって」 (だっておまえ、アキちゃん取るなって言ってたじゃん?)  今日の昼、アキちゃんこと諸井アキに学食で声かけられ、外歩こうとか言われて。  もしかして? とか思ったから、ちょい引いたんだけど、すっげ必死に誘われて、その場にいた他の子から睨まれて、逃げられない感じで仕方なく付いてって  ──────やっぱ告られた。  もちろん速攻断ったよ。  だって瀬戸が諸井好きなの知ってたし「ゴメン」つって、正直逃げたよ? 「……付き合えば良かったつうのかよ?」 「アキちゃん泣いてたじゃねーかよ。なにが気に入らねえんだよ? 良い子だろ? めっちゃ良い子だろ?」 「けど……」  言いかけた声は続かず、意味不明な暴力からやっと解放されたのに動けなかった。 (だって。おまえが泣いてんじゃん)  涙にじんだ瀬戸の目を黙って見返すしかできない。 (たぶん今まで、人を殴ったことなんて無いんだろうな、こいつ)  俺はなにげにけんかっ早い。カッとするとすぐ手が出て殴っちまう。  けど瀬戸は……すぐ人のことからかうしチャラいし、けど基本穏やかで、だからきっと、今までこんな怒りを誰かにぶつけたことなんて無くて────  だから、そういうの慣れてないから、こぶしじゃなく平手で叩いた。きっとそうなんだ。そんな奴が、思わず手を出したくなるくらい怒った。 「瀬戸? その、ゴメンな?」  ああ、こいつマジで諸井のこと好きなんだな。なにより大切に思ってんだな。  そう思ったら自然に言ってた。 「諸井にも、悪い」  瀬戸は顔を上げなかった。けど「いや、……こっちこそ」とか言いながら階段昇ってった。 「藤枝は大丈夫か?」  保守の先輩から声をかけられ、「あ、うん」なんて声返しつつ手を振って、乱れた髪を片手で直しつつ「う~……」唸るような声を漏らした。 「あいつらしくねえなあ」 「気にするなよ」  騒ぎに集まったみんなや保守の先輩が声かけてくれたけど「うん」とか返すの精一杯で、フラフラな足取りで階段を上る。酔ってるのとショックと、相乗効果つか、あ~もうダメダメだな。  瀬戸は、ふられたのを慰めて自分が付き合おう、とかンなこと考える前に、泣いた諸井を見てカッとしたんだろうな。 (なんとなく、だけど気持ち、分かる)  そう思ったら、怒る気になんてなれなかった。

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