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幕間 じゅんや君とたけろう君 煩悩編
姉崎の画策により、藤枝と同室になった健朗は、もうひとりの同室、木原先輩が運動効率について非常にユニークな研究をしていると知った。
当初、淡々と聞きつつ疑問を持っていたのだが、筋肉の使い方までリンクし、数値によって表される理論を聞いて数値の根拠を聞いたところ、あながちうさんくさくも無いように思ったのと、まったく無益では無いと思えたのもあって、先輩の理論に基づいたトレーニングを試してみることにした。
昨年、健朗なりに考え、先輩たちに相談し協力を仰いで行った、安藤を想定した稽古は功を奏したとは言えず、健朗は焦りを感じていた。一種藁をつかむような思いで、正直あまり期待していなかった。
だが実際にやってみて、健朗は今までと違う視点で剣道を見ることが出来るように思い初めていた。確かに身体の使い方、筋肉の使い方に、今まで見落としていたものがあったと感じたのである。
それを言葉少なに先輩たちに告げ、黙々と新しいトレーニング方法と稽古に邁進し続けたのだが、日々過酷さを増していくそれを見る先輩などから、何度も声をかけられた。
「去年の雪辱を晴らしたいのだろうが、あまり無理はするな」
先輩に言ったのは嘘では無い。だが実のところは、無我夢中になっていたのだ。
なぜならこの大事なときに、健朗は余計な煩悩を抱え、処理しきれずにいたのである。
姉崎の部屋に呼ばれ、健朗がついて行ったのは、先日の相談の件を藤枝の前で持ち出されてはたまらんと思ったからだ。
しかし
「良いモノあるんだ。健朗も興味あると思うなあ。まあまあ、こっち来て座って」
嬉しそうに言いながら見せられたのはゲイの洋物AVだった。
筋肉質の裸の男が組んずほぐれつしているのを見ても、正直湧き上がるものは無かった。そんなものは毎日部活のシャワー室で見ている。
だが、まったく興味が無いわけでも無かった。
モニターの中で身をよじり声を上げているのをじっと見つめ
(これは本当に快感があるものなのか?)
などと疑問を感じつつ、勃起した局部を見れば
(快感はあるようだな)
とも思える。
眉を寄せ、なにげに真剣に見ていると、姉崎が低く囁いた。
「こっちのさ、金髪を藤枝に置き換えてみなよ。体格とか、ちょっと似てるでしょ」
────ゴクリと、喉が鳴った。
それを自覚した健朗はまた眉を寄せたが、画面を見る目には真剣味が増し、三十分に満たないそれを見終えた頃には、無自覚に力のこもっていた筋肉を弛緩させるのに、意志の力が必要だった。
「で、こっちも見せてあげようと思ってさ」
図解入りの本を出され、そこから姉崎によるゲイセックスの講義となった。
理解が及ばず眉を寄せるたびに「じゃあ実践してあげるよ」などと手を伸ばしてくる姉崎と時々格闘になりつつ、かなり真剣に講義を聴いて、その後もう一度AVを見ると、色々マズイ状態になった。
とてもじゃないがそのまま部屋に戻って藤枝の顔など見れそうに無く、朝、着替えのためだけに戻ったが、声をかけてくれる藤枝を見ることも出来なかった。
それ以降、いつも通り気にかけてくれる声や顔を見るたび、健朗は後ろめたさを覚えてしまうようになった。
以前から、藤枝を見ていて、妙な気分になるときはあった。
だがゲイセックスの手法を知り、その時湧いた衝動に、その気分の正体を知った思いがした。ゆえに藤枝に指一本触れられない。仮に肩や腕であっても触れてしまったなら、そして藤枝の顔を見たなら、自分はなにを思ってしまうのか。
そんなことを考える自分をぶちのめしたいような感情が湧き上がってくる。
まして国体、そして学生全日本と目標は近づいている。余計なことを考えている場合では無いのだ。
そんな状態にさせた姉崎に怒りすら覚えているのに、呼ばれると行ってしまう自分に忸怩たるものはあったが仕方ない。正直、同じ部屋に藤枝がいることで、自分が挙動不審にならないという確信など持てないのである。
身体を動かすことによって煩悩を払うなど、古くさい観念だと思っていたが、それしか思いつくすべが無かった。
だから健朗は自分を責めるように稽古に打ち込んだ。藤枝のキレイな笑顔を曇らせるようなことなど望んでいない。
いや、けっして、してはいけない。
欠点克服を主眼に置いて稽古の映像を撮影し研究することを木原先輩に提案され、是非頼みたいと考えていたが、木原先輩は部外者である。健朗の一存で稽古撮影を決定することは出来ない。そこで以前の映像を分析した木原先輩の話をしたところ、先輩たちも興味を持ってくれた。
その日は早めに昼飯を済ませ、先輩たちと木原先輩を引き合わせることになっていた。原島も含めた剣道部連中と学食へ来た健朗は、いつもより軽い昼食を素早く食べ終えた。
他の連中が食べ終えるのを待っていたとき
「そんな楽しいかよっ!」
聞こえた騒音と怒鳴り声に、藤枝だ、と思ったら無意識に立ちあがっていた。原島がなにか言ったが、「寮の同室だ」とだけ言ってそちらへ向かう。
それが目に入った瞬間、目の前が真っ赤になったような感覚と共に、気づいたら「落ち着け!」と怒鳴っていた。
自分に向けての言葉だ。
姉崎が藤枝の腕を捻り上げていたのを見て、瞬間的に湧き上がったものを鎮めるべきだった。
そのまま無表情の姉崎とにらみ合い、冷静になれと自分に言い聞かせつつ聞いた。
「藤枝に、何をしている」
姉崎はいつもの顔に戻り、勝手な理屈をこね始めた。
「こっちの苦労も少しぐらい気付け」
などと、いつも通りヘラヘラと。
苦労だと?
おまえが引っかき回したんだろうが。あれが無ければ自分は藤枝をよこしまな目で見る羽目に陥らずに済んだのだ。
「まったく、こんなトコでケンカなんてやめなさいよ。バッカみたい」
噴き上がるような怒りが、原島の声で少しクールダウンした。だがそのまま姉崎に絡み始めそうで、マズイと思った。原島が絡み始めるとかなりシツコイ。さらに姉崎の表情が危険だった。先輩を待たせてもいる。
あらゆる事情からここを素早く立ち去るべきだった。
なのに思わず藤枝を見てしまった。
髪や顔や、その他も少しカレーが付いていた。拭ってやりたい、と思った。だがこぶしに力を込めて伸びそうになる手を抑えつつ、姉崎を睨んで、藤枝のケアをするよう命じた。なのに藤枝は走り去ってしまった。思わず追いかけそうになったが、原島に腕を引かれ思いとどまる。先輩が待っているのだ。
健朗はもう一度、姉崎に追うよう命じ、そこを立ち去るしか無かった。
体育棟への途上、「あの合気道のヒトが同室なの?」原島が聞いてきた。
「違う」
「そっか、じゃ負けてた外人みたいな方?」
その言い方は気に障ったが、健朗は黙って頷く。
「なんか悔しいな。同じ部屋だったら毎日一緒にいられるんだよね」
────最近彼女は機嫌が悪い。
このところ、ほとんど原島と時間を過ごしていないことに起因すると分かってはいる。安藤と闘うことで頭が占領されている、と言うと納得はするのだが。
揺るぎなくまっすぐなのが原島の剣道だ。迷いが一切見えなかったそこに最近、乱れが出ているように思えた。
この状態は良くない。それは分かっていたが、なにが正解かなどまったく分からず、健朗は混沌の深まる迷いを持ったまま剣道場に到着し、遅刻を詫びつつ、先輩を紹介した。
以前、姉崎は朝まで戻らないことが少なくなかった。
だが執行部として部屋に詰めるようになって以来、部屋を空けることは無くなっている。バイト以外で遅くなることも無い。
あのひとり部屋は、誰にも言えないことでも安心して相談できる環境を作るためのものだ。ゆえに執行部に要る資質とは、偏った立場に無い者、中立を保てる者ということになる。さらに執行部に近づいて利益を得ようとする者がいたとしても、はね除ける強い意志がなければならない。脅してもすかしても転ばない者である必要がある。
そして、誰かに阿 ったり怯えたりはしないという意味で、確かに姉崎は適任だった。今年度部屋にいるようになったのも、役員が常に部屋で待っていることが重要、と分かっているからだろう。
つまり健朗が予測した通り、姉崎はつけいる隙など作らなかった。常に部屋にいるし、遅くなるときは何時に戻るかを書かれたホワイトボードがドアに下がる。真面目に仕事をしているのだ。
そして健朗は、隙を見せようとしない男は周到でもあると思い知らされた。
ジリジリしながら稽古を終え、二十一時過ぎにドアの前に立った健朗は、ホワイトボードに
『Hi! お客来たから二十四時まで待ってね』と書いてあるのを発見したのである。
こうして怒鳴りこみに来るであろうことなど予測済みだ、と言いたいのだろう。そう察してドアの前で歯噛みしたが、執行部としての職務を阻害する意志は無い。相談か愚痴を吐くか、なんであろうと執行部のドアを叩く者がいたなら、そこに第三者などいない方が良いに決まっている。
しかし部屋に戻ることも出来ない。部屋には藤枝がいるのだ。
歯噛みしながら寮を飛び出した健朗は、デイバッグを肩にかけたまま大学構内を走り続けるしかなかった。
非常にマズイ状況になっていたからだ。
払っても払っても、脳裏に一つの映像が浮かぶ。
────男の手でテーブルに押さえ込まれた藤枝が、痛みに顔を歪ませ、こちらを見ている、その映像が。
何度となく見たAVで、シーツに顔を押し付けたり、ベッドに縋ったりしながら、快楽に声を上げていた男のようだと、思ってしまう。
そんなのは藤枝に失礼だと、歯を食いしばりながら健朗は走り続けた。息が上がっても足を動かし、汗だくで倒れ込んでも立ち上がってまた走る。
そうして二十四時を過ぎ、汗だくのままドアを開くと同時、にやけたメガネに思わず言っていた。
「なんとかしろ、この野郎」
唸るような低い声を向けたが、姉崎はヘラッと笑って「だからゴメンって」とヒラヒラ手を振っている。いつもと変わらない。
「今日のはつい出ちゃっただけでさ、悪気は無いんだよ」
「どうだかな」
「無いって! コレでも僕は藤枝のこと気に入ってるんだ。じゃなきゃ構わないしね。ちょっと待っ…」
ニヤニヤ笑い続ける男の頭を、こぶしで殴りつけた。
「……いった~!」
むろん力の加減などせず思いきり殴った。容赦の必要を感じなかったのだ。
「少しは加減してよ、バカみたいにチカラ強いんだからさ」
口を尖らせて文句を言っているが、頭をガシガシ擦ってるだけで倒れるわけでも無い。むしろわざとこぶしを受けたふしすらある。
なぜならこいつは今、こぶしに合わせて身を引いていた。言うほど衝撃は入っていないに違いない。原島は合気道と言っていたが、何かしら武道をやっているのだろう。つくづく意味の分からない奴だ。
気が削がれた。
健朗は汗に濡れたTシャツを脱ぐと、キッチンを勝手に使い、デイパックから出したタオルを濡らして身体を拭いた。汗が気持ち悪かったのだ。
「なに健朗、いきなり脱いで、肉体美アピール?」
答える必要を感じないので、無視して身体を拭き続ける。
「あ~それともムラムラしちゃった? 僕が鎮めてあげようか」
「要らん!」
濡れタオルをキッチンへ投げつけると同時にギッとにらみつけ、のしのし歩み寄った。ニッと笑う姉崎の喉元を締め上げてやろうと腕が伸びるのも無意識だ。
「ていうかさあ、藤枝、女の子とどっか行ったよ??」
腕の動きが止まり、宙でグッとこぶしを握った。
表情は、少し眉を寄せているのみだったが、健朗は激しい衝撃を受けていた。
「あの子と付き合っちゃうのかもね? ほら、藤枝ってルックスいいじゃない。その気になればモテモテだよね。入れ食いの手当たり次第とか、ありえるよ」
あくまで笑顔の姉崎が、クスクスと肩を揺らす。
その可能性について、今まで微塵も浮かばなかった。だがそうだ。あの気持ちの良い男が人に好かれるのは分かっているではないか。女子であってもそれは変わらないのだ。なぜ気づかなかった。
「……あれ、もしかして藤枝がずっとああやって笑ってるだけだとか思ってたの?」
ハハッと朗らかに笑う声は聞こえていたが、健朗はその顔を見る気になれず、キッチンへ戻って蛇口を捻り、そこに頭を突っ込んだ。
激しく苛立っていたが、とにかく頭を冷やす必要がある。その一心だった。
流れる水に頭を打たれながら、しかし冷えぬ激情に、健朗は唸る。
藤枝は常にそばにいてくれる。声をかけ、笑いかけてくれる。
それが常態だと、なんの不思議も無くそう思っていた。思い込んでいた。
「そんなバカな。ねえ、藤枝だって男だよ? エッチなこともするさあ」
声と共に肩に触れた手を払う。背後から笑い声が聞こえ、気配が遠ざかる。
己の迂闊さと愚かさに激しい苛立ちしか湧かなかった。
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