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幕間 じゅんや君とたけろう君 剣道編
そして健朗は新たな懊悩 を抱えることになった。身の内に湧き上がる煩悩 を打ち消さねば、剣道どころでは無い。
余計なことを考えるなと、健朗は無我夢中になった。ひたすら体を動かし、無心になろうとした。他になすすべなど思いつかなかった。
だが、それがもたらしたものは、マイナス要素だけでは無かったのだ。
国体ベスト8という成績を持って帰った寮で、祝いの会を開いてくれた。
だが心を緩める気は無かった。間近に新たな目標があったし、なにより今回健朗は先鋒として参加したのみで、個人戦では無い。安藤とも戦えなかった。
すぐに戻った部屋で、木原先輩を交えて藤枝と話をした。
顔を見ても笑いかけられても、その時は不思議と平気で、安堵した健朗は少し飲んだ酒の効果もあり、饒舌になっていた。
藤枝はいつも通りの笑顔で、「すっげえな! めっちゃ考えてんだな!」と感心してくれて、木原先輩共々語り尽くした。
後日、木原先輩は「あいつスゲエ素直だな。ああいう聞き手がいると盛り上がる」と呟いていて、藤枝の評価が上がったのを、健朗は嬉しく思った。
学生全日本剣道大会。ほぼ大学生のみの戦いとなるこの舞台で、一年ぶりに安藤と対峙したとき、健朗は今までになく無心になっていた。
むろん勝利を勝ち取るのだと研ぎ澄ました意志はあった。なにも考えていなかったわけではない。
だがそのとき、健朗の視界には、ただ安藤だけが存在していた。その視線と剣先が、ひどくクリアに見えていた。
打ち出した竹刀が安藤の小手を捉えたその時。
不思議なほど動きが見えて、自分自身滑るような動きをしていた。
『小手あり!』
声と同時に旗が上がったと知っても心臓の鼓動は落ち着いており、ただ漲る力が竹刀の先まで到達しているような、そんな感覚だけがあった。
再び開始線に立って、気づいたら右胴を打ち抜いていた。声が上がり、赤い旗が立ち
そして勝利していた。
開始線に戻って礼をしたとき、会場はざわめきに満ちていた。あの安藤が三戦目で負けるなど、誰も予想していなかったのだろう。
おそらく健朗にしか聞こえない音量で「次は負けない」と囁いた安藤に、健朗はただ笑みを返した。
不思議と心は凪いでいた。
安藤に勝ちたいと、それだけを念じての五年間を思い返したりもしなかった。
ただ、どこかで藤枝の声がした気がして、それで健朗は知らず笑んでいたのだ。
少し落ち着くと感激がこみ上がってきて、少し正気ではなくなっていたと思う。だが、あの無心は持続せず、次の試合で健朗はあっさり負けた。
正直、身体はボロボロだという自覚があった。我ながら無茶をしていた。
安藤に勝ったあの瞬間、あれが感覚的な剣道というものかと思い至ったのはだいぶ経ってからで、あの境地に至るに、自分は向いていないのだな、と健朗は思った。
今回のあれは、藤枝の卑猥な映像を頭から追い出したい一心で無我夢中になっていた、あの時間がもたらしたものだ。ひたすら身体をいじめ抜き、心を空白にすることを望んでいたあの時間。
あれをこれから持続できるかと問われれば、答えはノーだ。
それを健朗は思い知り、痛いほど正しい結論に至った気がしていた。
このデカいだけの図体は、論理に傾きがちな脳は、剣道に向いていない。
自分のための剣道を楽しむ、それならできると自信を持って言える。剣道は好きだ。ここまで続けてきたことに悔いは無い。
だがひたすら勝つことを望むには、剣道ではダメだ。
自分に向いた他の道で勝つことを考える。その方が良いのではないか。
そんな風に考えてしまう自分は、やはり勝つことにこだわっているのだなと、それを思い知りもしたのだが、負けたままでいられるかと、そう思ってしまうのはどうしようも無く、それが可能だろうかと考えたとき、健朗は藤枝に会いたいと思った。
寮に戻ったら、玄関先から藤枝が飛び出してきた。
満面の笑顔で、やたらはしゃいだ様子で腕をつかみ「来いよ!」とグイグイ引っ張られた。
(藤枝が元気だ)
本当にホッとした。こんな笑顔は久しぶりに見るような気がしていた。
玄関に入るとクラッカーが鳴り、くちぐちに祝いの言葉をぶつけられた。ひどく大勢がそこで待っていて、なぜ、と思い呆然としていると「丹生田が驚いてるぞー」などと笑われた。
そのまま食堂へ引っ張られ、なぜか祝賀会的なものが催されているのにやはり驚いていると、スピーチを求められた。
けっこうな人数が集まって、全員こっちを見てニヤニヤしており
「早くしろよ!」
「飲めねーだろ!」
などと囃すような声が飛び交う。
どの顔も知っている。
ここに来てすぐ、一年の知り合いが増えた。
中学以降、今まで。
このデカい身体と厳つい顔が周囲を遠ざけていた。ずっとそうだった。だが
『こいつ、すっげー!』
『お~いびびるなって。こいつこう見えてガラスハートなんだからよ!』
カラッと笑う藤枝が、いつも隣にいて、健朗はいつの間にか、みなに馴染んでいた。
ここだから、ここにいたから、自分は安藤に勝てた。この連中がいたから、無心になれた。
「皆さんに大変お世話になり、このたび念願を果たせました! ありがとうございました!」
自然に頭が深く下がった。
ありがたい。
その気持ちしか無かったのに、
「やったな!」
「頑張ったモンな!」
「ヒューヒュー」
「おめでとう!」
囃すような祝いの声が聞こえ、いつもぼそぼそしゃべる内藤の、珍しく張った声が耳に入った。
「ネットニュースに! あ、安藤が四回戦で負けたって!」
おお! どよめきが広がり
「やったじゃん!」
「すげえっ」
「乾杯!」
「乾杯だっ!」
「やったな丹生田!」
さまざまな声が上がって、いろんな手が背中や頭を無遠慮に叩いた。
ここまでも、先輩たちに声をかけられた。だが五回戦目であっさり負けたので、苦言も多かった。
まだまだだ、そんな風に思っていたのに、自分は勝ったのだと、あの安藤に勝ったのだと、そんな実感がこみ上がってきて、耐えきれなかった。
「なんだよ、なにしてんだよ」
藤枝の声がすぐそばでして、背を撫でる手を感じた。
どうにも涙が止まらなくて、顔を上げられないでいたのだが、藤枝はそのまま放置してくれた。ただ背を撫で続けていてくれた。
なんとか涙が止まって、やっと顔を上げたが、泣いていたことがすっかりバレていて、くちぐちに囃されてしまい、健朗は恥ずかしくなって黙った。
「照れてんじゃねえよ!」
だが藤枝がカラッと笑い、みんなも笑って、自然に健朗も笑ってしまった。
酒を飲んで、大声で話して、藤枝も笑っていて、今までに無く穏やかな心持ちになっていた。
人気者はすぐに連中に取り巻かれ、大声で試合の様子を解説していた。
もちろん試合の日程などは伝えていたが、応援席姿はなかったので、見に来てはいなかったと思っていた。
意外だったが、どこかで見てくれていたのだと思うと、小さなことは良いと思えた。細かいところが気になる自分としては珍しいが、酒の効果だろうか、開放的になっていたのだろう。
なにより、あの瞬間を、藤枝が観てくれていたのだと思ったら、それだけで満足していた。
「健朗おめでと。良かったねえ」
最初はいなかった筈の姉崎が、ヘラヘラと声をかけてきた。
「おまえにも世話になった」
「うん、たくさんお世話したねえ」
偉そうに言ってニッと笑い、酒をあおっている。コイツも上機嫌だ。
その顔を見ながら健朗は思う。
コイツはいつも笑っているが、たまに真顔になる。その時帯びる空気は、かなり攻撃的だと感じていた。おそらくそれこそがコイツの本性なのだろう。あまり歓迎出来ない本性が、こいつにはあるのだろう。
「────おまえ」
「ん?」
健朗はその耳元に口を寄せ、そこに低く吹き込んだ。
「今後、俺と藤枝に構うなよ」
ここまではコイツに操られてた感覚があった。
だがこれからは、自分の意志で動く。
下手な手出しはさせない。自分はともかく「藤枝には絶対に構うな」目を見て低く言った。
瞬時、真顔になった姉崎はすぐにニッといつも通りに笑い「了解!」とグラスを上げて乾杯の仕草をした。
「かなり楽しんだからもういいや。僕も忙しいしね」
「それならいい」
健朗が頷くと、ハハッと笑い声を上げ、姉崎は離れていった。
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