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116.はるひの電話
いつもそうだ。自分はいつだってこうなのだ。
健朗は、すっかり意気消沈していた。
言うべきと考えくちにしようとする肝心なとき、必要以上に構えてしまう。そうして結局なにも言えずに終わる。
藤枝は嬉しい言葉をたくさんくれる。それは誰にも見せられない心の奥底で、今も輝きを放って健朗を助けてくれているというのに、なぜ自分は同じように言葉を返せない。
自分自身に今さらの落胆を覚えながら、健朗はそっと藤枝を抱えてテントに横たわらせ、寝袋に入れてやる。きっちりファスナーを閉じたのは、そうでもしないとまた不埒なことをしてしまいそうな自分が確かにいたからだ。
それでも、スウスウと規則正しい寝息を継続している藤枝を見下ろし、その無防備な寝顔から放たれる抗いがたい何かに惹かれて無意識に顔を近づけ、……気づいたら唇にキスしていた。
それだけで胸がきしむような、慣れない感覚に襲われて眉を寄せ、隣の寝袋に潜り込む。
しかし目を閉じても全く眠くならない。それどころか、どんどん目が冴えてくる。さっき迂闊に触れてしまった唇の感触が消えないのだ。まったく、あの寝顔は凶悪だ。自制心は強い方だと思っているというのに、それを凌駕する威力を持っている。
ため息混じりに携帯を開くと、まだ二十時を過ぎたばかりだった。
いつもなら道場での稽古を終え、シャワーを使っている頃合いだ。それからロードワークがてら遠回りにキャンパス内を走って寮へ戻り、飯を食ってから筋トレとストレッチ、入浴してデスクに向かい、勉強をする。眠るのは早くても0時を過ぎるのが健朗の日常である。眠くなるわけがない。
まして神経はどんどん研ぎ澄まされていくようで、すぐ隣から聞こえる息遣いが耳に入るだけで、目覚めさせてはイカンなにかが目覚めてしまいそうだ。
ため息をつき、無理に眠ろうと閉じていた目を開く。そっと隣をうかがうと無防備な寝顔が見えた。しゃべって笑っている藤枝なら、なんとかなる。だがこれは無理だ。
……と言っても仕方が無いと分かっている。
ため息混じりに寝袋のファスナーを開き、音を立てぬように、そっと起き上がってテントを出た。
分かってはいるのだ。
重い荷物こそ持たせないようにしているが、早朝から暗くなるまで山道を歩き回っていたのだ。藤枝はいつも以上にはしゃいだ声を上げていた。とても楽しそうではある。しかし、これで良いのだろうか。
健朗にとってはふだんより運動量が少ないくらいだが、藤枝はたまに筋トレのまねごとをするくらいで日常的に運動をしていない。疲れ切って眠り込むのも当然のことだった。なのに柔らかなベッドで疲れを癒やすこともしていない。
相談していたあれこれを全てやりたい。藤枝も楽しみにしてくれていたようだし、やろうと言えば否は無いだろう。しかし、帰れば再び多忙の波に呑まれるであろう藤枝を、疲れさせるだけで良いのか。
考え続けつつ、ぶらぶらと湖畔を歩き回る。まだ騒いでいるテントもあり、子供の声も聞こえた。
見上げると、黒い塊にしか見えない山頂に月がかかっていた。藤枝が夜空を見て「星がすっげー!」とはしゃいだ声を上げていたのを思い出し、自然と口元が緩む。
するとポケットの中で携帯が震えた。
取り出すと、見慣れぬ番号からの着信だった。少し寄った眉のまま耳に当てると『あんた、でっかい方?』聞こえたのは、女の声だった。
「……誰だ」
低く唸るような声は、聞きようによっては威嚇にも聞こえるものだったが、返ってきたのは不満げな『はあ?』そして挑戦的な声だった。
『ボケてんじゃないわよ! あたし!』
あいつか、という理解と共に、健朗の眉間に無自覚な皺が刻まれた。
野上はるひ。いきなり藤枝と親しげになった偉そうな女。
「……なぜ番号を知っている」
『だからボケてんじゃないって言ってるでしょ! あんたの番号聞いたじゃない』
言われて思い出した。そういえば老婦人に連絡先を聞かれ、藤枝の番号を知られてはならぬと咄嗟に自分の番号を教えたのだった。だが、自分になんの用があるというのだ。
『ちょっと聞いてる?』
苛立ちを隠さぬ声がキンキンと耳を痛めつけ、健朗も不快を隠さぬ声音で「なんの用だ」と返す。
『ええ~? まあ用って言うか~』
言い淀んだような口ぶりから一転、あはっ、と笑い声が耳を打つ。
『だって、気になっちゃったんだもん』
意味が分からない。分からないが、不快ではある。このまま切ってしまおうか、と考えつつ
「なにがだ」
と問うと、フフッと笑う息が聞こえた。
『ねえ、あんたってあいつのこと好きなんでしょ?』
続いた声に息が詰まった。
『そうよね?』
「………………」
『なんか言いなさいよ』
なにを言えというのか。そうだ、と? それとも違うと答えるべきか。分かるわけがない。
『あのねえ、丸わかりだよ? あたしのこと睨んでたじゃない。あれって嫉妬してたんだよね? あいつと仲良いとか思ったんでしょ。あいつ顔イイし、まあまあイイ奴だし、モテそうだもんね。気になっちゃうんでしょ』
「…………」
『ほんと、心せまーいよねえ』
アハハと笑う声に、カッとアタマに血が上った。
自分自身、疎ましいと考えている心の動き。なぜコイツがそんなことを知っている、という苛立ちと戸惑いはあるが、確かに事実ではある。
まったくその通りなのだが、健朗は誰にも漏らしていない。強いて言えば姉崎が察知しているようではあるが、言質を与えたことはないし、あれが軽々しく言いふらすとも思えない。
つまりは誰も知らぬはずのこと。それをさも分かったような口をきかれて、冷静でいられる筈がないではないか。
「………………」
ともかく言葉は出てこない。だが
『なんで黙ってるのよ!』
キレた声が続き、次いで、はあっ、とため息が耳を打って、少し冷静になる。
「……なにが言いたい」
『ていうか、ちょっとさあ、ちゃんとしなよ』
言葉の意味が分からず、奥歯を噛みしめたまま絞り出すような声が出た。
「……なにを」
『ていうかそれ、伝わってないよ』
「……それ?」
『だから! もう、ほんとに分かってないの? あいつ、自分が勝手に好きなだけだって言ってたんだよ?』
「………………」
やはり声は出ない。だが今度は喉に空気の塊が詰まったように感じられた。
『あんたの方はただの友情だって、大親友だって言って。自分はあんたのこと好きだけど、迷惑かけるから黙ってろ、とか偉そうに言ってたからさあ、そんなわけ無いじゃんって思ったんだけど、どうなの? ホントに厚い友情のみ? そうは見えなかったんだけど?』
唸るような声と共に、脇や背に嫌な汗が吹き出した。
─────危惧してはいた。
セックスして、その後も楽しく過ごしたから、これで良いような気もしていたが、藤枝がくれたような嬉しい言葉を返していないことが、気になってはいたのだ。だからビールを飲んで、自分を奮い立たせた。なにか言おうと、何度も思いくちを開くのだが言えず、すっかり自分に呆れて落胆していた。
『ていうかさあ、あたしも、ちょっとイイ奴だなとか、思わなかったわけじゃ無いもん。そのうえ顔も良いし、彼がいなかったら好きになっちゃってたかも』
そうだ。
藤枝は人に好かれる。男女問わず、年齢も問わず、多くの人が藤枝を好ましく思う。分かっているのだ。
ゼミや寮で多忙な藤枝と、なかなか接点を持てず遠巻きにしている中に、藤枝を好きだと思っている女子がいるであろう事も、分かっている。
だから無理だと思っていた。藤枝をこの腕に抱きしめたいなどという望みは、叶うはずがないと。なのに叶ってしまった。藤枝が言った通り、一回だけのことであったかもしれない。だが藤枝は“大好きだ”と言ってくれたのだ。
『いつか持って行かれちゃうんじゃない? 女じゃなくて、男かもだけど』
胸の奥がズキリと痛むほどの衝撃に襲われる。
かつて姉崎が藤枝を押さえつけたとき、瞬間的に脳内が熱くなったことがあった。あれが現実化するというのか?
『あ~もう! ていうかあんただって好きなんでしょ? ちょっと、ちゃんと答えなさいよ!』
「……黙れ」
思わず押し殺した声が出た。
言われなくとも、既に健朗は激しい焦燥に襲われていたのだ。
脳裏に浮かんだ、キスしたときの顔。揺さぶった背中から聞こえた呻くような声。枕に縋る腕を押さえたとき、あの背にこの胸が触れた、そして挿入したときの目も眩むような快感。あの夜の、あれを、他の誰かが─────
自分が小さい男だというのは分かっている。愚鈍を乗り越えるべく、日々精進しているつもりだが、いつまで経っても言葉ひとつ選べぬ有様でしかない。
そんな考えが脳内を駆け巡り、息さえも止まっていた健朗の耳に、呆れたような、そして偉そうな、はるひの声が響いた。
『分かった、じゃあ、あたしも考えてあげる』
なにを、と問う声すら呻くような音になってしまった健朗に、はるひは笑いを堪えきれぬと言った声音で続けたのだ。
『あんたたちが応援してくれるって、あれ、けっこう嬉しかったからさ、そっちも幸せになってもらわないと気持ち悪いし』
そこから弾丸のように繰り出される質問の雨に、ついて行くことなどできずに口ごもっては、さらに激烈な言葉の暴力を浴び続けることになった。
そうして得たわずかな情報から、このホテルにまた宿泊の予定があると知った野上は、
『なら、ムード演出するとか!』
と、いきなり勝手に盛り上がった。
『うん分かった! 好きなのはペプシと抹茶アイス、お寿司と肉全般ね? 必要な情報集まったし、しっかり準備整えてあげる! 良いムードになるように部屋作っておくから、あんたちゃんとしなね!』
「おい、なにを……」
『大丈夫、任せておいて!』
一方的に切れてしまった通話を再開する元気など無く、テントに藤枝の無防備な……いや凶悪とも言える寝顔があると思えば戻ることもできず、健朗はかなりの疲労を感じながら湖畔を歩き続けた。
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