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187.酔っ払い

 部屋の呼び鈴が鳴った。  時計に目をやって二十二時十六分であることを確認した健朗は、洗濯物を畳んでいた手を止め、腰を上げる。  藤枝が帰宅したのなら自分で鍵を開けて入ってくる。 (こんな時間に誰だ)  などと思いつつ玄関へ向かう。眉が寄っている自覚は無い。  一応、用心して扉を細く開いた。 「遅くにすいません、あの……」  ドアを開くと、知らない男が立っていた。無言で睨むような目を向ける。 「あ、の……藤枝さん酔っ払っ」 (なに!?)  バッとドアを開く。若い男の肩に寄りかかって俯いている藤枝。 「……ちゃっ……てて……」  なぜか声を途中で途切れさせた男は、藤枝より十センチ近く背が低いが、歯を食いしばるような表情になって藤枝に肩を貸し、片腕を背に回していた。  無自覚に腕が伸び、藤枝の上腕を掴む。 「よぉ~」  片手を上げてヘラヘラした藤枝は、男に身を任せ寄りかかったまま「おっ……とぉ」よろめいた。男は藤枝を支えようと踏ん張る。 「藤枝さん、ちょっと、しっかりして下さいって」 「…………」  こいつ……。密着し過ぎだ。  無自覚に眉を寄せた健朗は、上腕を掴んでいた手を強く引く。男から藤枝を奪い取るようになってしまったが、藤枝は「うほ~」などと言いながら、縋り付くように健朗の肩や背に両腕を回してきた。そして男に振り返り 「わりいな佐藤譲~、あがってけよ~」  と、ほやほやした声を出している。ぷんと酒が匂い、健朗はキツく眉を寄せた。 「いえ、その」  男の困惑したような顔を睨み付けると、顔を少し強ばらせ「では、失礼します!」と勢いよく頭を下げたかと思うと、逃げるように去って行った。 「………………」  バタンと閉じたドアを睨みつけてしまう。  アレは何者だと怒りに呑まれそうになったのだが、しかし縋ったようになったままの藤枝が「ふぅ~」と抜けたような声を漏らしたので、怒っている場合では無いと頭を振った。  藤枝は酒に強くないので、たいした量を飲まなくても酔ってしまうが面倒な酔っ払いにはならない。すぐに眠ってしまうからだ。  そもそもあまり酒の味が好きではないので、深酒をすることもない。寮の仲間や会社などで呑んでも、酒の匂いを纏って帰って来ることなど滅多に無いのだ。しかしこのように泥酔することも稀にあり、こうなるとすぐ人に寄りかかる。  そのたびに健朗は気を揉むのだが、ソレが独占欲の発露だという自覚はあり、過敏過ぎだろうと自分を落ち着かせることになる。そしてその時、非常に怖い顔になっている自覚は無い。  なにかあったのだろうか。  そう聞こうと思いはする。しかしどう言うべきか考えても、答えは簡単に導けない。さらに相変わらず重いくちは素直に動かず、健朗は「靴を脱げ」とだけ言った。 「う~、わりいな丹生田。なんかぐるんぐるんしててさ……」  へへっと笑いながらの声に、健朗はさらに一段眉間の皺を深くしながら藤枝の身体を支え、グズグズ靴を脱ごうとしている藤枝を、黙ったままガシッと縦抱きにして少し持ち上げる。 「うえっ、おい~、歩けるって~」  四の五の言っているが、構わずリビングへ運び、どさっとソファへ放って靴を脱がせる。 「……なにか飲むか」 「うん~、ビール~!」 「ダメだ」 「ぅえ~、ビールくれよ~」 「ビールの買い置きなど無い。ペプシを持って来てやる」  余計な出費は極力控えている。むろん酒など買い置きはしないのだ。  靴を玄関へ戻し、冷蔵庫へ向かいながら、やはり眉間の皺は深いままだった。さっきの男が気になっているのだ。  おそらく藤枝はあれを信頼している。そのように見えた。会社の同僚なのだろうか。 「まだ飲むって~。佐藤譲がどうしても帰りたいつったから、しょうがなく帰ってきただけなんだって~」 「……サトウユズルと言うのか」 「そ! すんげえできた新人! 俺とはゼンッゼンちげくて!」  新人か。  健朗は納得した。今年は指導社員になったのだと聞いていたからだ。そして藤枝なら、新人の指導も遺漏無くこなすだろうと確信していた。そうなれば新人が懐くだろうということも分かっている。  藤枝は誰にでも好かれる。あの姉崎ですら藤枝を厭ってはいないことを、健朗は知っている。  恋人が出来てから、姉崎は妙に素直になった。主観入りまくった惚気を垂れ流す様子から、その恋人がだいぶ年上らしいということ、そしておそらくまっとうな人なのだな、ということなどが推察でき、なんにせよ良かったと思っている。 『ほ~んと、憎ったらしいよね~、藤枝って』  橋田と三人で飲むことがわりとある。ほぼ姉崎の恋人自慢披露のためとしか思えなくなっているその場で、やつはかなり本音を漏らすようになった。 『な~んでも持ってるのに、まったく自覚無いってむかつくじゃない? 持ってるものを、なんで有効活用しないの、あのバカは?』  つまり、ひねくれた言い方ながら、あいつは藤枝を認めていて、そのうえでひねくれた対応をしている。そういうことなのだろう。  そんなことを考えつつ、健朗は冷蔵庫から取り出したペプシを、ずいっと藤枝の前に突き出した。 「おっ、ペプシ~」  ニカッと笑って受け取った藤枝は、すぐくちをつけ、ゴクゴクと喉を鳴らして飲む。テーブルを挟んだ反対側の床にあぐらをかいたのは、不用意に抱きしめたりしてしまいそうだったからだ。なのにナチュラルに喉の動きに魅入ってしまっていた。湧き上がるなにかにすぐ気づき、無理矢理引きはがした視線を、灰皿だけが置かれたテーブルへ落とす。  さっきここまで抱いてきたときは、なるべく顔を見ず匂いなども感じないようにしたし、肩を貸していた男が気になってい紛れてしまった情欲が、まだ消えていない。  こんな深酒をするほどの何かがあったに違いない藤枝に、何をしようというのだ。  そんな自分に対する怒りでこぶしを握りしめ、強く膝に打ち当てた。そうして自分を殴りたいような衝動と闘うことで、色々すっ飛んで 「なにがあった」  健朗は、ようやく聞きたかったことを声にできた。  すると藤枝はくちからペプシを離し、ふっと息を吐いて、カクッと頭を前に倒した。無自覚に眉を寄せつつじっと見ていると、片手で髪をガシガシと乱しながら「あ~……はは~」と声を上漏らす。 「やっべえな~、バレバレかぁ」 「………………」  なにも分かってはいない。けれどだいぶ前から健朗は、心に重いものがあるときは話すようにしていた。それによって藤枝も話してくれると思ってのことだが、全て話してはくれない。  ……けれど知りたい。知らなければなにも出来ない。知ったところでやはりなにも出来ない可能性が高いが、だがそれでも、やはり健朗は知っていたいのだ。ヤケ酒を飲むようなことがあったのなら、なにかあったということだけでも。  下げたままの頭の旋毛(つむじ)を睨みながら、ゴクリとつばを飲み込む。 「なにがあった」  しかしくちから出たのは、さっきと同じ言葉。 「いや、なんでも……」 「言ってみろ」  やはり言わずに誤魔化そうとする藤枝の声を遮って声が出たのは、ほぼ衝動だった。 「俺など力にはなれんだろう。だが、少しでも……助けになると、……藤枝には思えないだろうか」 「……あ~~~……」  藤枝は顔を上げないまま、弱々しい声を漏らした。 「つうかマジほんっとダメダメだってだけで、こんなん話したって、なっさけないだけ、つうか……」 「情けなくとも構わない。俺などいつも、至らぬばかりだ」 「んなコトねえじゃん。丹生田めちゃ頑張ってんじゃん。うまく行かなくたって情けなくなんかねえよ」  頭も肩も落としたまま、呟くような声を漏らした後、深いため息をついた。  ふがいない己に健朗が意気消沈するたびに、いつも藤枝はこう言う。ゆえに健朗は不思議に思った。 「……ならば、藤枝も同じではないのか」  思わず呟くと、髪を乱していた手が止まった。なにかおかしなことを言ってしまっただろうかとドキドキしていると、バッと顔が上がり、見開いた大きな目が健朗をまっすぐ見る。 「………………」  息を呑み、声を出せずにいると、藤枝は乱れまくった髪のまま健朗を見つめ、「ぷはっ」と息を吐いて、ぼんやりとした笑みを浮かべた。なぜだかものすごくホッとした健朗の眉が開き、そこにあった縦皺が消えると同時、知らず、ほう、と息が漏れた。 「は……そっか。うまく行かないの当然……て、俺いっつも言ってたか」 「そうだ。俺たちはまだ未熟、努力を要する段階に過ぎず、完璧に出来ないのも仕方が無いが、同じ失敗をしないよう精進するべき。……いつも藤枝が言うことだ。ゆえにもっと努力をせねばと常に考えている」 「……おまっ、なに、いっぱいしゃべってんだよっ……」  呆けたような顔のままだったが、くちもとは笑みの形になっていて、声にも笑いの気配があり、知らず真剣になっていたと自覚した健朗の口元は緩む。 「すまん」 「ばっか、……謝ってんじゃねえよっ」  声と共に藤枝がテーブルを超えて飛びついてきた。思わず受け止めると、藤枝の髪が頬に触れる。酒の匂いもするが、藤枝の匂いも……感じてしまい、抑えていた情動が一気に高まる。それを自覚し、引きはがそうとしたが、藤枝の両腕が、強い力で首に絡みついて離れない。 「ばっかやろっ、だよな、失敗するんだよな、俺らまだアホだからっ」 「……っ、そうだが……藤枝、離れろ……っ」  非常にマズイ。なぜなら藤枝が「ははっ!」などと嬉しそうに笑っているからだ。それは単純に嬉しいのだが、嬉しいという感情と共に湧き上がるモノが非常にマズイ。 「やーだよっ、ははっ! 丹生田やっぱおまえサイコーだなっ!」  非常に嬉しい言葉をもらって、じわっと胸の内が暖かくなるのに、股間のモノもムクッとしてくる。  まったく自分は、と奥歯を噛みしめ、必死に闘っているのに、藤枝はいつの間にかあぐらをかいた健朗にのし上がって、気を抜いた隙に押し倒されてしまった。  その上あろう事か、その体勢のまま見下ろしてきて、キスされてしまったのだ。  非常に酒臭い舌が健朗の口内を乱暴に弄ってくる。  これはマズイ。股間がどんどん熱を持つ。イカン、藤枝の話を聞かなくては。  ……と、考えてはいる。  いるのだが、藤枝はキスをしながら健朗の服を脱がし始めている。酔っ払いのナチュラルな誘惑に、手は自然とシャツを引き出しネクタイを抜き去っていた。  イカン、マズイ、頭の中で鳴り響く警鐘を気にしてはいる。だが手のひらで背や腹や胸を撫で回し始めてしまい、そうなると、一週間ぶり、今日は、と密かに思っていただけに、健朗はいつしか我を忘れてしまったのだった。

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