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190.転職
それから少し経過した、ある日曜日。
健朗は、衝撃の告白を受けていた。
「悪い丹生田。俺この部屋、出ようと思う」
つまり、同居の解消。
あまりのことに、何も言えなくなっている。
申し訳なさそうに眉尻を下げて笑った藤枝は、タバコの煙を吐き出した。
「つうか俺、会社やめるからさ」
転職の予定については聞いていた。
六田工房の社長は、藤枝が勧めるコンペに家具を出品し、結果として賞を取った。それ以降、引き合いが来るようになったのだが、それは国内に留まらず、というか海外からより多く販売権を求める打診が寄せられたらしい。
しかし職人である六田社長はそういった契約関係に暗く、いきなりの問い合わせ殺到に対応しきれずに悲鳴を上げて、頼れそうな人間に片っ端から連絡を取った。その中に藤枝も含まれていたのだ。
『あんたが出せと言ったからコンペに出したんだよ? こんなことになった責任取ってくれよ』
有給休暇を使って手伝いに行っていた藤枝は、三ヶ月後、六田工房……いや、出資を受けて株式会社六田家具と社名を変え、家具を作り販売する会社として再出発することになった、その会社で働いてくれないかと請われた。つまり引き抜きだ。
さすが藤枝だ、と絶賛の心持ちでいると、藤枝は苦笑気味に言った。
「つうか違うんだって、ヘッドハンティングとかってわけじゃねえんだよ」
年収は百万以上少なくなるし将来の展望も定かでは無い。なのに仕事は今までより大変になりそうだと言いながら、とても嬉しそうだった。
健朗にとって重要なのは、藤枝が笑っていることであり、週一回のセックスをすることである。ゆえにやりたいようにすれば良いと言った。
自分自身、会社の仕事にも慣れてきており、週に三回行っている道場でも、小学生のクラスを任されるようになって、かなり充実していた。つまりこの生活の継続こそが重要なのだ。故にその為の努力はしている。といっても、メシを作るとか、藤枝が忙しそうであれば掃除をしておくとか、できるのはその程度でしか無いのだが。
そして同居して四年になろうとしている今、藤枝もこの生活を楽しんでいるように見えていた。この生活が永遠に続くのだと、単純にそう思っていた。
そんな中、藤枝が発した言葉は、健朗にとってなにより大切なこの生活に終止符を打つと言われたことを意味した。
そんな予測は微塵もしていなかった。願望が目を曇らせていたのだろうか。
いや、問題はソコではない。つまり藤枝は転職を機にこの関係を解消したいと、そう言っているのだ。この生活に不満、あるいは不都合があったのだろう。
目の前が真っ暗になる感覚の中、脳内はさらに騒がしくなる。
いや、しかし作夜はセックスしたではないか。藤枝も気持ちよさそうで、たくさんキスもしたではないか。あまつさえ起きたら花見でも行くか、などと寝物語に話していたではないか。あれはいったい──────
「その、なんつうか」
混乱して顔を強ばらせていると、藤枝は眉尻下げたままの笑顔で言った。
「転職したらさ……ここだと家賃高い、……つうかさ」
「………………家賃……?」
「うん。給料下がるしさ、俺おまえと違って、あんま倹約とか得意じゃねえし、ココに住み続けるのは、その……ヤバいかなって、さ」
茫然自失していた健朗の表情が、やっと少し変わった。眉を寄せたのだ。
「……カネの問題……なのか」
「うん、その……情けねえんだけど」
苦笑しながらタバコを吹かしている藤枝を、床にあぐらをかいて見つめながら、健朗は考える。
つまり同居解消と言うことでは無いのか。そうだ、藤枝は車があるし、家具などインテリアに金を使うからか、あまり貯金は無い。しかし、と健朗は考える。
無意識にキツく眉を寄せ、次のタバコに火をつけた藤枝をまっすぐ見つめながら、必死に考え、考え、考え、……タバコに手を伸ばした。
一本取り出してくちにくわえ、驚いたように目を丸くしている藤枝をまっすぐ見ながら、ライターで火をつけた。といってもふかすだけだ。肺まで煙を入れはしない。
藤枝の考えていることが分からなくなったり知りたくなったとき、健朗はたまにこうしてタバコを吸ってみる。そうすることで藤枝の考えに近くなるような気がするのだ。根拠は無いが、一度そうして考えがまとまったことがあったため、健朗は同じような状態に陥るたび、タバコを吸って考えるようになっていた。
今まで藤枝の前でやったことは無いが、今はそんなことに気を向ける余裕も無く、煙をふかしながら必死に考えた。
藤枝は立派に仕事をこなす男である。まして請われて転職するほどの仕事をしているのだから、むろん健朗と同居を継続する必然性など無い。
だが、この同居を申し出たとき、健朗は藤枝と一生を共にするつもりで言ったのだ。
藤枝がそうは考えていないと言うことは分かっている。それでも叶う限り長く、共に暮らして行きたいと願っている。生活していく中で、そう言った意思表示を何度となくしているつもりだった。それは伝わっていなかったのかと、やはりがっかりする。
健朗なりに継続のための努力をしてきたつもりだった、が、このまま同居解消となったなら、それは、……それはあまりにも厳しい、受け容れがたいことだ。しかし藤枝がそう望んでいるのなら……
だが昨日もセックスしたではないか。嬉しそうに見えたのだが……それは自分の願望が見せた思い込みでしかなかったのだろうか。しかし、しかし……
「…………ならば、一緒に転居、するか」
しかし、くちから漏れたのは、ただの願望だった。
「え、一緒に……て……」
藤枝はさっきから、ただでさえ大きな目を丸く見開いている。
「一緒に引っ越しってこと?」
「そうだ」
そうだ、それで良いのではないか。
「そうだ、引っ越しだ」
とりあえずオウム返し、ようやくまともに働き始めた脳に、この危機をどう脱するか考えるように命じる。
「……勤務先が変わるのなら、住む場所も変えるべきだろう。俺も、……俺も、家賃を折半出来る方がありがたい。家賃が下がれば、その分貯金に回せる」
「ああ、そうだよな。おまえ貯金してるんだもんな。なんか買うつもりなのか? 家とか」
「………………ゆくゆくは」
いずれ、藤枝との終の棲家を。
そう考えて、健朗は就職以来、毎月三万を積み立て続けている。なぜなら藤枝にカネのことなどという細々した心配をさせたくなかったからだ。とりあえず一千万を目標として、少しでも余裕があれば金額を増やしているのだが、現在は二百万に手が届くという程度でしか無い。
だが転居して家賃が下がれば月々の貯金額を増やせる。目標達成が近づく。
「そうだ、藤枝。同居は続ける、一緒に引っ越す、そういうことでは……どうだろうか」
吸わずにただ持っているだけのタバコは、指の間で震えて、灰をがポトリとテーブルに落ちた。
「おい丹生田、灰落ちたぞ。おまえいっつも俺に灰が飛んでるとか落ちてるとかうるさいくせに」
「…………ああ。済まん」
「いいけど」
言いながら藤枝はタバコをひと吸いして、ニカッと笑った。
「引っ越してからは、あんまうるさく言うなよ」
その答えに、目を見開いて固まった健朗を見ながら、藤枝はとても楽しそうに笑った。
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