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191.部屋探し

「う~ん、さっきのトコは安かったけど、なぁ~……」 「む」  牛丼をかっ込んでいた箸を止め、健朗は唸る。 「となりの音が丸聞こえだった。藤枝は意外と大きい声を出すから……」 「ばっ」  藤枝がどんぶり持ったままの肘で健朗の横腹をどつき、慌てたようにどんぶりで顔を隠した。 「……かっ! んなトコでなに言ってんだよっ!」  怒った顔で牛丼に注目している藤枝は、耳が少し赤らんでいて、やはり美しい。  そんなことを思ってしまっている健朗は「済まん」と言いつつ口元が緩んでいる。  昼を過ぎた日曜。  牛丼屋のカウンターで並んだでかい男二人がナニやってんだ、というツッコミは、自覚のない二人の頭には浮かばない。 「ンでも、やっぱここら辺がイイんだよなあ」 「ああ。俺の会社へは少しかかるが道場に近い。藤枝の車通勤に都合が良いという条件は外せないしな」 「そ! ンで駐車場あって、リビングと別に二部屋あって、トイレと風呂が別で、出来れば洗濯物とか布団とか干せるベランダ……となるとバカ高いっ!」  どん! と、どんぶりを置いた藤枝は、水のコップを掴んでごくごく飲んだ。  その隣で大盛りのどんぶりを食い切った健朗も、静かにどんぶりを置き、漬け物に箸を伸ばす。 「こん中で削れる条件つうと……やっぱベランダは諦めるか?」 「ああ、いざとなればコインランドリーで乾かせる」 「ンでも丹生田、布団干したいだろ?」 「まあな」  ポリポリと咀嚼しながら、健朗は苦笑いを浮かべた。  無料で食える浅漬けを、いつもなら見逃しはしないのに、うっかりしていた。 (……浮かれている、ようだな。俺は)  終わるかと絶望しかけた同居生活を継続できることになった。  藤枝は既に退職し、自由時間が増えたため、部屋探しに邁進中だ。六田家具への入社は引越が終わってからになるらしい。  普通はそんな自由がきくものでは無いのだろうが、藤枝の上司となるひとが『満足出来る住処(すみか)は、仕事の能率を上げる』と言ったのだと聞いた。  変わった人らしく、彼自身、こちらに越してきたとき『人生には木漏れ日と鳥の声が必要だ』と言って、住まいを探すのにずいぶん時間をかけたらしい。通勤の苦労より日々の憩いが重要、なんだそうだ。  その話をしたとき、健朗は、藤枝の憩いはなんだと聞いてみた。 『う~ん、そうだな。丹生田の剣道、ずいぶん見てねえなあ』  ニヘラと笑いならが藤枝が言ったのはそんなことで、少し酒が入っていたから本気にはしていないが、それでも健朗は嬉しかった。  そして、藤枝も道場をのぞきに来られるように、道場近くに部屋を借りてはどうだろうと提案してみた。藤枝はとても嬉しそうに笑って言ったのだ。 『それイイな!』  そして山間部にある藤枝の職場への車通勤に都合が良いという条件も重なって、道場傍のこの地域で部屋を探すことになったのである。  あの道場は、小学生から六十代まで、さまざまな年代のひとが通い、剣道に邁進している。  通い始めの頃は、自分の鍛錬のため、煩悩を潰すために竹刀を振っていた。しかし無心になれず、脳裏に浮かぶものを振り払うのに必死になっていた。仕事でなにやらあるらしい藤枝を支えてやりたいと思いはしても、不器用な自分にはなにも出来ず、それどころかセックスをしたくてたまらないという、無様な状態から抜け出せない自分を打ち消すためだ。むろん、子供たちに教える手伝いはしていたが、単なる補佐しかしていなかった。  しかし藤枝の仕事が安定したように見えた頃、週に一度のセックスが円滑に出来るようになって落ち着いた健朗は、ようやく周囲を見ることができた。  そして思い出したのだ。  真剣に、無邪気なほど真剣に竹刀を振る子供達の中に、ひたすら強くなりたくて、出来ないことが出来るようになることが、ひとつひとつ嬉しくて、ほんの僅かな進歩でも喜べた、過去の自分を見た。  あの頃のように戻るなどは不可能だ。それは分かっている。健朗は僅かな進歩に一喜一憂するような剣道は、もうできない。  だが、子供達が僅かな喜びを見いだす手助けは出来る。  それで良いではないか。今まで覚えたことを少しでも伝えてやれば良いのだ。  そう思えたのは、道場で出会った六十を超える大先輩と何度か語り合ったからだ。禅問答のようなそれにより、己を見つめ直し、健朗は知った。  勝とうと足掻くことをずっとしてきた。それで伸びる者もいる。  しかし健朗は、望みしか見えなくなると、自分の精神は乱れるのだ。そんな自分を知ったゆえに、心身の鍛練のため、醜い自分を正すため、心を落ち着かせるためにこそ、竹刀を振る。そう決めた。  竹刀を持ち、開始線に立つとき、もちろん闘争心は生まれる。しかしそれは相手を打ち倒す為では無く、己を研ぎ澄ますためのものだ。  そんな風に考えるようになって、精神的な安定を観たように思う。  仕事もだいぶ遺漏無くこなせるようになっていた。ミスでいちいち落ち込むより、いち早くミスをカバーすることを考えられるようになって、最近では、最も厳しい青原さんにも任せてもらえるようになった。  道場で子供達に教えることも楽しい。なにげに貯金通帳を見るのも楽しい。メシを作るのもかなり手慣れて、手早く作れるようになったし味付けも安定している。  そしてこれからも藤枝と暮らせるのだ。  健朗は非常に充実している。  幸せとはこういうことを言うのだろうか、などと思ってしまうほどに。 「あ~、良いなあここ!」  内覧で訪れた部屋で、思わず声を上げた。 「ベランダも広いし、眺めも最高でしょう」  不動産屋の声に、ニカッと笑いながら振り返る。 「隣が公園ってのイイっすね!」 「ええ、二階ですが日当たりは良いですよ」 「それにリビング広いな~」 「リビングだけで二十畳くらいありますし、七十平米近いんですよ。ご希望通りトイレと浴室は別れてますし、収納もかなりあります。男性二人暮らしもオーナーさんがOKしましたし、このあたりでこの広さで、この家賃は他に無いですよ」 「そうっすね、ちょっと変わった形だけど、マジで広いし明るいし。なんでこの部屋がこんな安いんスか」 「実はこの両隣を四角い部屋にするために、余りのスペースを有効活用しようと、オーナーが無理矢理作った部屋でして、当初は趣味のために使おうと考えていて、貸し出す予定じゃ無かったみたいなんです。ほら、この木があるからセキュリティ的に……ね?」 「あ~、まあ、分かります」 「そして実は、ご希望に添わないところがひとつありまして……」  不動産屋が開いたドアの向こうに、かなり広い部屋が見えた。 「リビングの他には、この一部屋だけなんですよ。けど十分な広さはあります」  その部屋に入り「あ~……」なんとも言えない微妙な表情で、意味の無い声を出した。  その三日後。  二人で部屋巡りをした一週間後の日曜、俺は不動産屋の営業と共に、再びあの部屋に来ていた。今度は丹生田も連れてきたのだ。 「……変わっているな」  リビングは広い。大きく切られた窓の向こうにはベランダがあり、一部は三角形になっていて、ここでバーベキューなども、やろうと思えばやれそうな広さがある。その向こうは小さいながら公園になっており、ベランダから手が届きそうな位置に大きな木がある。 「この木が問題でしてね。公園からこの木を伝って入ってこれる、と心配する方が多くて……」 「泥棒が入りやすいということですか」  丹生田の低い声が問うと「はい、その通りです」と不動産屋はため息をついた。 「ですがあの木は公園に立ってる公共のモノで、切り倒すわけには行かないんですよ。しかも明治末期にとある華族が植えたっていう、歴史的に意味があるものでして。この上の階はベランダに出っぱっている部分が無いので、あの木からも遠いんですけど、ここは二階ですしね、木登りがちょっと上手だと簡単に入ってこれるって感じでしょう」 「でも、でもさ丹生田、人生には木漏れ日が必要だ、とか言う人もいるくらいで、イイ感じの木漏れ日来そうじゃねえ?」  丹生田はぐるっと部屋を見回した。いつも通り表情は出てないけど、興味は惹かれてるっぽい。  つうか形が変わってるんだ。リビングは四角じゃなく、いびつな三角、つうか厳密に言えば台形っぽい。窓のある一面は弧を描いていて、鋭角部分に廊下が繋がり、その向こうに浴室とトイレと玄関。そしてもう一つの部屋も弧を描いた壁に面して、そっちは長方形になってるんだけど、やっぱいびつな台形で、狭い方の面がウォークインクロゼットになってるから収納はバッチリ、なんだけど。  逆にそのせいで、そっち側にベッドとか家具は置けない。つまりかなり使いにくい部屋なわけ。  二人的に絶好の立地で、広さだけは十分あるし、しかも安い。丹生田がいればセキュリティの心配なんて要らないだろうし、男二人で住むってのはNGな大家さんも多くて、色々探したけど、こんな俺ら的に条件の良い物件、他には無かった。  だけど……リビングとこの部屋の他に、もう部屋は無い。ベッドを二つ置くなら、どっちかはリビングで寝なくちゃ、なわけで、それぞれの個室ってのは持てない。そこ、どう考えるか迷って、とにかく丹生田にも見てもらわなくちゃって、そのうえで相談して決めたいと思って、二人でここに来たのだ。  すると丹生田は、不動産屋をまっすぐ見て言った。 「少し、相談させてもらえますか」 「ええ、もちろんです。私はリビングの方に行ってますから」  ニコニコ言った不動産屋が部屋を出て行き、ドアが閉じるのを確認して、丹生田は黙ってコッチ見た。 「この部屋だと……ベッドは一台しか置けないな」 「うん……そうだな」  ニヘラと笑って誤魔化し、少し湾曲している壁面に向かって手を広げる。そちらには大きな窓がある。 「ちょい想像してみ? ここにベッド置いたらさ、めっちゃ気分良さそうじゃね?」 「………………」 「こっちのベッドはおまえでイイよ。俺はリビングで寝るし」 「…………………………」 「ンでさ、ベッドの周りは、なんかパーテション的なモンで囲めば。どうせ俺、眩しいと寝らんねえし、ちょうど……」  後ろから伸びた腕が胸に周り、「良い……」声が途切れた俺を、柔らかく抱きしめる。 「この広さなら。大きなベッドが置けるだろう」  耳元で、呟くような低い声が聞こえた。 「ベッドは一台で済む。リビングで眠らなくても良い」  久しぶりにドキバクが来た。なんつうか、めっちゃ…… 「この部屋に決めよう。藤枝」  てかイイの? とか、ベッド一台って毎日一緒になるつうコト? とか色々アタマん中うるさいコトにはなってんだけど、けど、けどけど、  けど────嬉しい。  ここで、丹生田と、暮らせる……んだ、よな?

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