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214.道筋

 三年ほど前のことだ。 『姉崎くんから、なにか連絡来てない?』  橋田から電話が来た。  いつも通りの淡々とした声に、健朗もいつも通り問い返した。 「いや。なにかあったのか」  すると驚くべき答えが返ってきた。 『恋人が亡くなったらしいよ』  それ以降、誰も連絡が取れなくなっているということだった。我が家にはときおり顔を出していたので何か知らないかと思ったのだという。 「……大丈夫なのか」  無意識に低くなった声で問うと、電話の向こうからも、ため息が聞こえた。  声からは判断出来なかったが、橋田も心配しているのだと分かった。どうでもいい話で、わざわざ電話してくるような奴ではない。 『職場にも行ってないらしいんだよ』 「………………」  耳を疑った。  あの、負けることを極度に嫌う男が、誰にでもツッコめるような弱みを見せるなど、ただ事では無い。 「らしくないよね。でも……」  声は途切れたが、健朗には橋田がなにを言おうとしたか分かった。『無理もない』……と、健朗も思ったからだ。  姉崎は変わった。  かつてを知る者なら、みな耳を疑うに違いないと断言出来るほど変わった。  誰がなんといおうと自分の満足しか考えていなかった、あの姉崎が。  自分より先に恋人のことを考え、その為になにかすることを喜びとしていた。  それだけではない。周囲を気遣うようになったし、人を食ったような、あの笑い方は少なくなった。相変わらずな部分は多々あったけれど、押しつけがましく垂れ流される話を聞くに、恋人も姉崎に深い愛情を抱いているようだと知れた。  おそらく姉崎の変化は、その恋人の影響なのだろうと、皆すぐに分かった。蕩けるような顔で惚気(のろけ)まくっていた姿を思い浮かべれば、推して知るべし、といったところだ。  そして与えられるだけで満足せず、自ら恋人に多くを与えようとしていた。誰かが言ったひとことに「ちょっとそれ詳しく!」などと詰め寄って聞き出すなど、恋人のために出来ることを一つでも増やそうとしていた。 『なにがあのひとの幸せか、考えつくこと手当たり次第になっちゃって』  正直、鬱陶しいほどだったが、それは非常に楽しそうで、聞かれれば皆答えたし、ダメ出しもして助言を付け加えるなど、おのずと親身になって話を聞き、相談にも乗っていた。健朗も橋田も例外では無い。 『ちょっとはまともにならなきゃ、恋人ってひとが不憫じゃんね?』  などと言ったのは誰だっただろう。  恋人のために出来ることなら、なんでもやると、自信満々に言い切った笑顔には、そう思わせるだけのものがあり、そしてそこには、幼い子供が母親に抱くものにも似た、なにひとつ疑うことの無い信頼が見えた。  そんな姉崎を見ることなど、永劫あり得ないと誰もが思っていた。誰にも心を見せようとせずに、怒ろうと悔しかろうと、いつも笑って誤魔化していた姉崎とは思えない、その人に対する絶対的な信頼。  それは単なる盲信だったかも知れない。だが、力になってやろうと思わせるような、吸引力を持っていた。  ともあれ、生ぬるい笑みで見守られつつ、恋人との時間を充実させることに邁進する姉崎が、健朗は羨ましかった。  自分も、藤枝になにかをできないか。ずっとそう思っているのに、なにもできていないからだ。  愚鈍で至らない部分は今もあるが、前に比べればだいぶ成長したように思っている。それが全て藤枝のおかげだということも分かっている。しかし健朗は、なにも返せていなかった。 (これではいけないのではないか)  そんな一心で毎日メシを作った。それ以外の家事も率先してやったが、なんの苦にもならなかった。自分は元々、こういう細々としたことが向いている。だが、アイロンだけは藤枝に頼んだ。  同居し始めた頃、「俺、アイロンがけはうまいんだ」と藤枝が言った。 「高校ンときブレザーだったからさ、お袋が忙しいときとか、親父の分までアイロンしたんだぜ」  そして確かに健朗より手早くきれいに仕上げるので、アイロンは任せたと健朗が言うと、嬉しそうに「任せとけ!」と宣言したのだ。  そして健朗のワイシャツにアイロンをかけると、かならず直接手渡してくるのだが、そのときの『どうだ』とでも言いたげな、自慢げな顔を見るのは、健朗の喜びだった。ゆえにワイシャツのアイロンだけは、未だに藤枝に頼んでいる。  多忙な藤枝との接点を少しでも多く欲しいという、いじましい理由からでもある。たゆまぬ努力の結果として、実は健朗もアイロンがけは上達しているというのに、あの顔を見たいという欲望が勝つ。自分はその程度だ、とひっそり落ち込みつつも、やはり藤枝にアイロンを頼んでしまっていた。  恋人が亡くなって、誰も姉崎と連絡が取れなくなり、皆が心配していた中、 「あいつ、うちの店に来たぞ」  と庄山先輩が連絡してきた。 「相変わらずの厚顔無恥、恥ずかしい奴だ」  という先輩の評価はいまさらではあるが、それゆえに姉崎らしい行動をしているのだと、皆安心した。  それから一年も経たないうちに、姉崎は有名人になってしまった。  多忙でもあるようで、顔を合わせるような機会は無くなったが、ウェブで、雑誌で、テレビで、姉崎をよく見かけるようになった。そのたびに不思議な気分になったが、こうなるのも無理はないという感覚もあった。良くも悪くも、あれは一般的では無かった、と皆で言い合っていた。  そしてテレビや写真で姉崎を見るたび、健朗の胸は疼くように痛んだ。  そこにいる姉崎が、人を食ったような昔と同じ笑顔に戻っていたからだ。恋人と暮らしていた頃の表情とはまったく違うそれは、健朗の奥底にあった怯えを助長した。  ──────もし藤枝を失ったなら (自分も以前のように戻ってしまうのではないか)  やはり藤枝はたいした男なのだ。学生時代に感じていた以上に、健朗はそう実感していた。  周囲を巻き込み、自然と多くの助力を得て、より大きな結果を導いている。藤枝に関わった人は皆、より良い方向へ進んでいるように見えた。なぜならこの部屋に来る多くのひと、……同じ会社の連中はもちろん、大鳥も照井も、佐藤さんも、みな藤枝を好いていて、頼りにしているのが分かるからだ。  それを誇らしく思うのも事実だが、恐ろしくもあった。  いつか、自分より遙かに優れた誰かが、藤枝を連れて行きはしないかと、そんな怯えが常に健朗を(おびや)かし続けるのだ。  ベターハーフなのだという自覚と共に、心身共に落ち着いてきたからこそ、健朗はこの状態を、より確かなものにしておきたいと心底から願っている。しかし、どう転んでも愚鈍な健朗には、確かな方策など見つけられなかった。  保美に言えば『まったく、うちの男どもは!』と怒られるだろう。しかし健朗なりに努力はしているのだ。 『ベッドは一台で済む』──────これからは一緒に眠ろう 『もう引っ越すこともあるまい。家具は買い取ろう』──────このまま二人で暮らしていくのだろう  それらは確かに、藤枝に伝わったと思っている。なぜなら非常に喜んでいたし、嬉しそうに涙ぐんでもいたからだ。  そんな状況を聞き出した保美が、呆れたようにため息をつきつつ、洒落たコトも言うべき、ロマンティックなコトもするべきと再三ハッパをかけてくるので、そうかと深く反省し、具体的な言葉も考えた。考えたが……そんな言葉が脳裏に浮かんだ時点で激しい羞恥を覚えてしまい、それをくちに出すなど不可能としか思えなかった。  それでも、いつか、藤枝には伝えたい。  死が二人を別つまで、末永く共にありたいと、心から願っているのだと言うことを。  とはいえ、いざというときにくちが固まる可能性は大だ。アドリブが効かない自覚もあるので、実は密かに練習している。  作夜も、少し苦しそうな藤枝の寝顔を見下ろしながら呟いていた。 「藤枝、頑張れ。……ずっとそばで見守っている。死ぬまで隣に俺がいる。だから頑張れ」  そんな風に、いつか起きている藤枝に言うのだと、寝ている藤枝相手に練習を重ねている日々である。  いつか言うのだ。  死ぬまで共にあってくれと。  その思いを新たにしつつ、健朗は寝ている藤枝にキスをした。  すると眉間の皺が消え、くちもとが少し笑ったように見え、少し安堵する。 「俺はおまえといるぞ。いつまでもな」  自分に確かめるようにそう呟いて、さらに安堵を覚え、ようやくベッドに入った健朗は、すぐ隣から聞こえる健やかな寝息を聞きつつ目を閉じたのだった。  今朝、ぐっすり眠っている藤枝にキスして、作夜よりずっと穏やかになっている寝顔に安心しつつ、天気が良かったので、カーテンを開かぬように気をつけつつ窓を開け、気持ちの良い風だけが通るようにして出社し  ───────倒産を知らされた。  仕事を失う。  失業する。  収入が無くなる。  ────どうしたらいい。  呆然としたまま帰宅し、藤枝にどう告げれば良いか、そう考えて、また呆然とした。  愚直で不器用な自分が、再就職など出来るのだろうか。こんなことでは、藤枝を支えることが出来ないのでは無いか。共に暮らし続けることも難しいのではないか。貯金はあるが、藤枝にがっかりされてしまうのではないか。愛想を尽かされてしまうかも知れない。どう言えば落胆されないだろうか。  脳内は混沌として、まだ眠っているのか、それとも出かけたのか。それを確かめることもせずに、ソファに座ったまま考え続けた。寝室のドアを見つめつつ、考え、考え、考え、考え、────いつのまにかタバコに手を伸ばしていたらしい。  結論が出ぬまま、やがて藤枝が起きてきて、なぜか辛そうな顔をしていたので、ソレが気になった。  自分のことより藤枝だ。むしろコレで愛想を尽かされるなら、今、このときをおいてチカラになれる機会も無くなるかも知れない。ならば今、できることをせねば。  そんな想いは渦巻いていたが、やはり重いくちは上手く動いてくれず、なにも伝えることが出来なかった。  そんな自分に今さらながらがっかりしていた。だが。  藤枝が転勤すると、北海道へ一人で行くつもりだと気づいたとき、そうはさせるかと考えたことで、────(ひらめ)いたのだ。  そうだ、今の状況であれば、後顧の憂いなく藤枝と共に行ける。むしろ失業は良いタイミングなのだ。  それは寸前まで混沌としていた健朗の脳をスッキリと整理した。  先ほどまで思い悩んでいたことなど、愚鈍な自分らしい無駄な考えでしかなく、むしろ好機なのだと気づいた。これは既に、天かなにかに導かれているとしか思えん、と思い至ったのは、保美のよく言う『オーマイゴッド!』とか『サンクゴッド!』の声が頭に響いたからだが、それは深い納得を健朗にもたらした。 (これはそういう運命なのだ。俺は藤枝についていくと、そう決まっていたのだ)  つまり神様とかいうものの導きだ。 (ありがたい)  健朗は、生まれて初めて、神に感謝していた。

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