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213.健朗の事情

 丹生田健朗は、不思議なほど静かな気持ちになっていた。  仕事もまともに出来ないで藤枝と肩を並べられるものかと絶望し、失業をどう伝えようかと思い悩み、隠し事をしている藤枝に苛立ち……どす黒いまでの醜い自分が噴出しそうになっていた。そんなつい先ほどまでの自分が嘘のようだ。  必死に混乱を収めようと、手のひらをこちらに向けている藤枝拓海を見つめていたら、逆に自分が落ち着いた。 (……単純なものだな、我ながら)  一緒に行ける。藤枝の行くところへ。失業したからこそ行ける。  失業はマイナスでは無かった。かえってこれからの道筋を分かりやすくしたのだ。  保美がよく言う『オーマイゴッド』という言葉は、このときにこそ使うべきなのではないかと、そんなことを考えていた。  妹の保美が日本の大学に招聘され、それを受けて本格的に帰国を決めた際、アメリカへ来て引っ越しを手伝えと言われた。1年以上前のことだ。 『休暇申請しなさい! 家族の一大事なんだから、それを拒む会社なんて辞めるべきよ!』  しかし健朗が『藤枝が忙しそうなので、今は家を離れたくない』と断ると、保美は電話の向こうで嬉しそうに笑い、『分かったよ』と言った。 『拓海は健朗のベターハーフなわけだし、アタシとしても尊重するしかない。今回はワガママ言わないよ』  物わかりの良い保美に不気味さを感じつつ、ベターハーフとはなんだと健朗が聞くと 『魂の片割れ、と言うような意味ね。そもそもの原典はプラトンの饗宴と言われてる。元々はひとつの身体だった人間を……』  言葉の成り立ちについて講義が始まりそうになったので、そこはイイ、と押しとどめる。 『日本語で言うと、どういう意味だ』 『そうねえ、日本語だと……“配偶者”、“パートナー”、あとは、そう、“良き伴侶”?』  なるほど、と納得し 『そうだ、藤枝は俺の良き伴侶だ』  と答えると、保美は爆笑したが、父にもそれを伝え、 『健朗のセクシャルオリエンテーションを否定することは許さない!』  と宣言し、父は納得を返した。  それ以降、健朗は心身共にかなり落ち着いた。  つまり、伴侶、その位置づけで、家族も納得しているのだ。伴侶とは、男女で言えば夫婦のことであり、つまり藤枝は、生涯を共にする相手であるという認識で良いのだ。  しかし会社では、非常に忙しい思いをしていた。退職するひとが相次ぎ、単純に一人あたりの作業量が増えたためだ。このところ道場にも顔を出せていない。  先日、青原さんも退職した。置き土産のような言葉を残して。 『おまえも早めに身の振り方考えとけよ。……巻き込まれる前に』  つまり──── (会社が危ない、ということなのだろう)  むろん、一般社員に周知などされていない。だが少し考えれば分かる。先月、大口の取引先が倒産したのだ。『うちも連鎖倒産とか』などという声が、黙っていても耳に入ってきていた。  ただでさえ少なくなかった作業が倍増しており、ぼんやりしているヒマなど微塵も無い日々となって、転職先を探す余裕など無かった。  目の前に山ほど仕事があるのだ。二つのことを同時進行出来るような器用さは無い。ゆえに湧き上がる不安を押し潰して、健朗は作業に没頭していた。  ……正直、身体より心が疲れ切っていた。  こういうとき、健朗はいつも藤枝の笑顔に、声に、救われていた。しかし藤枝も非常に忙しいようで、そのような甘えを向けることは出来なかった。藤枝の価値ある仕事の妨げになるようなことは出来ない。  それでも毎日、藤枝が帰宅して、自分の作ったメシを「うまい」と食う笑顔を見て、同じベッドで眠るだけで、そのとき不安は解消された。つかのま、その場しのぎ、些細な気の持ちようの改善に過ぎないとしても、やはり藤枝はたいしたものだと感じるばかりだった。  昨日は会社で飲み会があると聞いていた。  残業を終えて帰宅した健朗は、しかしそれを忘れて自動的にメシの支度をした。  煮干しと昆布を水につけておいた鍋に火を入れ、ダシをとる。残業時間も予測してタイマーをかけておいた炊飯器の蓋を開き、米をほぐしてから、野菜を切り、鍋が一煮立ちしたので煮干しと昆布を取り除き、ネギとわかめを放り込んで味噌を溶く。豚肉の細切れと野菜を鍋に放り込んでざっと炒め、豆腐も入れて味付けをし、蓋をする。肉豆腐にしたのは、十分も火を通せばできるお手軽メニューだからだ。胃にも優しいし、豆腐二丁を使っているのでボリュームもある。  などと考えながら、健朗は肉豆腐丼にすることにして、大ぶりのどんぶりに米を盛り、出来た肉豆腐を乗せて、浅漬けと一緒に冷蔵庫から取り出した卵も乗っけて食卓に着き、そこで初めて、藤枝が夕食を取らない可能性に思い至ったのだった。  しかし作ってしまった。しかも豆腐を二丁使ったのでかなりの量がある。悩みながら、ふう、と無意識に息を吐いて手を合わせ、箸を取りつつ、自然に目が、室内を巡った。  ──────良い部屋だ。  最初に来たときは、変な部屋だとしか思わなかった。  しかし藤枝があれこれ整え、非常に居心地の良い空間にしてくれた。最初は白木の多い、優しい色調の明るい部屋だった。しかしその頃の家具は、一部寝室に持って行き、残りは運び出されて、今は落ち着いた色調の、どっしりした家具に変わっている。  ソファ前のテーブルには、南部鉄の灰皿が置いてある。この七月、健朗が買ってきたものだ。 『拓海の誕生日っていつ? 二人っきりでお祝いするの?』  からかうような保美の声に、いままで誕生祝いなどしたことが無いと答えると、保美は非常に心配そうに眉を寄せた。 『誕生日に「産まれてきてくれてありがとう」とか言わなきゃ。そういうの大切だよ』  なるほど、そういうものか。しかしそんな恥ずかしいことが言えるだろうかと悩みつつも、初めて誕生日に贈り物をしてみようと思い、考えに考え、悩みに悩みまくったあげく、これを藤枝に贈ることにした。  黒い鉄。  どっしりとした存在感。  自分が藤枝にとって、このように重い存在となれば良い。……そんな願いを込めたなど、知られたら羞恥で死にそうになるのは予測出来るので、無論くちに出してはいないし、保美が言えと言ったような恥ずかしい台詞も言えなかったのだが。 「おお~、めっちゃカッコイイ!」  藤枝が非常に喜んでくれたので、思いは通じたのだと安心した。  大切にする、灰皿をきれいに使うと、嬉しそうに誓ったにもかかわらず、それは翌日、速攻破られた。 「始末をすると言っていなかったか」  灰皿を磨きながら睨んで言うと 「わりい」  あはっと笑っていた。────非常に幸せな気分になった。  そんなことを思い出し、健朗は心穏やかに飯を食った。  かなり遅くなって帰ってきた藤枝は、珍しくかなり酔っていた。 「おお? イイ匂いする~」 「済みません、なんか今日はいつもより飲んじゃってて」  いつもはさほど飲まないのに、と思いつつ、佐藤譲の肩を借り、すっかり寄りかかっていた藤枝の腕を引いて引き取る。  コイツには害が無いと分かっているので、「そうか。済まなかった」と礼を言い、上がっていくかと聞いたが、佐藤譲は固辞してすぐに去ったので、縦抱きに抱えた藤枝を食卓へ連れて行く。 「うまそうな匂い~、今日なに?」 「肉豆腐だ」 「マジか! 食う食う」  などという会話に、食ってくれるのだと嬉しくなりつつ、料理を温める。  ココまで酔っていては、着替えなどさせてると眠ってしまうので、少しでも早くメシだけ食わせるべきだ。飲んできたのならさほど食わないだろうと考え、米は盛らずに浅漬けとみそ汁だけを添えた。 「うまそ~! いただきます!」  さっそく箸を伸ばした藤枝に、無自覚に目を細めつつ、健朗も茶を入れて向かい側に座る。 「珍しいな。だいぶ飲んだようだが」 「ん、や、部長がさ、あと営業みんなで、打ち上げつか。ホラ支所立ち上げの」 「そうか」  それにしても、藤枝が深酒するときは、決まって何かがあるときだと知っている健朗は心配になる。 「うん、明日から連休。久しぶりに」  ニカッと笑う顔を見て、また無自覚に笑みつつ、 「そうか。良かったな」  と、それは本気で言った。ここしばらく休みが無かったようなので、休みを取れると聞いてホッとしたのだ。  食い終えた藤枝が、食器を下げようと立ったが、この調子では食器を割ってしまいそうだった。 「いい。座ってろ」  そう制して食器を洗い、キッチンから出ると、藤枝は、南部鉄の灰皿に吸いさしを置いたまま眠っていた。  眉間に薄い皺の残る、安らかとは言い難い寝顔を見て、ため息をつきつつ、藤枝を抱き上げてベッドに運び、服を脱がす。緩めてあったネクタイを抜き、スーツを脱がせてハンガーに掛け、ワイシャツを脱がせた。アンダーシャツとパンツだけになった藤枝が「ん~……」などと声を漏らすので、うっかり欲情してしまわないよう、目を逸らして慎重に布団を掛ける。  健朗は、ここを(つい)棲家(すみか)にするのも良いか、などと思っている。ゆえにそういう想いも含めて行動しているし、健朗的にはかなり頑張った言葉を向けているつもりだ。  が、やはり足りないという自覚もある。  信じがたい変わりようを見せた、あの男の影響なのだろうと思う。  信頼出来ると思ったことなど無かったのに、奴の言葉に従ったことは少なくない。後に踊らされていたと気づき忸怩たる思いを抱いたこともあった。好きか嫌いかで言えば、好きでは無いと答えるだろう。  それでも思ってしまったのだ。  羨ましいと。あのようにできるならと、思ってしまった。  そしてその後、あのようにはなりたくないとも思ったのだった。

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