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第1話

 時計の針は十二時を過ぎて、駅から離れた住宅街は静寂の中にある。  白鶴組の面々が居を構える日本家屋の陰からは、涼やかな虫の音が響き、その隣に建てられたコンクリート壁のガレージも静まりかえっていた。  シャッターは閉じられ、黒いセダンと白いワンボックスカーが並んでいる。 「……っ、サト……ッ」  息を弾ませた武彦(たけひこ)がぐっと近づき、ワンボックスの後部座席の隅に追いやられたサトのか細い呼吸が奪われた。人目を忍んで逢い引きするふたりの体温は、真夏の頃のように火照りを帯びる。 「も、イキそ……」  低くかすれた男の声に煽られて、自分自身を掴んだサトにも限界が訪れた。息を弾ませながらうなずく。ほぼ同時に、また熱烈なキスが始まった。  ねっとりと絡んだ武彦の舌先は執拗で、サトの腰は耐えきれずに震え出す。 「あっ、は……。ヒコ、さんっ……ぁ」  息を引きつらせながら喘ぐと、頬を合わせた武彦も呻く。  どちらが先ということもなかった。タイミングを計ったように絶頂が弾け、はぁはぁと荒く繰り返される息づかいが混じり合う。サトが細く視線を開くと、座席の下に転がしているペンライトの明かりの中に、武彦の汗ばんだ顔が見えた。凜々しく引き締まった頬と、睨みつけているような印象を与える三白眼。  ライトが明るくしているのは車内だけで、あとは手探りしなければならないほどの真っ暗闇だ。 「だいじょうぶか」  武彦は、引き剥がしたコンドームの口を器用に結んだ。顔を覗き込まれ、脱力していたサトはぼんやりと視線を返す。  早く後始末をしなければとわかっていても、興奮が弾けたばかりのからだは脱力していて、指先さえもうまく動かせない。 「そういう顔……、ほんと、おまえは」  あきれたように言われ、サトは弱々しく笑みを返した。意味を問う余裕もない。  武彦の視線が下へ向き、サトのコンドームが引き剥がされる。 「……少なくないか? こっそり抜いてる?」  口を結んだばかりのそれを目の高さに上げられ、サトは慌てて身を起こした。 「やだっ、ヒコさん……っ」  奪おうと手を伸ばしたが、武彦はさっと身を引いた。自分の使用済コンドームを捨てたのと同じように、サトのそれもゴミ袋代わりのコンビニ袋へ入れてしまう。それから、備え付けのウェットティッシュを引き寄せた。いそいそと、濡れた股間を拭く。  行為が終わった後は、いつもどこか滑稽だ。  ラブホテルだったなら、しばらくぼんやりと天井を眺め、それからシャワーを浴びる。裸で移動しても平気だ。  しかし、ここは自宅横のガレージで、風呂へ行くにも、服を着なければならない。一度、外へ出て、勝手口から台所を抜ける。同居人たちがいるから、裸のままとはいかない。そもそも、ふたりきりの生活なら家の中で堂々とセックスができるはずだった。  岸本(きしもと)武彦が組長代理を務める『白鶴(はくつる)組』は、共同生活を送っている。  最年少は幼稚園児の陸(りく)(五歳)から最年長は若頭の田中(たなか)茂夫(しげお)(八十歳)まで。総勢八人。現在はサトを含めて九人だ。  強制ではなく、個々が好きこのんで、肩を寄せ合っていた。  サトが白鶴組に紛れ込んでいるのは、事故で記憶喪失となった折りに拾われたからだ。記憶はすぐに戻ったが、そのまま居着いている。 サトこと里見(さとみ)慎也(しんや)は、二十三歳だが大学三年生。現役ストレート入学ののち、一年休学で二回目の三年生だ。  そして、紆余曲折の末に恋人同士となった武彦は、弱冠二十八歳にして、露天商の元締めを生業とする『白鶴組』をまとめあげている。組長の市川(いちかわ)は、愛人宅に入り浸っていて不在だ。 「サト……」  武彦に呼びかけられる。パジャマ代わりのハーフパンツを下着ごと引き上げていたサトは動きを止めた。武彦の声は息遣いに変わり、くちびるをそっと塞いでくる。  事故で記憶喪失となり、白鶴組に拾われたのが、今年の梅雨の頃。そして、本格的な夏が来る前、恋人同士になった。ケジメを大事にする武彦がサトの母親に結婚まで申し出て、 男同士ながら、婚約したも同然のふたりは、同居しながらひと夏を過ごした。しかし、恋人らしくからだを重ねた回数は、片手で数えきれる程度だ。  それが普通なのか、少ないのか。わからないながらに、サトは物足りなさを感じていた。 「やっぱり、車を出せばよかった」  キスの合間に武彦が言う。  触り合っただけでは不満なのが、低い声のトーンにはっきりと表れている。  熱帯夜の間は、車の中で抱き合うことさえ、汗が滝のように流れるので叶わなかった。  家の中で唯一クーラーを稼働させているサトの寝室でならできたが、盗み聞かれる可能性はゼロじゃない。武彦が落ち着かず、一度か二度試しただけだ。そのときも最後まではしなかった。 「ヒコ、さん……」  キスがどんどん深くなり、サトは思わず身をよじった。解消したと思ったばかりの欲求が胸の奥に広がって、心よりも腰のあたりが不穏になる。  射精することと抱かれることは違っていると、武彦と肌を合わせて初めて知った。  武彦も特別に感じているのかと考えるたび、サトの胸の内は複雑になる。ただ出したいだけじゃなく、抱き合ってセックスがしたいと思われているとしたら、まるで奇跡だ。 「抱きたい」  頭の中を覗いたようなタイミングではっきりと言われ、サトはどぎまぎと背中へ腕を回した。愛情を疑ってはいない。だけど、恋人になってまだ二ヶ月ほどだ。  恋愛慣れしていないサトには、まだいろいろと不安がある。 「……この前、したばっかり」  からだで男の体温を感じ、夏の終わりの甘く濃厚な時間を思い出す。  ヒグラシの鳴く夕暮れだった。車でラブホテルへ入り、宿泊料金に切り替わる直前まで裸のまま過ごしたのだ。そんな時間が特別だったから、いっそうふたりは欲求不満になっている。 「わかってる、けど」  息を吐きながらからだを離した武彦が、座席に寄りかかった。普段から不機嫌に見える目つきの悪さに、サトは慣れている。 「したくないんじゃないよ」 「だから、わかってる。……戻るか」  声も不機嫌に聞こえた。口を結んだコンビニ袋を手に、さっさと車を出ていく。 「あ、ライト。……頼む」  声をかけられ、サトはペンライトを拾い上げて車を降りる。  武彦が裏の出入り口へ近づくと、赤外線センサーが反応して天井の明かりがついた。ドアの外にはコンクリート敷きの小道があり、勝手口へ続いている。屋根付きだから、雨の日も濡れずに済む。  勝手口から台所へ入っていくTシャツ姿の背中を追いかけ、サトは言葉を探していた。  ぶっきらぼうな武彦だが、根は優しくて頼りがいのある男だ。目つきが悪くて、言葉も悪く、口より先に手の出るタイプ。責任感の強さは人一倍で、白鶴組の面々からも深い信頼を得ている。  台所のゴミ箱へコンビニ袋を突っ込み、武彦は冷蔵庫から麦茶を取り出した。グラスに移して飲み干し、サトへも差し出してくれる。  汗ばむようなことをしたからだに、冷たい麦茶が染み渡った。  廊下の向こうの居間からテレビの音がする。深夜だが、まだ誰か起きているのだ。若い陽介(ようすけ)と健二(けんじ)だろう。 「俺はもう寝るから。シャワー使えよ」  武彦が言った。一緒に、とはならない。ふたりの関係は公認だが、まだ幼い陸の手前、節度は守る必要がある。汗を流すぐらいならすぐだからと、事後のシャワーに誘ったこともあったが、武彦は眉をひそめて嫌がった。 『フェラチオ』や『手コキ』で抜き合った後でも、裸を見ると止まれないのだと言われ、サトは冷たくされる以上に戸惑った。もちろん、サトの方も武彦の裸にはドギマギしている。  猛烈な性衝動を感じるほどではないが、見たいとは思う。特に、シャワーを浴びる武彦の無防備な後ろ姿が好きだ。  何度か眺めた姿を想像してしまい、からだがふわっと熱くなる。腰のあたりが痺れて、思わず武彦を目で追った。 「……サト」  困ったような、諭すような口調で、武彦が視線をそらす。 「誘うなよ……」 「え?」 「わかってないから、困るんだっつーの。先に寝る」  あっけなく背中を向けられて、 「う、うん。おやすみ、なさい」  そうとしか言えないサトは、台所のシンクの中にグラスを置いた。そのままうつむく。  武彦とセックスをするようになって、気持ちのいいことだとからだが知って、相手に欲しがられていると思うだけで疼くことが増えた。  シャワーを浴びる武彦の後ろ姿を、また思い出す。  ただ眺めているだけでなく、手を伸ばしてすがりつきたいと考えている自分に気づく。そのままセックスが始まって、拒みきれずに受け止める妄想をしそうになる。  ぐっとくちびるを噛むと、後ろから手が伸びてきた。  台所を出たはずの武彦だ。 「……シャワー。付き合ってやるから、さっさと来い」  あご先を掴まれ、促されて振り向いたくちびるへ、短いキスが当たる。 「あ、うん」  またすぐに離れていく武彦を慌てて追いかけた。居間には陽介と健二がいた。深夜番組のトークに声をあげて笑っている。  ごく普通の足取りで歩く武彦を、サトは忍び足で追いかけた。  抱いてもいいと言えないのに、みんなには気づかれないようにしてしまう。肝心なことはしなくてもかまわないから、汗を流すついでに抱き寄せて欲しいと、本心では考えているからだ。コソコソしたまま、もっと親密になりたい。  脱衣所へ入る前に、武彦が振り向いた。なにか言いかけて口を閉ざす。  問い返すことができないまま、サトは静かに中へ入った。

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