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第2話
武彦が家でサトに手を出さない理由は簡単だ。
始めてしまえば最後、歯止めが利かなくなる。それが冗談でも言い訳でもないことに、サトも気づいていた。
武彦の絶倫は本物だ。精力旺盛な上に、回数を重ねる。いわゆる『抜かずに何発』というセックスができてしまうタイプだから、うかつに始められない。
目覚まし時計のベルに起こされたサトは、ぼんやりと部屋の中を見た。鍵のかかる洋室だ。元々は市川組長の自室だったのを譲られた。サトのアパートを引き払うときに持ち込んだ勉強机と本棚が置かれ、部屋の半分をダブルベッドが占めている。
武彦と結婚の約束をしたサトへ、市川組長が贈ってくれたベッドだ。もちろん、節度という名の禁欲を自らに課している武彦が一緒に眠ることはなく、寝ぼけてやってくるのは幼い陸だ。
今朝も、気づかぬうちに潜り込み、空いたスペースにごろんと転がっている。
トイレへ行って、ドアに鍵がかかっていなかったので入ってきたのだろう。夜ならベッドへ戻すが、明け方はそのままだ。赤ちゃんのように見える無垢な寝顔が愛らしい。
「りっくん。朝だよ」
声をかけると、小さな子どもは丸くなった。それから両手足をぐんと伸ばし、勢いよく起き上がる。
「おはよう、サトさん。トイレ行ってくる」
そう言ってベッドを飛び下りると小走りに部屋を出ていく。寝起きのいい、チビッ子だ。
サトは着替えてから、洗面所で顔を洗った。洗面台はふたつあり、その奥にトイレの個室もふたつ並んでいる。
ドアを少し開けたまま用を済ませる陸が出てきて、踏み台へ乗った。手を洗い、ついでに顔も洗って、サトからタオルを受け取る。
「ご飯を作るから、みんなを起こしてね」
「はぁーい」
かわいい返事を聞いて、洗面所の前で二手に分かれた。
サトの仕事は、朝昼晩の食事作りを含む家事全般だ。家賃の代わりにと請け負っているが、すべてをひとりでこなしているわけじゃない。
こまごまとしたことは、元々家事を分担していた若手の荒井(あらい)陽介と岩田(いわた)健二が、手伝いに回っている。
台所へ向かったサトは、同居人たちを起こして回る陸の声を聞きながら、エプロンを身につけた。
陸が向かうのはまず、洗面所の並びにある洋室だ。
二段ベッドがふたつ入っていて、陽介と健二、それから中堅どころの杉村(すぎむら)雅也(まさや)が同室になっている。陸の寝床も、本来はこの部屋だ。
エプロン姿になったサトは、朝食の準備に取りかかる前に、居間へ顔を出す。縁側に最年長の若頭・田中茂夫の背中が見えた。腰を悪くして入院していたが、ピンと伸びた背中にその気配はない。朝はまだ調子がいいからだ。
「おはようございます」
開け放ってある襖の内側に膝をついて声をかける。田中は、新聞を片手に振り向いた。そばには自分で用意した湯のみが置いてある。
頭がつるりと禿げあがり、人相はいかついが、笑顔に愛嬌がある。
老人だから朝が早いというのが本人の弁だ。朝も早いが夜も早い。仕事がなければ、陸を寝かしつけてすぐに眠ってしまう。
部屋は武彦と一緒で、サトの洋室の隣にある仏間だ。続き部屋では、年長の北原(きたはら)勉(つとむ)と宮本(みやもと)博(ひろし)が寝起きを共にしている。
『今日の天気』を田中から聞き、サトは台所へ戻った。そこへ、陸に起こされた杉村がやってくる。愛称は『まっさん』だ。
「おはよう、サトさん」
すでに衣服は整い、ウェーブのかかった長めの髪をオールバックに撫でつけている。飄々としたところが魅力の粋な男だ。
「おはようございます」
サトの声を遮るように、廊下から陸の声が聞こえてくる。
騒がしいのは、寝起きの悪い若手ふたりをしつこく起こしているからだ。テレビの深夜番組で夜更かしをしたのだろう若手の陽介と健二は、今朝もすっきり起きられない。それも日常的な朝だった。
陸が声をかけるよりも早く、喧噪で起き出した五十二歳の強面・宮本博と五十歳の色黒・北原勉の中年コンビが台所に顔を見せる。挨拶を投げると、パジャマ代わりのTシャツと甚平のズボン姿のまま、居間の縁側へ向かう。
彼らの起き抜けの日課は、若頭である田中と並び、『朝の一服』をすることだ。
サトが朝食の準備に取りかかり、杉村がコーヒーメーカーの用意をする。
他人に気取らせないが、彼は右の肘先を欠損していた。しかし、たいていのことはひとりでこなす。できないことがあれば自分から声をかけるし、年長、年少を問わず杉村のことは気にかけていて、サトが気づくよりも早く、さっと手伝って去っていく。
杉村が「どうも」と言えば、相手も「どうも」と返す。それだけのことだ。
白鶴組はヤクザ三割と言われるテキ屋集団の元締めで、指定暴力団ではないが、限りなく隣接した『はぐれ者の集まり』だ。それぞれが『世間』に不適合な部分を持ち、生きづらさを感じて身を寄せている。
だから、根っこの部分は優しいだけの男たちじゃない。それはサトも知っていた。
世の中から弾き出された彼らが、腐りもせずに生きているのは、白鶴組がかばっているからだ。善良であれと命じ、そのためになら身を挺しても守ると約束した、組長の存在が大きいのだと組長代理の武彦は言う。
いまとなっては、武彦がその責任をすべて背負っている。いまだに組長を頼りにしているのは武彦だけだと、稼ぎ頭である北原勉は笑う。
離婚を機に『家出』した市川組長は愛人宅へ入り浸り、武彦が引退を認めてくれるのを待っているのだ。
「サトさーん。おはよ~」
大きなあくびをしながら現れたのは、顔を洗ったついでに髪も濡らしてきた健二だ。ケン坊と呼ばれる彼は二十歳で、幼稚園児の陸を除けば最年少だ。
「なんか……、きれいだね」
今朝初めて気づいたような顔で言うと、背後から陽介の平手が飛んでくる。
「さっさと出ろよ! ヒコさん、起きてくるぞ」
サトと同じ年齢の陽介はぐいぐいと弟分の背中を押して勝手口へ向かう。年長組に遠慮する彼らは、毎朝、勝手口の外で朝の一服を済ませている。
「あぁ、サトさん」
健二を先に行かせた陽介がくるりと振り向いた。女泣かせの甘い容姿は、朝から爽やかだ。
「今日もすごく、きれいだよ」
まっすぐに見つめられたサトが愛想笑いを浮かべる前に、杉村がふたりの間を横切った。
「陽ちゃんの言葉は軽いよなぁ。あっはは」
「まっさんこそ!」
追い払われた陽介は、機嫌を悪くするでもなく勝手口の向こうへ消える。
白鶴組の朝食は曜日で決まっていて、今日は和食の日だ。
卵焼きに納豆、漬物、白飯とみそ汁。
あとは自分たちの好みで佃煮や海苔を出す。
サトはまず鍋で出汁を取った。作るのは卵焼きとみそ汁だけでいい。白飯は前の晩に仕掛け、炊き上がりを予約してある。
みそ汁の具は、豆腐とわかめ。卵焼きは二種類作る。砂糖を入れて甘くしたのと、だし醤油を入れたものだ。
「サトさん、今日は大学のある日だよね」
勝手口のドアが開いて、健二が戻ってくる。その後ろから陽介も続いた。
「りっくんを幼稚園に送って、そのまま行くつもり」
サトが答えると、
「オレ、今日はジジィを病院に連れていく日」
健二は冷蔵庫に貼り出した予定表を見て言った。若頭である田中の愛称は『ジジィ』だ。陸は『ジジ』と呼ぶので、サトは『ジジさん』と呼んでいる。
「そっか。リハビリの日だね」
「行きたくないとか、すぐに言うからさぁ。ついでに『場外』寄って馬券買ってくる」
見た目こそ気難しそうな田中だが、扱い方は熟知されている。競馬が好きなので、場外馬券売り場へ寄るついでのリハビリだと言われれば、しぶしぶながら家を出るのだ。
「秋祭りラッシュだから、そっちが気になるんだろ」
陽介が言うと、杉村も加わる。
「会合には出て欲しいって改めて言っておくよ。ヒコさんが心配なだけなんだから」
「過保護だな~。ジジィの目は節穴だろ」
ケラケラと笑った陽介は、陸を誘い、居間のテーブルの準備を始める。箸と箸置きを並べて、取り皿を置く。それから健二と手分けをして、納豆を年長たちの好みに合わせて作る。
陸は自分好みの海苔を取り出し、大事そうに運んでいく。
やがて山のように積まれた卵焼きが運ばれ、鍋にみそを溶くサトの隣に立った陽介が、浅漬けのきゅうりと茄子を皿に盛った。
「味を見てくれる?」
サトが小皿に取って頼むと、陽介は顔だけ傾けた。小皿の縁からみそ汁を味見して、にやりと笑う。
「朝からほんと、かわいい」
「陽ちゃんさぁ、わざとだろ。わざといつも、そこにいるだろ」
健二がふたりの間に割り込んだ。
「ちげぇよ。ばーか。見てみろ。オレは漬物を担当してんだ」
「うそばっか。サトさんに味見を頼まれたくて、うろうろしてるくせに」
「はぁ? 違うっつーの!」
「違うの?」
サトがぼそりと言うと、陽介は慌てて振り向いた。
「いやいや、味見は頼まれるよ。それはもちろん。違うのは、頼まれたくてうろうろしてるわけじゃないってとこで。ね?」
「じゃあ、小皿だって受け取ればいいじゃん。わざわざ、口を近づけてさー。朝から下心ばっかだろ。だいたい、陽ちゃんの朝立ち、長くねぇ?」
「……おまっ……。いま、それ、関係あるか」
「だって、勃起してんじゃん。テント、テント」
「してねぇ! ……してないよ、サトさん」
ふいに甘く訴えられ、サトは視線をそらした。そんなことを弁解されても困る。
「サトさん、ほんとだから。勃ってないから。いっそ、触って」
「なんでだよ! 陽ちゃん、セクハラだろ」
「おまえが、触るな!」
「サトさんに頼むことないだろ!」
「ケン坊……っ! ぐっ……」
ふいに陽介が呻き、サトは驚いて振り向いた。前屈みになった陽介の股間をむんずと掴んでいるのは、小さな陸だ。
「ちょっとだけ、おっきしてる」
「陸! おまえなぁ……」
痛みに顔をしかめた陽介がぐぐぐと奥歯を噛む。子どものしたことだ。怒るに怒れない。
「りっくん。男の人の、ここはね、乱暴にすると痛いから。掴んだりしないんだよ。それに、コンロに火がついているときは、近づかない約束だよ」
サトは真顔で陸の肩を押し、コンロから遠ざける。
「ケン坊、汁椀の準備してくれる? 陽ちゃん、だいじょうぶ?」
「さすって……。サトさん」
そっと手首を掴まれた瞬間、出入り口の近くで杉村の咳払いが聞こえた。それよりも早く、武彦の手が陽介の股間に伸びる。
「ぎゃっ!」
再び掴まれた陽介が叫ぶ。
「朝から、サカってんじゃねぇぞ。こんな調子で店番の女の子をコマしたら、わかってんだろうな」
「ちょ、ちょっと……」
陽介がじりじりと追い詰められていく。横目で見ながら、サトは朝食準備の最終段階へ入った。みそ汁の具を入れ、つぎわける。健二が運んでいき、武彦に追い出された陽介が居間で受け取る。健二はすぐに戻ってきて、茶碗に白飯をついでいく。
「あいつ、半勃ちだった」
陽介がそのままにした漬物の残りを皿へ移したサトは、意地の悪いことを言う武彦の声に肩をすくめた。
「ヒコさんが掴むからでしょ」
「男に掴まれて、勃起しねぇだろ」
顔をあげたサトが振り向くのを、手を洗ったばかりの武彦は待っていた。
「……しない、の?」
「知ってるだろ」
おまえだけだという代わりに肩を抱かれ、台所に人がいないことを確認した武彦がくちびるを合わせてくる。
「……勃ちそう」
まだ寝起きの目をした武彦は、精悍な表情でサトの目元を覗いた。まぶたを閉じかけたサトは、細く息を吸い込む。視界の端で影が動いた。
イカの塩辛の小瓶を手にした宮本だ。冷蔵庫の扉をパタンと閉めて、身を屈める。
「ど、どぅ、どうぞ……」
泣く子も黙る鬼の形相をした宮本には吃音がある。低く唸るような声に続きを勧められたが、サトは微笑みを返し、斜めに流した自分の前髪を撫でつけた。
「もう、準備もできたね」
みんなが待っている、とつぶやき、その場を離れようとした。すると、武彦に腕を掴まれた。先に出ていった宮本を追えず、足を止める。武彦のくちびるが前髪の上に押し当たった。
視線が合い、なにかを言おうとしている武彦を待つ。でも、話し始める前に、陸が迎えにきた。
「お漬物がないよ」
「ここだ」
武彦が答えて皿を手に持つ。陸は大人ふたりを見上げて、交互に視線を動かす。
「……なかよし、してた?」
あどけなく聞かれて、サトは手のひらで顔を覆う。
「陸。朝から聞くな」
武彦が子どもの髪を撫でながら、居間へと促す。
「はぁい。いつもは、夜だもんね。ぼく、邪魔したかと思ったぁ」
「……邪魔はしてた」
武彦がバカ正直に答え、無邪気な陸が「ごめんね」と言う。
サトは複雑な気分で息を整える。子どもが口にする『なかよし』の意味を問うのがこわい、今日この頃だった。
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