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第3話
ひまわり幼稚園までは、子どもの足で十分以上かかる。住宅街を抜け、通りを過ぎて、竹林の脇を進む。武彦の前を歩く陸の右手は、大学へ行く準備をしたサトの左手をしっかりと握っていた。
陸の実父は、行方不明の元組員だ。陸を産んだ恋人のフィリピン女性を救ったことで、ヤクザに追われる身となった。女性は国へ戻り、一年前、陸は武彦の戸籍に登録された。それまでは無戸籍で、若頭の田中にしか懐かなかった。
Vネックのカットソーに膝下のパンツを穿き、雪駄を素足に引っかけた武彦は、反抗的だった頃の陸を思い出して、ひっそりと笑みをこぼす。今年の梅雨を境にして、劇的に変化したのだ。
ぶっきらぼうが服を着て歩いていると揶揄される武彦と違い、サトは見るからに温和で物腰が柔らかい。シングルマザーの母親からなみなみと注がれた優しさが滲み出るようだ。同じシングルマザーでも、罵詈雑言と暴力で武彦を追い込み続けた女とは、根本がまるで違う。
息子を嫁にくれと、とんでもないことを言い出した武彦に対しても、サトの母親は寛容だった。
『武彦さんに恩があるからじゃないのよ』
と、ふたりきりのときに言われた。
『慎也が誰かを好きになれたことが、ただ嬉しいの。無理じゃないかって、ずっと思ってたのよ』
薄い笑みに長年の苦悩が透けて見え、サトの心に残っているかもしれない傷を心配しているのだと思った。
母親の同僚から性的ないたずらをされていた小学生のサトを救ったのは武彦だ。
救いを求められたわけじゃない。偶然知った武彦が、母親から離れるために利用しただけだ。だから、それきり会うこともなかった。
『俺が守りますから』
口をついて出た言葉に反して、武彦の声は無感情に低く響いた。決意が深ければ深いほど、感情が乏しくなるのは悪癖だ。わかっていても直せない。
『どうぞ、よろしくね』
そう言った母親の微笑みは、はかなく見えた。ひとり息子のサトを預けるとなれば、婚約相手が女だったとしても寂しく感じただろう。
ただ、その表情は隠したに違いない。武彦が相手だから、サトの母親は本音を見せた。あの事件のことを知っている数少ない人間だからだ。
そのときから、武彦の中にいるサトは、いっそう特別な相手になった。
女手ひとつで真摯に育てあげた母親のためにも、大切にしていきたいと心から思う。
仲良く歩くふたりを眺めながら追いかける登園の道のりは、あっけないほどすぐに終わる。少しがっかりしながら幼稚園に近づくと、門の前で園児を出迎える園長の声が聞こえた。
ピンストライプのかっちりとしたスーツを爽やかな笑顔で着こなす若い男だ。
声をかけられた陸が元気よく挨拶を返し、手を引かれたサトも頭をさげる。その仕草は、いかにも育ちがいい。男にしては柔らかい物腰も魅力的だ。
登園に付き添う母親たちの中でも群を抜いて、人妻めいている。
陸を教室まで送っていくサトを見送り、武彦は門のはずれに立った。そこへ園長の藤井(ふじい)が近づいてくる。睨みつけると、昔馴染みの友人は目の奥にだけ、意地の悪い表情をちらつかせた。
「朝からこわい顔で立つのは、やめてもらえませんかねー。子どもたちの教育に良くないんですよ」
白い歯がきらりと輝く。
園長の爽やかな雰囲気から、かつての姿を想像することは無理だろう。数年前まで、彼は暴走族の総長だった。武彦は四歳年下の後輩で、暴走集団の最後尾を任されていた仲だ。
「うっせぇ、フジジュンのくせに。日焼けしすぎだろ」
「今年はしっかり焦げたんだよなぁ」
藤井潤(じゅん)だから、フジジュン。夏休みの間にアジアリゾートを満喫してきたらしいが、日焼けサロンへ通って焼いている肌は常に褐色で、濃いか薄いかの違いしかない。
「なぁ、ヒコ。おまえさ、サトちゃんの後ろ姿を眺めるためだけについてきてない? 動機が不純すぎ」
笑顔のままで声をひそめたかと思うと、次々に登園してくる園児たちには明るい挨拶を向ける。
「妙に色っぽいところがあるよな」
と、ふたたび話を向けられ、すねを蹴りつけて睨んだ。
「いてっ……」
「そういう目で見るな」
「おまえの、だから?」
「それ以前の話だろ。あいつが迷惑する」
「持って生まれたものもあるんだろうけど。顔もこぎれいだし、身のこなしも柔らかいし、性格もいいし」
武彦にはもったいない、とでも言うつもりかと身構えたが、今日は違った。
「大学でもモテモテだろうな。心配しないの? 女も男も、ほっておかないだろ」
「すぐに女を作れる性格なら、俺なんか選んでない」
「余裕かましてるのはいいけど……、おまえといるようになって、ひとあたりが良くなってるから。記憶が戻って、元の性格になっただけかもしれないけど。……知ってる? 陸のために、ママ友作ったりして、健気だよ。まぁ、そこと『万が一』ってことはないと思うけどね。……陽介か、杉村さんか、って噂になってるぐらいで」
陸の送り迎えをする家族の誰かと付き合っているのではないか。そんな憶測を呼んでいるのだ。
「……俺は?」
武彦が言うと、藤井は子どもたちから見えないようにしてほくそ笑んだ。
「それじゃあ、サトちゃんがかわいそうだから、除外なんだろ」
「はぁ? 意味がわかんねぇ」
「俺はわかるよ。おまえみたいな荒くれじゃあ、ちょっとね。俺とデキてるって噂もあるから」
「……噂されただけで喜ぶなよ。バカだろ」
「じゃあ、本気出して一発……」
「ぶっ殺してやるから、やってみろ」
鼻で笑ってあしらうと、陸を教室へ届けたサトが戻ってきた。
「サトちゃん、大学の日?」
藤井に声をかけられ、キャンバストートの持ち手を肩へかけ直す。陽介が買ってきた、ライトグレーのフード付き半袖トレーナーがよく似合っている。ほっそりして見える首筋に清潔感があり、武彦は思わず藤井を睨んだ。
自分と同じ場所を見ていると直感したからだ。
「ヒコは家に帰るんだろ?」
意地悪く問いかけられたが、意にも介さない顔であごをそらす。
「タバコが切れたから、駅前まで」
「荷物持ってもらいなよ。サトちゃん」
ニヤニヤ笑った藤井が手を伸ばし、遠慮するサトからキャンバストートを取り上げた。
「行ってらっしゃい。陸くんちの若夫婦さん」
「藤井さんっ」
武彦に渡されたバッグを取り戻そうとしていたサトが慌てふためく。
「まだ、籍は入ってない」
言い捨てるようにして、武彦は駅へ向かう。
「ヒコさんっ」
サトが追いかけてきた。途中で陸の友だちを見つけると、朗らかな挨拶を投げる。子どもと母親からも返事があり、武彦は歩調をゆるめた。肩ごしに振り向くと、前髪を耳にかけるサトと目が合う。
若夫婦と呼ばれて悪い気はしない。サトの気持ちはどうなのか、尋ねるチャンスがまだない。
一緒に暮らすために『結婚』を持ち出したのは武彦だ。未来を約束する方法が他に思いつかなかったとはいえ、浅はかだったと思っている。
約束がなければサトがどこかへ行ってしまいそうで、まともな暮らしがあることに気づいてしまいそうで、約束が欲しかったのだ。見ないようにしても終わりが想像できる武彦は、一番にあきらめてしまう自分を知っていた。
そうやって生きてきたのだ。権力や暴力には反骨精神で抗える。でも、人の愛情のはかなさには立ち向かえない。
「ヒコさん。タバコがないなんて、嘘だよね」
サトが静かに言う。もう何度も騙されておいて、いまさら聞くのかと思ったが、武彦はとぼけた。
「俺が買っておいた分は、もうなかったから」
そういうときは、陽介か健二が使い走りをするのだが、サトはなにも言わない。
並んで歩く指先が触れて、細くなる息遣いが抱き寄せたくなるほどなまめかしい。そう感じてしまう武彦は、すっかり夢中だ。
サトとの関係に。そして、サトのからだに。
距離を取ろうとしている手を掴み、さりげなく指を絡めた。ぎゅっと握りしめて、すぐに離す。その瞬間を誰に見られてもかまわない。けれど、繋いだままは歩けなかった。
園児の親たちに噂されるのはサトの方だ。
なにか言おうとする気配がふたりの間の沈黙と絡み合い、武彦はたまらない気分でポケットの中を探った。小銭入れと携帯電話。それからライターが入っているだけだ。
サトには大学の授業がある。身勝手な欲情でホテルへ誘ったりできない。
自分へ言い聞かせて沈黙を守る。
サトの母親にも、大切にすると約束した。都合よく扱わないという誓約だと武彦は思っている。なによりも大事にすべきなのは、サト自身の人生だ。大学へ行き、就職をして、それでも望んでくれるなら、白鶴組にいて欲しい。
なんだかんだと話をしながら駅の改札までついていき、通勤通学の乗客に紛れていく背中を見送る。すっきりと刈り込んだ清潔なうなじが見えなくなると、武彦の心の中に隙間風が吹く。
出会ったとき、サトには記憶がなかった。武彦のことだけ覚えていたのは、子どもの頃のトラウマのせいだろう。武彦はしばらくして、あのときの子どもだと気づいた。
恋をしてはいけないと思った。ずっと、ずっと、胸の中にいた少年は、武彦を初めて、頼りがいのあるヒーローに仕立ててくれた。あの事件があったから、犯罪の加害者にならずに生きてこられたのだと思っている。
自分のために人を傷つけるぐらいなら、仲間のために人を傷つける。その信条を背負って生きる武彦は、仲間から頼りにされた。そして、あれこれとヘタを踏んで地獄を見ながらも、なんとか白鶴組に拾われることができたのだ。
駅前のコンビニへ寄って、タバコを数種類、それぞれワンカートンで買う。袋を手にさげながら商店街を抜けて、住宅街へ入る。
改札を通る前、サトはいつものように振り向いていた。
はにかむような微笑みが、武彦の胸の奥を焦がす。思い出すだけでまぶしくて、ずんっと下腹が重くなる。
あの少年が自分の初恋だったことには、ずっと無自覚で来た。だから、少年と記憶のないサトを同一視して受け入れるのは、弱みにつけ込む非道の行為だと自制したつもりだ。
大事な思い出を汚したくない一方で、まっすぐな想いを向けられるのが嬉しかった。
他の誰の愛情も欲しくない。死んだ母親にだって、愛されたくない。
自分の心は誰にも渡さないと決めたはずが、記憶がないからこそできる無遠慮なアプローチで切り込まれ、陸との関係に悩んでいた心に寄り添われて陥落した。
自分がよりどころにしていた少年が成長して現れ、いけないと知りつつ味わう快楽は武彦を惑わせた。記憶が戻ったら終わりだと決めたのは、自分が都合のいい理想を求めていると思ったからだ。
サトには押しつけたくないと、何度も踏みとどまる努力をした。
恋じゃない。愛じゃない。いっそ、単なる性欲だと、そう言い聞かせても、全部ムダで。
武彦は、今日も舌打ちをした。顔を歪めながら、後ろ髪を引かれ続けて家へ帰りつく。
昨日の夜の続きを求めて欲しくて、通学する恋人を未練がましく駅まで送る自分がむなしかった。自分から誘えばいいことはわかっている。ほんの少し、強引なふりを装えばいいだけだ。
でも、それに応えるサトは、本当に乗り気なのだろうか。
武彦の方は、毎日でもセックスしたいのが本音だ。どんなふうにするのが好きで、どんなふうにされたいのか、もっと知りたい。そもそも、セックスが好きなのかどうかもわからない。
嫌いなら、それはどの程度なのか。本当に女は興味がないのか。男ならどうなのか。
知りたいことはほとんどが性的なことだ。そんなことを根堀り葉堀り聞いて、いまさら幻滅されたら困るとも思う。サトが本音で答えるとも思わなかった。
台所のテーブルにコンビニの袋を置いて、自分の銘柄だけをワンカートン抜いた。自室の仏間で一箱取り出し、残りを戸棚にしまう。縁側へ出ると、続き間から北原が顔を出した。
「おかえり。午前中に事務所で、打ち合わせを済ませたい。いいか? 諏訪(すわ)神社の『割り付け』は午後からだろ」
祭りなどで露店を出す際の場所決めのことだ。場所が売り上げに影響するので、店を出すテキ屋たちも神経を尖らせる。揉め事を起こさせないように調整するのも大変だが、予定されている店の内容を聞き、客の流れを考えて配置を決めるのも一仕事だ。
「あっちは二時からだから。なんの打ち合わせだっけ」
武彦が縁側へ腰をおろすと、北原もタバコを手にして部屋から出てきた。
「金勘定だ」
「あぁ、まっさんが言ってたな」
「今年は花火大会がひとつ流れただろう。取り戻しておきたいところが、いくつか、声をかけてきてる。場所は悪くてもいいって話だ」
それは建前だろう。稼ぎたくてやってくる相手だ。
自分たちのナワバリの外へスポットで入るテキ屋は、その縁日に通い慣れた客たちからすれば物珍しいこともある。配置と露店の内容次第では、いいカンフル剤だ。
「それはそうと、ヒコ」
タバコに火をつけた北原が、煙を軽く吸い込む。吐き出しながら話しかけられ、武彦は立てた片膝の上に腕を伸ばした。その先にタバコの煙が揺れている。
「だいじょうぶなのか。……その、あっちの方は」
「は? なにが」
一瞬でサトのことだとわかったが、気づかぬふりをして庭を睨んだ。駅からずっとわだかまっている苛立ちが再燃して、スパスパとタバコを吸う。
「全然、だいじょうぶじゃないな」
息をするように笑われ、武彦はむっすりとくちびるを引き結んだ。
「これからが本番だぞ。そんな調子で……。誘えばいいだけじゃないか」
さも簡単そうに言われてしまい、睨む気も起こらなかった。
サトの気持ちを考えたいなんて本音を打ち明けることもできない。
「待ってるんじゃないのか。サトさんは」
「わかんねぇだろ。そんなの。……あんたには相談してんの?」
「ヒコとエッチしたい、って? されてみたいもんだなぁ」
人の気も知らず、のんきなものだ。眉根をひそめて振り向くと、楽しそうに肩を揺する北原と目が合った。完全に面白がられている。
「ヒコ、おまえな、あれだけイチャイチャしておいて、誘わないってのは生殺しだと思わないか。男なら、みんな、そうだろう」
「それはさ……」
女役をやらない男の言い分だ。
「こじらせてんなぁ。それで、いざ誘われても、本心じゃないかもとか言うつもりか? 三日に一回でも、一週間に一回でもいいから、ルールを決めたらいいんじゃないか」
「……マジで言ってる?」
「女とだって付き合いが長くなれば、そういうもんだ。だから言っただろう。おまえみたいに玄人ばっかり摘まんでるやつはダメなんだよ。言っとくけどな、いままでみたいに、仕事の疲れを風俗で解消してきたら許さないからな」
真正面から睨み据えられ、話の本題が見えた。
「……しねぇよ」
うんざりしながらも背中に冷たいものを感じる。
白鶴組のナワバリは、夏祭りよりも春と秋の祭りの頃が忙しく、あとは正月だ。シーズンに入ると蓄積する疲れや苛立ちは、カノジョがいたときでも風俗で発散してきた。断るのも面倒で付き合う形ばかりの恋人だから、疲れているときほど一緒にいたくない。
陽介や健二には『鬼畜だ』『非道だ』と責められてきたが、嫌なら別れるだけと言い返してきた。いつも、その通りの結末がやってきて、杉村には『なるようになっただけ』とため息をつかれた。
女たちではなく武彦への同情だったと、サトと暮らし始めてから気がついた。
その程度の付き合いしかできないことが、あの三人、陽介、健二、杉村には歯がゆいらしい。余計なお世話だが、今年はサトが絡んでくる。
武彦がいつもの癖を出し、サトを傷つけないか心配しているのだ。
「俺が、あいつの親に顔向けできないことをすると思ってんのかよ」
「そういう認識があるならいい。みんなに言っておく」
「……言うか、フツー」
「サトさんに限っては『普通』なんてない。特別だ。もしも出ていかれたら」
「うまい食事にありつけなくなる? それとも、陸の面倒を見る人間がいなくなる?」
「そんな話にすり替えるな。食事だって陸の世話だって、サトさんに頼む必要はない」
「じゃあ、なんだよ」
「優しい声で話して、まともな暮らしを教えてくれる大事な人だ。サトさんがいるだけで、この家は穏やかになる」
「……まぁ、な」
北原の言い分には全面的に納得だが、武彦はそっけなく答えた。
サトが来るまでは、荒くれ者が住む砦のような家だった。初めから秩序正しく暮らしていたわけじゃない。ときどき女が紛れ込んでは揉め事になり、襖をぶち抜くようなケンカが勃発することも珍しくなかった。汚れ放題に荒れていた家を整えたのも、ルールを決めるようにしたのも、それが守られたのも、陸を受け入れると決めてからだ。
そして、誰にとっても未知の存在である『ちびっ子』の登場で、この家はいっそうの混沌を味わうことになった。思い出すと胸が痛くなる。泣き叫ぶ陸と、怒鳴る武彦。間に入る田中と武彦が口論になり、ふたりの仲裁に入った陽介を武彦が殴る。それに激昂した宮本が武彦と乱闘になるのだ。
「あいつがいてくれれば、雰囲気がよくなるのは確かだ。でも……」
「結婚を申し込んでおいて、まだ迷ってるのか」
「大学を出たのに、この家で家政婦じゃ、かわいそうだろう。あいつの母親に悪い」
「本人の気持ちの問題だ。さっさと籍を入れたらよかったんだ。卒業を待つとかカッコつけたことを言って、結局はいつものアレだ。責任の先延ばし。おまえ、わかってるのか。卒業を待って結婚するなら、その前に、おまえが代目を継ぐんだぞ」
「まだ、組長が生きてんじゃん」
ふいっと視線をそらした。タバコを揉み消して立とうとすると、北原の大きな手に腕を掴まれた。
「ヒコ。入籍も大問題だけどな、おまえの代目継承はもっと重要だ。おまえ以外にはいない」
「……あんたがいるのに……、何回言わせるんだよ。どうしてもって言うから、代理を引き受けただけで、本来なら、最年長のあんたがやるべきなんだ」
「俺は無理だ。前科持ちだ」
はっきりと言われて、武彦は怯んだ。
白鶴組の生活を守るため、いまもギリギリの仕事をしている。ヤクザの端っこにいるような男だ。
「博は言葉がうまくないし、まっさんは人の上に立てる器じゃない。なによりも、俺たちはおまえについていきたい。ジジィがぽっくりいく前に、組長になって、サトさんと籍を入れてくれ」
「……これから忙しくなるってときにする話かよ」
「いつ話したって逃げるだろうが。俺はな、サトさんから勧めてもらうようなことはしたくない。おまえとサトさんがふたりで相談して決めるなら、まだしも」
「入籍は、サトだって卒業後でいい、って」
「その前に代目を継承することは、サトさんの耳に入れてある」
「ずるいぞ!」
武彦は思わず叫んだ。北原の腕を振り払って立ち上がる。
「ずるいもんか! この先の順序を説明してこそ、サトさんも将来設計ができるんじゃないか! サトさんが就職して、それをおまえが支えると言うなら、白鶴組は解散でもいい。仕方がないからな」
「そんなこと……」
「噂を聞きつけた組が飛んでくるだろ」
北原は貫禄のある顔つきを強張らせ、唸るように息を吐く。
このまま組長代理が取り仕切りるなら、ナワバリを任せるように迫る組があるのだろう。
「そもそも、この組なしで、おまえとサトさんの入籍が成立すると思うか。男同士の結婚は法律で認められてない。知ってるよな」
「……当たり前だろ」
「おまえはもう少し、サトさんと会話した方がいい。陸のことじゃなくて、ふたりのことだ。……おまえが考えるようなことはな、相手だって考えてるんだ。ヤリたいって思うなら、ヤリたいって思ってるだろう。大事にしたいなら、大事にしたいって思ってくれてるだろう。恋愛ってのはな、そういうものなんだ」
「……結婚、失敗したやつに言われても」
「そういうことは、挑戦してから言え。行動したから失敗できるんだ。……なぁ、ヒコ。おまえにかまわれると、サトさんは嬉しそうだよ。陽介だって、それがわかってるから、ヤキモチ焼いて騒ぐんだ。……この家でバンバン、セックスしろとは言わない。それは俺たちもキツい。でも、おまえを誘えなくて困ってるサトさんを見るのもキツい。……おまえには言えても、あっちには言えないんだよ。わかるだろう」
サトの、すっきりとした顔立ちが脳裏に浮かぶ。清潔そのものだから、エッチなことを考えているとは想像もできない。でも、していることは想像できてしまう。目で見て知っているからだ。
武彦を横目で見た北原が、重いため息をついた。
「おまえが相手しないせいで、夜毎、シコってんじゃないかと思うと……もう……」
「想像、するな」
ギリッと睨みつける。サトは純情そうに見えるだけで淡白じゃない。
肌を合わせれば、恥じらいを忘れたようにしがみついてくる。だから、いっそう武彦は煽られて、歯止めが利かずに抱きつぶしてしまいそうでこわいのだ。
そんな気持ちを、北原みたいに世慣れすぎた大人は理解できないだろう。
わかってたまるか、と武彦は心の中で悪態をつく。
「じゃあ、円満な性生活を送ってくれ」
北原が、よいしょと声をかけながら腰を上げた。
「俺たちはな、声をかけられたらいつでも、ホイホイお相手するからな。サトさんが悪いんじゃないぞ。誰だってチャンスを狙ってるんだ」
「……そんな家に、あいつを置いておけるか」
「俺たちはケダモノじゃない。誘われなければ、お利口なもんだ」
色黒な北原は、にやりと笑った。部屋に入りかけて、もう一度振り向く。
「サトさんが俺たちを誘うと思うか」
「あいつはそんな男じゃない」
「それが答えだ、ヒコ。あんまり我慢させるな」
言葉だけが残されて、武彦はその場にどさりと座り込んだ。あぐらをかいた足に肘をついて、髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。
「我慢なんか……」
口に出してつぶやくと、胸の奥が痛くなった。
誘いたいのか、誘われたいのか。自分の気持ちがはっきりしない。
サトとの恋が向こうからのアプローチの末に成就したことも忘れ、武彦はぐるぐると深みにはまった。溺れてしまう。
頬杖をついて、ぼんやりと庭先を眺めた。惚れた男の清潔なうなじと、柔らかな微笑みを思い出す。
まともな恋愛をしないで来たことを、武彦はいまさらに後悔する。恋人との関係の構築に迷うとは、思いもしなかったのだ。
うんざりしたつもりで吐き出した息づかいが柔らかく転がっていき、武彦はドギマギと背筋を伸ばした。縁側を這うようにして顔を覗き込んでくる、サトの甘い目つきが脳裏に甦り、劣情を催した腰がたまらず脈を打った。
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