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第1話

 いつかおまえを迎えよう、緑の花嫁。  奇跡の名のもとに種を芽吹かせ、愛を実らせ、  いつの日か、この乾いた大地が再び緑で満ちることを───。  地下鉄の駅構内を抜け、地上に出た途端、照りつける太陽にクラリとなる。  葛木(かつらぎ)実(みのり)は片手で庇を作り、黒いつぶらな目を細めた。 「夏、だなぁ……」  黒縁眼鏡のフレームがジリジリと暑さを吸い取るせいで、心なしか頬まで熱い。一度も染めたことのない黒髪もここぞとばかりに熱を溜めた。  いくら日光が自然の恵みとはいえ、このところの異常な暑さには二十六歳の実であっても舌を巻く。樹木医をしている立場上、外に出向く機会もそれなりにあるのだが、最近はデスクワークが中心だっていたこともあって身体が暑さに追いつかずにいた。  それでも、一番気にかかるのは自分よりも植物のことだ。  今は蒸散が盛んな時期だし、常緑樹の根に手を入れてやることができない。この間看た街路樹の金木犀は元気だろうか。公園の楠木は病気や虫の被害に遭っていないだろうか。こうして道を歩いていても、街路樹を見上げるたび、公園の傍を通りかかるたびに思いを馳せてしまう。自分が診断した樹木のことならなおさらだ。  具合が悪くなった時、人間ならば患者が医者を訪ねるが、植物の場合はそうはいかない。こちらから足を運んで症状を看てやり、手を尽くし、そのあとも二度、三度と経過を見るために通い詰める。好きでなければ務まらないだろう。もの言わぬ植物の声に耳を傾け、心の中で対話する時間は実にとってとても大切なものだった。  実は幼い頃から植物が好きで、「どうして種から芽が出るの?」「どうして木はまっすぐ立ってるの?」と、素朴な疑問を投げかけては両親を驚かせた。  庭の土を掘り返して根っこを調べたり、いくつも飼育ケースを並べて虫の生態を観察する息子を、両親は止めるどころか「夢中になるものがあるのはいいことだ」と理解を示してくれた。膨大な記録をまとめる作業を手伝ってくれたり、科学館や博物館に連れていってくれて、同じ目線でわくわくする気持ちを共有してくれた。実の一番の理解者であり、心強い応援団だった。  そんな両親も、数年前に不幸な事故で亡くなった。実が大学の特別研究員として、駆け出しの樹木医として、まさに「さぁ、これから」という時だった。  あれから二年。  彼らは今も心の中で実を励ましてくれている。眠い目を擦りながら論文を書いている時、病に倒れそうな樹木の声を必死に聞き取ろうとしている時に、「諦めてはいけないよ」と実を奮い立たせてくれるのだった。  ───ありがとう。お父さん、お母さん。  心の中で呟いて、実は再び通い慣れた道を歩きはじめた。  これから向かう県立農大に実が籍を置いたのは、今から八年前のこと。植物の多様性に魅了され、もっと知りたいという思いから真っ先に選んだ場所だった。  大学では森林生態学を学びながら朝から晩まで植物の研究と観察に没頭した。それでも興味は尽きずに大学院に進み、試験を受けて樹木医になった。研究員となった今は地域の樹木を治療したり、啓蒙活動にも取り組んでいる。  一事が万事そんな調子なので、実の一日は植物とともにあると言っても過言ではない。  大学時代に世話になった恩師の研究室に籍を置き、研究の傍ら、下っ端としてデータの整理も進んでこなす。皆は雑用と言うけれど、実にとってはどれも貴重な情報ばかりだ。見入っているうちにご飯を食べ損ねたり、見回りのガードマンが来てはじめて夜になっていたのを知ったのも一度や二度のことではない。  そんな実を、研究室の仲間たちは「根っからの植物オタク」と呼んだ。 「おまえはほんと、寝ても覚めてもそればっかだな」 「大木の枝先剪定のためにツリークライミングまではじめたんだって?」 「フィールドワークやりながら論文書いて、講演もして、おまけに趣味で花のデータまで採ってるだろ。もうどんだけ好きなんだよ」  先輩研究者たちがどっと笑う。  皆の顔を見ているうちに実もつられて笑ってしまった。  こう言うとちょっと大袈裟だけれど、植物のためなら生涯を捧げてもいい、と思うほど入れこんでいる実だ。緑ほど人の心を癒やしてくれるものはないと思う。  そんな生活をしているものだから、誰かに恋をしたことは疎か、異性を意識したこともなかった。なにせ恋愛そのものに興味がないのだ。そんな実を心配してお節介を焼こうとしてくれる仲間もいたが、厚意はありがたく辞退した。  女性とデートする時間があるなら、ひとつでも多くの植物を救いたい。膨大なデータは整理しなければいけないし、大事な鉢植えに水やりもしなければならない。時間はいくらあっても足りないのだ。  横断歩道の赤信号に立ち止まる。  なにげなく近くの街路樹を見上げたその時───突然視界がグラッと揺れた。  フィールドワークをしている時にも時々なる。帽子やタオルを装備していたって暑さにやられることはあるのだ。ましてや、通勤中の無防備な格好では眩暈など日常茶飯事だ。  ───大丈夫、いつものことだから。  自分にそう言い聞かせながらハンカチで額を拭ったものの、汗は引くどころか、後から後から噴き出してくる。どうもいつもとは様子が違う。そう察した時には遅かった。  周囲の喧噪が少しずつ遠離っていく。車の行き交う音や蝉の合唱でにぎやかだったはずなのに、今は怖いくらいに早鐘を打つ心臓の音しか聞こえない。頭の中がキーンとなってうまく言葉が出なくなった。 「あ……」  いけない…、と思うと同時に身体から力が抜ける。とっさに信号機用のポールに縋ったものの、それを掴んでいることすらできずにずるずるとその場に崩れ落ちた。  ───これ、拙いかも…………。  こんなことははじめてで、どうしていいかわからない。  しっかりしなくちゃ。大学に行かなくちゃ。  けれど指先ひとつ動かせないまま、実は灼熱のアスファルトに倒れ伏した。

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