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第2話
かすかな違和感が意識の縁をカリカリと引っかいていく。
微睡みの中でふと、甘い匂いが鼻孔を掠めた。
乾いた砂の大地を思わせる、お香のような不思議な匂い。かぎ慣れないそれを無意識に追いかけているうちに意識がゆっくりと水面に引き上げられる。
「ん……」
目を覚ました実は、見慣れない天井に二度、三度と瞬きをくり返した。そろそろと頭を左右に倒し、周りの様子を目で窺う。
「う…、うん……?」
どうもおかしい。
慌てて身体を起こし、手探りで眼鏡を探す。幸いなことにすぐ傍に置かれていたそれをかけてあらためて周囲を見回すと、そこには見たこともない光景が広がっていた。
寝台のすぐ下、二十畳ほどの広々とした床には、円や四角を組み合わせた異国情緒あふれるタイルが敷かれている。白い壁は漆喰だろうか。驚いたことに、石造りの天井からはレースのように美しい鍾乳石飾りが吊り下がっていた。
「な、なんだ、これ!?」
まるで映画のセットにでも迷いこんでしまったみたいだ。
驚きのあまり天井を見上げたまま呆然としていた実の目に、ようやく白い薄布が映る。どうやら自分は天蓋つきの寝台に寝かされていたらしい。
生まれてはじめて見るものたちに動揺しつつも、とりあえずここが自分の家でないことはよくわかった。ならばと寝床を這い出し、すぐ傍にある窓から外を見る。
だが、眼下に広がっていたのは予想を遙かに上回る衝撃的な光景だった。
「───うそ、でしょ……?」
見渡す限り一面の砂漠が広がっている。
要塞のごとき石壁に囲まれた建物の遙か下方には、砂上に身を寄せ合うようにして赤茶けた家々が建ち並んでいた。強烈な陽と風に晒され続けたせいか色は白み、今にも崩れてしまいそうだ。それがやけにリアルに思えて、無意識のうちに喉が鳴った。
───これって……。
とても現実とは思えない。
だが、夢でもなさそうだ。落ち着かなくちゃと自分に言い聞かせながら実は記憶をかき集めた。
今朝もいつもの時間に起きた。いつものように家を出て、いつもと同じ電車に乗った。通い慣れた道を歩き、街路樹たちに思いを馳せ、そうして信号待ちをしていた時に暑さでクラッとなったのだっけ。
そう、あの時だ。急に激しい眩暈に襲われて、気がついたらここにいた。
「どうしよう……」
きっと今頃、研究室の仲間たちは心配しているに違いない。真面目なのが実の取り柄だ。これまで一度だって無断欠勤なんてしたことがなかった。
「と、とにかく帰らなくちゃ」
そう言って己を奮い立たせてみるものの、砂漠を目にした途端に心細さが募る。どうしたらいいのだろうと俯きかけたその時、不意に背後のドアが開いて、灰色の長衣を纏った男たちがどやどやと部屋に傾れこんできた。
四、五人はいるだろうか。皆褐色の肌に、真っ白な髭を蓄えている。値踏みするような鋭い眼差しを向けられて実は戸惑うばかりだった。
「これが緑の……?」
「まだ子供ではないか」
「だがご神託だ。国のためなのだ」
老人たちは互いに顔を見合わせ、よくわからないことを言い合っている。それを押し退けるようにして、後からふたりの大柄な男性が入ってきた。
その途端、場の空気がガラリと変わる。
老人らは慌ててそちらに向き直り、恭しく頭を垂れた。六十もとうに過ぎているであろう彼らが、その半分にも満たない青年ふたりに我先にと頭を下げる光景はなんとも不思議なものだった。
それぐらいふたりは偉いのだろう。生まれながらにして人の上に立つ人間なのだと一目でわかる。堂々としていて威厳があり、どこか神々しさのようなものさえ感じさせた。
───こんな人もいるんだ……。
これまでの人生でおよそ出会ったことのないタイプだ。あまりに現実味が湧かなくて、ついぼんやりと見てしまう。
そんな男性たちの片方に、老人が一礼してから声をかけた。
「サディーク様。わざわざお運びにならずとも、お目通りの支度を調えましてからご挨拶にと……」
「私が、少しでも早く会いたかったのだ」
凜と響く爽やかな声。張りがあるのに押しつけがましいところはなく、やわらかく耳に届く。サディークと呼ばれた男性は、なおもなにか言いたそうにしている老人からゆっくりとこちらへ視線を移した。
距離があってもかなり長身な人だとわかる。一八〇……いや、一九〇センチはあるかもしれない。
白い肌に似合う柔和な面差し、おだやかなブルーグレーの瞳。腰まである亜麻色の髪を靡かせ、金刺繍の施された白い長衣を纏って颯爽と立つ姿は同じ男ながら思わず見惚れてしまうほどだ。
モデルだろうか。あるいは俳優かもしれない。とりあえず、自分とは住む世界がまるで違う人だということはよくわかった。
そんなサディークが、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
近くで向かい合うと見上げるほどだったが、それを察したのか、サディークはわずかに身を屈め目の高さを合わせてくれた。
「強引なことをしてすまなかった。気分はどうだ」
「え?」
強引なこととはどういう意味だろう。
訊いてみたかったものの、気遣わしげな眼差しにせめて体調のことだけでも早く答えなければと焦るあまり、大丈夫ですと言いかけてケホッと咳きこむ。一度出たら止まらなくなって、立て続けにケホケホと咳きこんでしまった。
そういえばだいぶ湿度が低い。普段温室に慣れているせいか、どうしても敏感になってしまう。
「大丈夫か」
大きな手でやさしく背中をさすられ、実はこくこくと頷いた。ほんとうはお礼を言いたかったのだけれど、声を出したらまた咳が出てしまいそうだったのだ。
「イザイル」
「そら、水だ」
サディークが肩越しにふり返ったのと、後ろから鈍色のコップが差し出されたのはほぼ同時だった。それを受け取りながらサディークが静かに微笑む。
「さすが気の利く」
イザイルと呼ばれた男性は腕組みしながら当然とばかりに顎をしゃくった。その先には水差しを持った男性が部屋の隅に立っている。なるほど、それでとっさに水を差し出してくれたのか。
彼もまただいぶ上背のある人だ。サディークと同じか、あるいはそれ以上だろうか。
男らしく野性味あふれる容貌といい、がっしりした体躯といい、武人という言葉がよく似合う。褐色の肌に暗めのブロンドがしっくりと馴染み、銀刺繍の施された黒の長衣が彼の男らしさを際立たせていた。
「なんだ。いらないのか」
ぼんやりしている実に焦れたのか、イザイルが不機嫌そうにこちらを見下ろす。
しまった。失礼なことをしてしまった。
「いっ、いただきます」
実は慌ててサディークからコップを受け取る。
鈍色の外見からてっきり常温だと思っていたコップが予想外に冷たくて驚いた。これは真鍮だろうか。よく見れば細やかな装飾が施されていてとても美しい。真鍮は熱伝導性がいいから、それだけよく冷えた水なんだろう。そう思ったらゴクリと喉が鳴った。
「ゆっくり飲むといい」
サディークに勧められて口をつける。ゆっくりと言われたのに一口飲んだら冷たい水の誘惑に負けてしまって、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干してしまった。
空になったコップを下ろし、ふう…、と息を吐く。喉の痛みもなくなったし、ようやく咳も治まった。
「ありがとうございました。助かりました」
サディークとイザイルを交互に見ながら一礼する。ほっとしてつい笑ってしまったせいだろうか、サディークが驚いたように目を瞠った。
ブルーグレーの瞳はやがて甘やかに熱を帯び、熱い視線となって実を搦め捕ろうとする。いくら植物にしか興味のない自分でも、こんなハンサムから穴の空くほど見つめられたらさすがにドギマギしてしまう。
「あ、あの……」
なにか言わなくてはと、とっさに口を開いた実にサディークはさらに顔を近づけた。
「そなたを迎えられる日を心待ちにしていた」
「え?」
「またこうして会えてうれしい。そなたはさらに美しくなったな」
「あ、の、その……」
うっとりと囁かれても、実にはまったく覚えがない。なにかの間違いじゃないですかと喉元まで出かかった時だ。
「サディーク様」
老人のひとりが強引に割って入ってきた。
「畏れながらこのもの、女とは思えませぬ」
「どういうことだ」
「喉仏が」
老人はそう言って実の首を指す。水を飲んだ時に喉仏が動くのを見たと証言する男に、周囲の老人たちも皆険しい顔つきになった。
だが、当の実はひとり首を傾げるばかりだ。背が低いせいか、顔立ちが中性的だからか、男らしさとは縁遠い自分だがこう見えてもれっきとした男性だ。少しは筋肉だってあるし、喉仏だってちゃんとある。
───この人たち、なにを言ってるんだろう……?
なにげなく唾を飲みこんだところ、それを見た老人たちがいっせいに目を剥いた。
「男だ!」
「まさか男だったとは!」
「跡継ぎなど望めるわけもない。これではなんのために貴重な種を!」
口々に叫びながら侮蔑の目を向けてくる。
「ほんとう、なのか……?」
サディークも動揺しているようだ。
「ほんとうですよ。そうは見えないかもしれませんけど」
「そう、か……そうだったのか……」
愕然とするサディークをよそに、老人たちはますますヒートアップしていった。
「なんということだ。大変な損失だ」
「国家機密を知られた以上、このまま生かしておくわけには」
物騒な言葉が飛び交う。中には剣に手を伸ばすものまで現れる始末だ。それが強ち冗談でもなさそうだとわかって実はとっさに後退った。
「お、落ち着いてください。皆さんがおっしゃる国家機密なんて僕にはわかりませんし、目が覚めたらここにいただけで……わっ!」
「死んで詫びよ!」
老人とは思えぬ身のこなしで詰め寄られ、喉元に杖を突き立てられて息を呑む。そこへトドメとばかりに別の男から長剣をふり下ろされ、怖ろしさに逃げることもできないまま固く目を瞑った時だ。
ガン! と大きな音が響く。
そろそろと目を開けると、サディークの大きな背中が見えた。それから剣を持つ老人を跳ね返した左腕も。彼が身を挺して守ってくれたのだと気づくまで少しかかった。
まさかサディークに危害を加えることになるとは思ってもいなかったのだろう。老人は狼狽えながら床に頭を擦りつけて詫びている。実に杖を突きつけていたものもはっとしたように身を引いた。
サディークは老人らを睨めつけ、凄みのある声で一喝する。
「私の前で剣を抜くとどうなるか、知らぬわけではあるまいな」
先ほどまでのおだやかさなど欠片もない冷淡な眼差しに、相手はただ額ずくばかりだ。
「しかし、サディーク様」
後ろにいた別の男が口を開いたが、サディークはそれすら視線だけで黙らせた。
「よいか。このものに危害を加えることは私が許さぬ」
「ですが」
「聞こえなかったか。許さぬ、と言った」
「……っ」
老人たちは退室するよう命じられ、グッとなりながらも部屋を出ていく。
後にはサディークとイザイル、それに実だけが残された。
どうやら命は助かったらしいとわかったものの、依然として事態は呑みこめないままだ。話をしてみたくともサディークは難しい顔をしているし、そんな彼を見てイザイルもまたため息をついているしで、とても話しかけられる雰囲気ではない。
「俺が代わるか?」
少しの沈黙の後、イザイルがぽつりと呟いた。
サディークが弾かれたように顔を上げる。よほど思いがけない申し出だったのか、彼は美しいブルーグレーの目を見開きながらイザイルを見つめた。
「おまえが?」
「だってそうだろう。おまえの場合、立場上いろいろと面倒だ。あの口喧しい重鎮たちと毎日やり合うことを考えてみろ。最悪だぞ」
「気遣ってくれるのはありがたいが……」
サディークは小さな嘆息とともに首をふる。
「それでも、私の使命だ」
自分に言い聞かせるようにきっぱりと宣言するサディークに、今度はイザイルが大きなため息をついた。
「昔っから頑固なんだよなぁ」
「意志が固いと言ってくれ」
「おまえのそれは意固地って言うんだ」
「初志貫徹とも言う」
イザイルがやれやれというように肩を竦める。
そんな相手に苦笑を返すと、サディークがこちらに向き直った。
「先ほどは、うちのものが無礼な真似をしてすまなかった。あれでも国のことを思っての行動だったのだ。どうか許してやってほしい」
「あ、えっと……はい……」
そう言われてしまうと文句も言えない。
───これでも死にかけたんだけど……。
その前に、ここはどこで、この人たちはいったい誰なんだろう。戸惑っている実を見てなにか察したのか、イザイルがサディークを肩でつついた。
「順を追って説明した方がいいんじゃないのか」
「そうだな」
サディークに促されて三人は床から一段高くなった基壇に場所を移し、美しい織物の上に円陣を組むようにして腰を下ろす。絨毯は織り目が密に詰まっているのにやわらかく、素足で触れるととても気持ちがいい。それに、細かな幾何学模様もとても見事だ。
じっと見入っていると、「この国の伝統的な織物だ。気に入ったか」とサディークが笑いかけてきた。
「僕はこういうことに詳しくない素人ですが、とても立派だなと思いました。昔、大学の教授の家にお邪魔した時もこれに近いものを見たことがあって」
「ほう」
「ペルシャ絨毯というのだと、教授が……」
そこまで言ってはっとなる。サディークは、この国の伝統的な織物だと言った。
───それって…………。
心臓がドクンと跳ねる。うまく言葉にできないままサディークの方を見ると、彼はそんな気持ちすら酌み取るように「ひとつずつ話そう」と頷いた。
「まずは自己紹介からだな。───私はアラバルカを統べる王、サディーク・アル・アラバルカだ。こちらは双子の弟のイザイル。見てのとおり似ているところはあまりないが」
「二卵性だからな」
イザイルが片膝を立てながら、なんでもないことのようにつけ加える。
そんなふたりを交互に見て実はぽかんと口を開けた。
「今、王って言いました、よね……?」
「とてもそうは見えないか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……」
まさか自分が、どこかの国の王族と話す機会があるなんて想像もしなかっただけだ。
そう言うと、サディークはふっと遠くを見るような目になった。
「数年前、前王が生まれたばかりの落し胤を残して亡くなってしまってな……。私が後を継いだんだ。この歳で王座に就くなどと当時は大騒ぎになったものだ」
周辺国とのパワーバランスが崩れることを不安視した一部の大臣たちが異を唱えたり、国の混乱に乗じて攻め入ろうとする近隣諸国もあったという。まだまだ周辺情勢が不安定なのだとサディークはため息をついた。
「国をまとめるには、私が王にふさわしい人間であることを実力で示すしかない。その点イザイルにはずいぶん助けてもらった。小国のアラバルカが、列強の侵攻を受けながらも国として成り立っていられるのは、彼が身を盾にして守ってくれているおかげだ」
「おまえだって外交で命張ってるだろ。役目が違うだけで同じことだ」
イザイルがぶっきらぼうに返す。どこか居心地悪そうにしているから、褒められるのが苦手な人なのかもしれない。自分から見たら、ふたりで国を守っているなんてそれだけですごいことだと思うけれど。
「ところで、あの……アラバルカっていうのは、どのあたりの国なんでしょうか」
「あぁ、そうだったな。そなたにはそれも伝えなければ」
サディークが頷く。
「端的に言うと、そなたのいた世界には存在しない国だ」
「……え?」
「だが、そなたの生まれ育った国のことは知っているぞ。『日本』というのだろう」
「ど、どういう意味ですか?」
あまりに思いがけない内容に目を丸くしていると、サディークは、自分たちが異世界に暮らすもの同士だと教えてくれた。
「……異世界……」
「実感が湧かないのも無理はない。私たちもはじめて聞いた時は驚いたものだ。そなたのことを知り、そなたのいた国のことを知るうちに、少しずつ理解していった」
「僕のことを?」
「一度、そなたに会いに行ったな。……ふふ。忘れてしまったか? 私ははっきり覚えているぞ。そなたが大学というところに通っていた頃のことだ。数年は遡る───」
サディークが懐かしそうに目を細める。
話を聞いているうちに、大学三年生の時の不思議な体験を思い出した。
あれは、いつものようにひとり遅くまで研究室に残っていた夜のことだ。
研究に没頭していた実の前に突然幽霊が現れて、こともあろうか話しかけてきたのだ。あまりに驚いてしまって、怖いとか、逃げようとか、そんなことを考える余裕もなかった。ひとりで呆然としているうちに幽霊たちは消えてしまい、それっきりで、結局はよくわからないままうやむやになってしまったのだけれど。
「もしかして、あれって……」
「あの時の約束どおり、そなたを召喚した。ミノリ」
「ぼ、僕の名前までご存知なんですね」
「そなたのことならなんでも知っている。長い間、こうして迎えられる日を心待ちにしていた。……あの時とは、少し事情が変わってしまったが」
そう言いながらサディークがなぜか顔を曇らせる。
「こいつ、おまえのことを女だと思ってたからな」
「イザイル」
窘められたイザイルはやれやれと肩を竦めてみせた。なるほど、そういうことか。
「すまない、ミノリ。許してくれ」
「いいですよ。女顔で童顔ってよく言われますし、そんなに気にしないでください」
「童顔……? そうなのか?」
「驚かれそうだからあんまり言いたくないですけど、これでも二十六ですし」
「嘘だろ!?」
すかさずイザイルが素っ頓狂な声を上げる。
「俺たちと四歳しか違わないのか?」
「えっ。それこそ嘘ですよね!?」
「なんだと」
ジロリと睨まれて首を竦める実に、イザイルはフンと鼻を鳴らした。
憮然としたイザイルと、柔和な微笑みを浮かべたサディーク。実と四歳差ということはふたりともちょうど三十歳なんだろう。それにしてはすごい貫禄だ。四年後の自分がああなるなんてとても思えない。
「異世界の方はことさらご立派なんでしょうか……」
「おまえがぽやっとしてるだけだろ」
「こら、イザイル。ミノリを苛めるな。それに、ミノリにだって資質はあるんだぞ」
「資質?」
「そなたは、こちらの世界に生まれるはずだった人間なのだ」
「え……?」
意味がよくわからない。それはどういうことだろう。
首を傾げる実に、「少し長い話になるぞ」と前置きしてサディークが再び口を開いた。
「そなたがなぜあちら側に生まれてしまったかはわからない。なんらかの力が働いたのか、あるいは向こうにも求められたのか───。そなたには、どちらにも必要とされるだけの力がある。なぜなら〈緑に愛されたもの〉だからだ」
草花や樹木、およそ緑と名のつくものを統べる力を持っているのだとサディークは言う。
「昔から植物に懐かれるだろう」
「あ……」
思わず声が出る。確かに覚えがあることだったからだ。
小さな頃からなぜか、実が世話をすると枯れかけていた草花が元気になったり、何年も蕾をつけなかったような鉢植えが花を咲かせたりすることが何度もあった。
小学生の頃はオカルト紛いの扱いをされ、からかわれたりもしたが、幸いにも研究室の仲間は理解してくれたし、実自身も植物と向き合っていられればそれでしあわせだったので特に気に病むこともなく、当たり前のように過ごしてきた。
思いつくままに打ちあけると、サディークは満足そうに頷いた。
「それこそ〈緑に愛されたもの〉の資質だ。私たちが出会った時もそうだったな」
出会った時───それはつまり、ふたりが突然目の前に現れた時ということだ。
「そういえば、どうやって僕のいた世界に来たんですか?」
「王の力を使ったのだ。アラバルカの神からこの国の王だけに授けられる力だ。おかげでそなたの日常を垣間見ることができた」
「俺まで異世界旅行につき合わせやがって」
「ふふふ。楽しかっただろう」
眉間に皺を作るイザイルがさらに渋面になる。確かに、あの時サディークだけでなく、イザイルも一緒だった。この様子では半ば無理やり連れ回されたんだろう。
「こうしてそなたを迎えられてうれしいぞ。ミノリ」
「あ…、ありがとうございます。でも……」
満面の笑みを浮かべるサディークには申し訳ないけれど、そして植物に懐かれるという特技を授かった理由にも興味は湧いたのだけれど。
「そう言っていただけるのはうれしいんですが、でも僕、戻らないと……。大学で植物の研究をしているんです。論文も途中だし、水やりもしないといけないし」
「心配すんな。おまえの代わりに他の人間が水をやってる」
イザイルがなぜかきっぱり言いきってみせる。
どうしてそんなことがわかるんだろう。確かに彼の言うように、水やり当番が休んだら他のメンバーが仕事を代わるのはいつものことだけれど。でもそれが一日ならまだしも、何日も、ましてや無断でというのはよくないと思う。
「ミノリ」
訊き返すのをためらっていると、サディークにぽんと背中を叩かれた。
「せっかくこうして会えたのだ、少し時間をもらえないだろうか。もとの生活が気になるようなら私が対処しておこう。それでどうだ。気がかりはないか」
兄の言葉に弟が短く嘆息する。
「またこれで俺もあいつらに怒られんのかよ」
「ミノリの気持ちもわかるだろう。小言はすべて私に言うように言っておく」
「わかったわかった。まったく甘いな」
顰め面のイザイルにサディークは肩を竦めると、実を安心させるように大きな手でやさしく背中を撫でた。
「そなたには我儘を聞いてもらうことになって申し訳ない。その分、私たちが全力でそなたを守ろう。約束する」
やさしいブルーグレーの瞳。こうして見つめているだけで吸いこまれてしまいそうだ。
───なんてまっすぐな目をするんだろう……。
どうしてかわからないけれど胸がトクトクと鳴りはじめる。慌てて心臓のあたりを押さえる実に、サディークがふっと含み笑った。
「ここで暮らすにあたって、そなたには世話係をつけよう。気さくでとてもやさしい男だ。わからないことがあればなんでも訊くといい」
サディークの合図で、それまでドアのすぐ横に控えていた男性がこちらに歩いてくる。三人の座る基壇のすぐ前までやって来ると、彼は床に片膝をつき、恭しく最敬礼した。
「ミノリ様のお世話をさせていただきます、アルと申します」
灰色の長衣を纏ったアルがゆっくりと顔を上げる。
顔を上げた相手と正面から向き合った実は、安心感にほっと息を吐いた。あたたかみのある声といい、やわらかな面差しといい、とてもやさしそうな人だ。サディークたちより七、八歳は年上だろうか。褐色の肌に黒い短髪が誠実そうな人柄によく似合っていた。
しばらくにこにこと見つめ合っていた実だったが、アルが床に膝をついたままだったと気づいてはっとなる。
「あ、あのっ……僕にそんなことしないでください。僕の方がお世話になる立場なのに、そんなことされたら申し訳ないです」
大慌てで基壇を下り、取りなそうとすると、それがおかしかったのかイザイルが小さく噴き出した。アルも少し困ったような、でもうれしいような、複雑そうな顔をしている。
サディークが肩で笑いをこらえながら助け船をよこしてくれた。
「ミノリは私たちの大切な客人だ。王の客人は王と同等に扱われる。遠慮はいらない」
「でも、そんなこと言ったって……」
「友人のように接してくれという方がアルにとっては難しい注文だと思うが、どうだ?」
話をふられたアルは、眉尻を下げながら「はい」と頷く。
「サディーク様のおっしゃるとおりです。どうぞご遠慮なく、なんなりとお申しつけくださいませ」
そこまで言われてしまえばしかたがない。こうなったらなるようになるだろう。
実は腹を決め、アルに向かってぺこりと頭を下げた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「決まりだな」
サディークが右手を差し出してくる。握手を求められているとわかり、実もおずおずと右手を出した。
「これからよろしく頼む」
「こちらこそ」
あたたかな手でぎゅっと握られ、自分が歓迎されていることを実感する。サディークはもう片方の手でイザイルの手も掴むと、自分たちの握手にそれを重ねた。
「イザイルからも、よろしくと」
「なんだこりゃ」
「どうぞよろしくお願いします」
困り顔のイザイルを見ていたらおかしくなってきて、失礼と思いながらも笑ってしまう。そんな実を見てサディークもアルも、しまいにはイザイルまでも一緒になって笑った。
───不思議だな……。
そんな三人の顔を眺め回しながら心の中でしみじみと呟く。
突然別の世界に召喚されて、訳もわからず戸惑っていたはずなのに。
六年前の体験が夢じゃなかったと証明されたり、植物と相性がよかったのは〈緑に愛されたもの〉の力ゆえだとわかったりと、これまで不思議に思えていたものが解き明かされていく。ルーツと呼んだら大袈裟かもしれないけれど、それらがここにあるというならもう少しだけ覗いてみたい。
───それに。
サディークは紳士的でやさしいし、イザイルは怖いところもあるけれど悪い人じゃなさそうだ。アルも気さくでいい人みたいだから、きっとうまくやれると思う。
実は大きく一度深呼吸をする。
異国の乾いた砂の匂いが逸る心をくすぐっていった。
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