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第3話

 その夜、実は夢を見た。懐かしい夢だ。 「おーい、葛木。すまんがこれ運ぶの手伝ってくれ」  パソコンの画面と睨めっこしていた実は、自分を呼ぶ声に顔を上げた。  見れば、研究室の入口で教授が手招きしている。足元には大きな荷物、そしてその後ろにはお客さんだろうか、六十代と思しき白髪交じりの男性が立っている。ふたりでここまで運んできたものの、力尽きたといったところか。 「言ってくだされば台車でお迎えに行きましたのに」  実は慌てて席を立つと、ごちゃごちゃとした研究室の中を器用に縫って迎えに出た。  挨拶もそこそこにまずは荷物を準備室に運びこみ、ソファに腰を下ろした客人にお茶をふるまう。こういったこともゼミ生である自分の役目だ。  実は、大学三年生になると同時にこのゼミに入った。  上には四年生や院生、さらには特別研究員など、長年腰を据えた先輩方が自由気ままに出入りしている。そんな中、雑用をこなすのは一番下っ端の実ということになる。データ整理から部屋の片づけ、さらにはお茶菓子の買い出しまで任される仕事は多岐に亙っていたが、それを嫌だとか、面倒だと思ったことは一度もなかった。  なにせ新しい情報が入り放題、教授や先輩には質問し放題という、夢のような環境だ。  にこにことお茶を出し、自分の席に戻ろうとすると、なぜか教授に呼び止められた。 「葛木。頼まれついでにもうひとつ」 「はい。なんでしょう」  勧められるまま座って話を聞いたところ、花の世話を頼みたいとのことだった。 「開けてごらん」  先ほど運びこんだ段ボール箱を指差される。  そっと蓋を開けてみると、中には鉢植えの植物が入っていた。  手桶ほどの鉢の真ん中から太くしっかりした茎が伸び、四方に平たい葉が広がっている。一見すると君子蘭のようにも見えるが、葉先にいくに従って葉は細く尖っており、厚みも少ない。 「アマーラだよ」  教授の言葉に弾かれるように顔を上げた。 「これが、アマーラ……」  育てるのがとても難しいと言われている花で、それゆえにマニアの間では人気が高く、希少価値もあいまって高額で売買されていると聞いたことがある。自分も実物を見るのははじめてだ。 「とてもきれいな花だというんで、軽い気持ちで挑戦してみたんだが……」  客人の男性はそう言って深々とため息をついた。  手に入れたからにはぜひとも花を咲かせようと専門書を読んで勉強したり、周囲の愛好家に相談しながら何年も育ててみたものの、その間一度も花をつけなかったのだそうだ。それどころか最近では葉にも色艶がなくなり、弱っていく一方だという。 「もうこうなったら、専門家に見ていただきたくてね」  男性が縋るように教授を見る。なんでも、ふたりは昔からの友人だそうで、これまでもちょくちょく相談していたのだそうだ。 「ついにうちのゼミに入院か」  教授が鉢植えを見ながら眉尻を下げる。 「預かったからには咲かせてやりたいが、まずは状態を調べないことにはな」 「ダメならダメでしかたないんだ。手を出した私が分不相応だったってことだろう。だがもし、この子が元気になる可能性があるなら助けてやってくれないか」 「わかった」  頷いた教授は、「というわけで」と実に向き直った。 「葛木、ちょっと調べてみてくれ。今いろいろ任せてる中で申し訳ないが」 「大丈夫です。むしろ、こんな貴重なものを見せていただけて僕の方こそうれしいです」  実の言葉に、相談者の男性はほっとしたように笑う。 「大事にお預かりしますね」  男性に約束した後で鉢植えに視線を戻し、心の中でそっと話しかけた。  ───これからゆっくり元気になろうね。  植物は言葉で答えることはない。  けれど態度で応えることならできる。  かくして、その日からアマーラとのつき合いがはじまった。  まずは今の状態を調べるために慎重に鉢から出す。もの言わぬ植物の声を聞くには根を看るのが一番だ。茎や葉など地上部の大きさに対して鉢が小さいように思えて、ぱっと見た時から気になっていたのだ。 「うーん。そっか……」  取り出してみれば案の定、根詰まりを起こしていた。  古土を落とし、黒褐色に傷んだところをていねいに取り除く。枯れた下葉を切り取ってきれいにしてみたところ、幸いにも深刻な事態には至っていないようだ。ほっとしながら記録用の写真を撮り、培養土を入れた一回り大きな鉢に植え替えた。  これで根の方はしばらく様子を見るとして、葉にも手入れが必要そうだ。  状態があまりよくなく、ところどころ茶褐色の斑点が出ている。高温多湿な時期に発生しやすい病気のひとつだ。持ち主の男性はあまり濃い肥料は与えていなかったそうだから、これなら水和剤を散布すれば回復してくれるかもしれない。 「頑張れ」  弱ったアマーラをそっと撫でる。どんなに苦しくても訴える言葉を持たない植物たちの助けになれたら───手をかければかけるほどそんな思いが募るのだった。  そうやって甲斐甲斐しく世話をするうちに実の思いが通じたのか、アマーラは少しずつ元気になっていった。鉢植えに懐かれたなんて知らない人が聞いたら耳を疑うだろうが、少なくともゼミの仲間は慣れっこだ。一ヶ月後、小さな蕾をつけたアマーラを見て誰もが実の功績を讃えた。 「葛木、すごいじゃん!」 「これ育てるのが難しい花なんだろ? おまえ、どんな魔法使ったんだ?」  魔法だなんてとんでもない、ただ普通に世話をしていただけだ。  何度もそう言ったのだけれど、謙遜と取った周囲は実に対して一目置くようになった。話しかけたり、時々撫でたりしていただけだから、自分としては特別なにかしたつもりもないのだけれど。  それでも、アマーラが元気になってくれたのはよかったし、教授も持ち主もよろこんでくれてなによりだった。毎日観察データを取ったおかげで勉強にもなったし、アマーラの生命力に触れるにつれ、将来は植物を看るためのお医者さんになりたいとの思いを強めるきっかけにもなった。  そんな、ある夜のこと。  いつものように遅くまで作業をしていた実は、ふと呼ばれたような気がしてパソコンの画面から目を上げた。誰かの声がしたわけではない。あくまで勘だ。けれど顔を向けると案の定、アマーラの蕾が少しずつ開きはじめるところだった。 「わっ。咲きそう!」  ガタガタと音を立てながら椅子を立つ。いつもなら備品もていねいに扱う実だが、今は構っていられない。慌てて鉢に駆け寄ると、蕾にそっと顔を近づけた。  大きく膨らんだ蕾は翡翠色の萼からうっすらと青色が透けている。開花が近いからか、その色が日増しに濃くなっていくのをわくわくしながら見守っていたのだ。  そんなアマーラが、まるで実だけに見せるというように誰もいない研究室でその羽根を広げようとしている。それなのに、こんな時に限って教授らは留守だ。この貴重な機会を見逃したなんて知ったら絶対に悔しがるに違いない。 「そ、そうだ。スマホ」  急いでスマートフォンを取り出す。  せめて動画で撮っておこう。きっと大事な資料になるだろう。  けれど、ファインダーを向けたところで手がふるえていることに気づく。ドキドキして昂奮を抑えられないのだ。慌てて卓上三脚に固定して、撮影開始ボタンを押した。  シンと静まり返った部屋に、ピッという電子音が響く。スマホの画面と目の前の様子を交互に見ながら、実は固唾を呑んで開花の一部始終を見守った。  それは、蝶の羽化のような神秘的な光景だった。  乳白を帯びた翡翠色の萼がゆっくりと離れ、その下から目の覚めるような青い花びらが現れる。はじめは灰色がかった薄いブルー、それから空色、群青へと中心に向かって濃さを増していった。まるで奇跡を凝縮したような花だ。幾重にも花弁を広げ、凜と咲き誇る姿はまさに、限られたものだけが見ることのできる奇跡そのもののように思えた。  ───なんてきれいなんだろう…………。  あまりの美しさにため息も出ない。瞬きをするのさえ惜しくて、ただただ花を見つめていた、その時だった。  ファインダーに人影らしきものが映りこむ。はじめはアマーラばかり見ていて気づかなかったものの、シルエットがはっきりしてくるに従ってさすがの実も気がついた。 「……え?」  顔を上げたのと、目の前に見たこともない男性たちが立ったのはほぼ同時だった。 「わっ」  驚いて後退った拍子に椅子が倒れ、ガタン! と甲高い音を立てる。実は録画を止めるのも忘れて呆然とふたりの訪問者を見上げた。  どうも外国人のようだが、留学生だとしても見覚えがない。片や高貴な雰囲気を纏っておだやかに微笑み、此方野性的な風貌でどっしりと構えている。  どちらもすごい迫力で圧倒されてしまう。こんな人たちがいったいなんの用だろう。  身を固くする実に、長髪の美男子がどこか困ったように眉尻を下げた。 「すまない。やはり驚かせてしまったか」  そう言いながらふたりはゆっくりと歩み寄ってくる。そうしてアマーラを覗きこむと、ほう…、と感嘆のため息をついた。 「じつに見事だ。この花はそなたが?」  問われるままこくりと頷く。 「こっちの世界でこいつを咲かせるとはな……」  もう片方の男性も眉を寄せ、感心したように唸るばかりだった。  ───もしかして、褒められてる……?  うまく事態が飲みこめないながら、総合的に判断するとどうやらそういうことらしい。 「そなたは、ほんとうに心根の美しいものなのだな。それが表にも現れている」  美丈夫が眩しいものを見るように目を細める。  おだやかな笑みの中、その眼差しが熱を帯びているように見えて思わずドキッとなった。どうしてそんな目で見るんだろう。そして自分はどうしてしまったんだろう。目を逸らせないでいるうちに、胸がきゅっと苦しくなる。  どれくらい見つめ合っていただろう。野性的な風貌の男性が美丈夫を肘でつついた。 「俺は間違いないと思うぜ。こんだけの力がありゃ、アラバルカにも緑が戻るだろう」 「あぁ。私も確信した」 「決まりだな」  頷き合ったふたりがあらためてこちらに向き直る。 「おまえを探していた。やっと見つけた」 「そなたは、私たちが求めていた〈緑に愛されたもの〉そのものだ」 「え? えと…、それはあの、どういう……?」 「気にすんな。どうせまた会う」 「遠からぬうちに私たちのもとへ迎えよう。それまで、どうか元気で」 「えっ、ちょ…、あの……っ」  追い縋る間もなく、ふたりの姿がふっと消える。  あとには実とアマーラの花だけが残された。 「今の、なんだったんだろう……」  まるで夢を見ていたみたいだ。思いついて撮った動画を再生してみたが、驚いたことにそこにふたりの姿は映っていなかった。彼らがいたはずの空間はぼんやりと暗く、実の声だけが再生される。姿も声もまるで残っていなかった。 「まさか、幽霊、とか?」  口に出した途端、ぞわっとしたものが背筋を伝う。できることならこの手の話は丁重に遠慮したい方だ。この動画をどうしたものかと思いながらもう一度見返してみたところでようやく、稀少な花の開花という決定的瞬間が撮れたことに気がついた。 「そっか。これ、大事なデータだった」  勢いに任せて消さなくてよかった。今はとにかく教授たちに伝えなくては。  急いで動画を編集し、サーバーに上げてメールを送る。  すると、あっという間に助手やゼミ仲間が駆けつけてくれて研究室は大騒ぎになった。なにせ奇跡の代名詞のような花が咲いたのだ。教授やアマーラの持ち主からも昂奮気味な返事が届いた。  皆でお祝いだなんだと盛り上がっているうちに、ぞっとしたことなんて頭の中からきれいさっぱり消えてなくなり、目の前の花のことで胸がいっぱいになる。  ───よく頑張ったね。ありがとう。  この子がちゃんと咲けてよかった。奇跡に立ち合うことができてしあわせだった。心の底からそう思う。  だからこそ考えもしなかったのだ。  この経験が、後に自らの運命を決定づけることになるなど───。

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