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エピローグ

 2ベルが鳴るのと同時に客席は闇に包まれて、入れ違いに舞台の上だけが憧れのように眩しく照らされる。中央には一台のグランドピアノが、風をはらんだ白帆のような音響壁に囲まれて、ピアニストの登場を待っていた。 「小林慈雨(じう)様、御招待」  そう言って渡された席は中央よりもやや上手(かみて)側。前から十一列目。関係者席ではなく、優ちゃんが下見のときに実際にピアノの前に座って会場全体を見渡して、この席を指定した。チョコレート色のスーツを着て座るオレの顔には舞台を照らす光が反射して届く。  客席の照明が落とされるのと連動するように人々の声も潜められ、今のうちに喉の調子を整えておこうとする咳払いの音と、びろうど張りの椅子の上で居住まいを正す衣擦れの音だけが響く。  それすらも落ち着くと人々の視線は舞台向かって左側の音響壁に取り付けられた扉に向けられて、自分の呼吸音すら聞こえそうなほど静まり返ったとき、タイミングを過たずに燕尾服姿の優ちゃんが舞台の上に歩み出てきた。パンプスの靴音が一層人々を惹きつける。  すらりと高い身長に小さな頭、最近短くした髪は後方へ撫でつけられ、黒目がちの三白眼に今日はコンタクトレンズを嵌めている。衣装は優ちゃんの演奏の動きに合わせて仕立てたスワロウテイル、ホワイトタイ。ヌメのついたピークトラペルが上品な光を放つ。  青木優一郎ピアノリサイタルツアー最終日のチケットは発売初日に売り切れた。その期待が拍手の洪水となって優ちゃんに向かう。  二〇〇〇人近い人の目と耳を独り占めにする優ちゃんは、ピアノの燭台に左手を掛け、客席全体を満遍なく見回して、口元には微かに笑みを浮かべる余裕すらあった。  これから人前でピアノを演奏し、披露することが嬉しくて仕方ないのだ。そういう意味で、この人は天賦の才を持っていると思う。目立ちたがり屋は才能だ。  会場全体を自分の胸に抱き込むように頭を下げ、一呼吸静止した瞬間が拍手のピークで、優ちゃんが頭を上げるのと同じ速度で音量は下がり、静寂が始まる。  優ちゃんはベンチタイプのピアノ椅子にスワロウテイルの裾を跳ね上げて座った。鍵盤と自分の身体の距離を微調整し、ペダルの踏み心地を確かめると、いつもの通りに目を閉じて、照明の眩しさに目を慣らすため、端正に整った顔を天井に向けて深呼吸を一つした。  それから鍵盤に向かって顔を下ろしながら目を開け、ゆっくりと鍵盤を見渡して、弾きはじめのポジションに両手を構える。  もう一度軽く息を吸い、息を止めて弱起から始まる鍵盤を丁寧に押した。  八十八ある音の中から、なぜショパンはその不安定な音を最初の一音に選んだのか。丁寧に研究しつくされた演奏は、作曲者への敬意と、青木優一郎にしか奏でられないすすり泣くような音色で、人々の心を切なく絞めつける。  美しい、と感じたときにはもう人々は青木優一郎の演奏に魅了され、全身がピアノの音色で満たされて、昼間に学校で友達と喧嘩したことや、職場の上司に嫌味を言われたことなど全部忘れてしまう。  そして彼のプログラムを聴き終える頃には、日常の些細な行き違いや俗っぽい争いなど、全て許せる天人のような笑みをライトに輝かせるのだ。  芸術は、人々の人生を少しだけ生きやすくする力がある。  その力をもう一度信じようと決意して再び舞台に上がった優ちゃんの姿に、オレは口の中で 「だいじょぶ!」 と呟いた。  希望と絶望を行き来しながら洩らす溜め息、恋する人を思うあまりの狂気じみた甘美、殺意、妄想、夢想。見上げる月。午後のうたた寝。牧神たちの戯れ。きらめく水しぶき、軽やかに走り回ってからかうニンフ。ピアノからはじき出された音は映像と物語を伴って会場を駆けめぐる。  ツアーの間、何度も何度も演奏し練り上げてきたプログラムを今日は存分に弾き切った!  ピアノから手を離した瞬間、優ちゃんは笑顔で両手を握りこぶしにし、聴衆は椅子から蹴り出されたように立ち上がって拍手した。もちろんオレも一緒に拍手した。 「ブラッボー!!!!!」 今まで何度も何度も叫んできた言葉を、オレは十一列目の席でぐしゃぐしゃに泣きながら笑って飛んで跳ねて腹の底から力の限りに叫んだ。 「優ちゃーん! ブラッボー!」  優ちゃんは舞台の上からチラッとオレを見て、ほんの少しだけ左の口角を上げ、白いシャツを着た胸に手を当てると改めて客席全体を見回し、深く深く頭を下げた。

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