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エピローグ

土曜日のいつもの時間。 俺の想い人はそこに姿を現した。 今日は初春にしては暖かくて、柔らかな日差しが心地よい日で、再会…いや出会いには最適な日だと思った。 そこは近代的なガラス張りの建物でさ、その人はいつも小難しそうな分厚い本を、いつも同じ窓際の席で読んでいる。真面目に勉強する様になって視力が落ちたのか、その人の端麗な顔によく似合うノンフレームの眼鏡をかけて。 一心に活字を追う伏せられた瞼や、時々ページを捲る綺麗な指先に目を奪われて、俺はいつも長いことその建物の外から彼を観察してしまう。 彼の所在は、もう大分前から知っていた。 俺が通っていた大学からはちょうど正反対に位置している遠い大学に通い、心理学を専攻している。 彼とは偶然出会わなければならないから、大学に突入する訳には行かないし、道端でばったりというのもせっかくシチュエーションを選べるのに微妙だ。 そんなある時、彼が毎週土曜日の午後、大学近くの図書館に通っている事に気づいた。 太陽の光が柔らかく差す静かなそこは、理想的な出会いの場だった。 それでもすぐに会いに行かなかったのは、自分自身が変わらないと、また下らない嫉妬とかエゴで彼を傷つけるかもしれないと思ったからだ。 あともう一つ。彼の隣に立つには、絶対的な権力が必要だとも思った。彼を落とそうと狙うライバル達と、平等にかそれ以上に渡り合い駆け引きができる絶対的な権力が。 だから、中途半端な自分と決別することにした。それを内外的に認めて貰うのにこれだけの時間がかかってしまった。 いつも見ているだけで手の届かなかった彼に、今日ようやく話しかけられる。この日をどれだけ待ちわびただろうか。もう彼と別れてから1年もの歳月が流れていた。 これまで彼のいる時間には一度も足を踏み入れた事のなかったそこに入り、真っ直ぐ想い人を目指した。 彼はまだ気付かない。目を伏せ、先と同じ体勢で。 「ここ、いいですか?」 向かいの椅子の前でそう声をかけると、彼のページを捲ろうとしていた手が止まった。 そして、その白く研ぎ澄まされた顔貌がこちらを見上げるのが、走馬灯でもないのにスローモーションで見えた。 毎週同じ曜日、同じ時間に同じ所に行くのは、もしかしたらアイツに見つけて欲しいという真相心理が働いたからなのかもしれない。 あれから1年、毎週同じ行動を繰り返した。いつしかそれは俺にとってなくてはならない時間になって、静かで明るいこの席で心理学の専門書を読むのが俺にとっての休息の時間になっていた。 同級生は気のいい奴らばかりだったけど、年齢差だけでは埋められない溝をどこかに感じていた。 俺の18からの3年間は、忘れようと思っても忘れられない濃厚な時間だったからだ。いい意味…はそんなにないから、悪い意味で。 アイツに言わせればガキっぽかった俺の内面は、たぶん急速に大人になることを余儀なくされて、今でもその歪みに苦しむ事だってある。 全ての元凶は、兄ちゃんだった訳だけど、そう自覚していても、俺はやっぱり兄ちゃんが大切で、兄ちゃんの為に何かできることはないのかと考えるのが好きみたいだ。 変だと思う。お互いに成人した男の兄弟なのにこんな風に思うのは。 でも、俺がこんなに熱心に心理学を勉強しているのは、俺を憎いと言った兄ちゃんを理解したくて、救いたいと思ったからだ。 俺がこれまで生きてきた行動原理が『兄ちゃん』だったから、もうそれは仕方ないんだと思う。 俺は兄ちゃんに愛されて救われたから、俺が兄ちゃんの事を救いたいと思うのだって、変えられない。 でも、前みたいなやり方じゃだめだから、共依存にならない様に、敢えて兄ちゃんとは距離を置いている。たまに耳に挟む聡司さんの話によれば、兄ちゃんは『快人』として少しずつ友人を作ったり周りと打ち解けられる様になってきたみたいで、以前よりも明るくなったって聞くから、俺はそれだけでもあの時ちゃんと兄ちゃんと決別できてよかったと思うのだ。 『ここ、いいですか?』 そう声をかけられて正面を見上げた俺は暫く呆けていた。 「初めまして」 そう微笑んで目の前に座る男をまじまじと見ても、俺は何の反応もできずに呆けたままだった。 別れてから暫くは、もしかしたらアイツは探してくれるんじゃないかってたぶん期待してた。だからあんなことをわざわざ宣言してしまったんだろう。 でも、もう1年も経ってしまって、探してないんだろうなと思う様になっていた。同じ都内とはいえこんな遠くにいる俺とアイツがばったり会う確率なんて殆どないだろうって半ば諦めていたのだ。 「綺麗な人だなって、いつもそこから見てました」 「……」 「こうしてここに来るまでに時間がかかってしまってごめん」 「……こ、と…」 「まだフリーなら、俺と付き合ってくれませんか?」 「誠っ!」 一から知り合いたいなんて自分で言った癖に、その名を呼ばずにはいられなかった。 そこにいるのは確かに誠なんだって確かめたくて、ツンとする目の奥を鼻を啜って誤魔化して、しっかりとその姿を目に入れた。 顔も、体つきも、何も変わらない誠だ。少しだけ精悍になったけど、表情だって、優しい俺の好きだった誠だ。誠…。 ふと胸元に目を移すと、その首には『M』のネックレスがかかっていた。 俺の目線に気づいた誠がフッて笑った。 「これ、験担ぎ。俺と快人が出会えたのって、これのお蔭だろ。ただの兄さんの嘘だったらしいけど、それでも俺はこれに感謝してる」 俺の3年間、悪いことばかりじゃなかった。兄ちゃんに振り回されてばかりだったけど、確かにその嘘のお蔭で俺は誠と出逢えたんだった。 「快人、返事聞かせてくれない?前みたいに、後回しにして忘れるのは勘弁な」 イタズラっぽく笑った誠がすごく愛おしい。 ようやくまた会えた。 もう二度と離したくない。 「誠……俺を見つけてくれてありがとう。俺も、誠と付き合いたい」 「やっと願いが叶った」 そう言った誠の幸せそうな笑顔を、俺はずっと忘れないだろう。 でも、もしも忘れてしまっても、これからは誠はいつでも側でこうして笑っていてくれる。 それって、何て幸せだろう。 でも、やっぱり忘れたくない。 これから誠がくれる幸せな時間を、全部。 Fin.

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